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ワールドエンド・レメゲトン 2  作者: 五十鈴 りく


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75/80

*74

 ルーノは永遠に目覚めないチェスに寝台を譲ったまま朝を迎えた。自分は寝台に背を預け、もたれかかっていただけで、気づけば朝だった。時間の感覚が乏しい。

 フルーエティの存在を意識していなかったけれど、どうやらずっと壁際にいたらしい。ようやく目を向けたルーノに、フルーエティは言った。


「フランチェスカの亡骸をヒスペルトに見せ、それから葬儀を行え。契約の印は消えている。フランチェスカと悪魔は無縁であったと証言させるといい。せめて死後には汚名を雪いでやれ」


 ピュルサーは、チェスを護るために契約をしたはずだ。それがチェスが死ぬ原因のひとつとなった。もしかすると、アケローン川のほとりでチェスの魂に詫びているのだろうか。

 皮肉なものだ。


 ルーノはこのままでいたかった。チェスを葬るのが嫌だった。

 けれど、それではチェスが可哀想だと、心を殺してフルーエティの言葉に従う。

 フルーエティが連れてきたヒスペルトは、チェスの亡骸を前にして緩くかぶりを振った。そうして、一度祈るような仕草をすると、チェスの軽く組んだ手の平を覗き込んだ。


「……文献によりますと、悪魔が憑いた者には契約の印と呼ばれるものが手の平に現れるそうです。フランチェスカはいつも手袋をしておりましたが、見たところ手にはなんの印もございません。……なんと悪辣な言いがかりでしょうか」


 その文献とやらには、契約者が死ねば印は消えるとまでは記されていなかったらしい。ヒスペルトは目元を押さえ、押えた手の下から涙を零した。


「潔白を信じてやれず、疑いの目で見てしまったことを悔やんでも悔やみきれません。自ら命を絶つとは、フランチェスカの絶望はどれほどのものだったのでしょう。このように早まったことをせずにいてくれればと、今さら申しても詮方なきことではございますが……」


 若い命が消えたことを嘆く。ルーノは、素直に泣けるヒスペルトが羨ましかった。


「葬儀の手配を頼む」

「……はっ」


 ヒスペルトはチェスのために迅速に動いた。それは、ある意味償いであったのかもしれない。

 チェスにはエリサルデにさえ見劣りしないような立派な葬儀が用意された。


 ただ、ルーノはその葬儀に参列することができなかった。

 体がいかれた。高熱を出し、立つこともできぬほどであった。揺らめく視界の片隅に、魂になったチェスが最後に会いに来てくれたような気がしたけれど、きっとそんなものはルーノの願望が見せた幻だ。


 ろくに食事もせず、ようやく熱が下がってルーノが動けるようになった頃、チェスはすでに墓石の下だ。

 冴えない顔色の痩せた姿で、手向けの花を抱えたルーノがチェスの墓の前に来ると、そこには獅子の姿をしたピュルサーがいた。チェスの墓を護るようにして寄り添い、体を横たえている。

 ルーノがやってきても人型になることはなく、軽くまぶたを持ち上げただけであった。


「……おい、ピュルサー。アケローン川でチェスに会ったんだろ? チェスはどうした?」


 すると、尻尾がパシン、と地面を叩いた。それだけだ。鳴き声ひとつ上げない。


「ララはマルティたちが始末した。チェスは喜ばないだろうけどな」


 語りかけてもピュルサーは返事をしない。チェスが死んだのはルーノのせいだと言いたいのか。それとも、葬儀に出られなかった不甲斐なさを責めているのだろうか。

 そう思ったけれど、ピュルサーの金色の瞳を見てわかった。そうしたことではない。


 ピュルサーはただ、チェスの死を悲しんでいる。死した今、契約は切れたはずなのだ。それでも、ピュルサーはまだ縛られている。心が忘れきれないでいる。

 ルーノと同じだ。いつまでも、いつまでも胸の中にチェスがいて、いなくならない。それなのに、触れることも叶わない。


 その気持ちがわかるから、当分の間、墓守をしていればいいと思う。他の人間が怯えて墓参りに来れないとしても、墓を暴くような愚物も寄せつけぬと思えば丁度いい。

 真っ白な花束を墓に備える。こんな花束を手に、純白のドレスに身を包んでいられたら。そんな思いをきっとルーノはいつまでも持ち続ける。




 マルティとリゴールがほどなくして戻った。平然とした顔つきでマルティはルーノの自室にて、フルーエティに報告する。


「あの女、自分が解放された時のことはよくわかっていませんでした。気を失っているうちに地上に運ばれたのでしょう。……目が覚めて最初に会ったのはどんな相手だったか訊くんですけど、要領を得なくて」

「……お前が散々痛めつけるから、正気を保てなくなったのだ。順序が逆だというのに」


 リゴールがそうぼやく。すると、マルティは茶化すことなく吐き捨てた。


「ハッ、そんなの我慢できるかって。今だってまだ物足りないってのに」

「物足りないといっても、もう欠片すら残っていないだろうに」

「他人事みたいに言うなよ。お前だって散々切り刻んだじゃないか」


 ララの末路は二人の会話から伝わった。しかし、憐れではない。それ相応の罪を犯した。僅かたりとも憐れむつもりはない。


 むしろ、譲ってやるべきではなかったかとさえ思う。ルーノが手ずから切り刻むべきだったかと。ピュルサーも混ぜてやりたかった。

 そこでフルーエティがひとつ嘆息した。


「それで、あの女から何か得られた情報はないのか?」


 すると、マルティとリゴールは我に返り、フルーエティに向けて畏まる。


「情報というほどのこともないのですが……自分に救いの手を差し伸べてくれたのは、美しい天使様だったとかなんとか」

「かなり錯乱していたので、信憑性に欠けますが」


 美しい天使。

 タナルサスもフルーエティと同様に整った容姿をしていた。一見しただけでは悪魔というよりも天使に見えるかもしれない。


 それから、とマルティは言った。


「実は、ピュルサーのヤツ、チェスが毒を煽った時のことを覚えていないんです。そばにいたはずが、気がついたら手遅れだったらしくて。ピュルサーが気を失っていたなんて、そんなことができるのはやっぱり限られた存在かと……」

「ピュルサーが動けぬ隙に、その相手はフランチェスカに近づき、毒を渡して何かをささやいたのではないでしょうか? 彼女が飲んだ毒は、地上のものではないように思います」


 上級悪魔であるタナルサスにはピュルサーも敵わない。人よりもはるかに強い力を持つ悪魔でさえ、敵が同じ悪魔では護りきることができぬのだ。


 タナルサスがすぐに攻めてこなかった理由がようやくわかった。じわじわと内側から崩し、脆くなったところを一網打尽にするつもりなのだろう。悪魔らしい卑劣な手だ。


 ルーノはフルーエティを見据えた。


「なあ、向こうが攻めてくる前にこっちから打って出るのはどうだ? いつまでもこうしていたら、また何か仕掛けてくるだろ」


 この時、ルーノの目は闘技場にいた頃に戻っていたのではないだろうか。

 フルーエティの表情に、どこか憐みのようなものを感じたと言ったら、フルーエティは鼻で笑うだろうか。

  

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