*73
チェスが死んだと、そんなことが信じられるわけがない。
これは何かの作戦なのか。仮死状態であるのかもしれない。これからどうにかして息を吹き返すはずだ。
『――それはない。これはフランチェスカの意志だ』
フルーエティの思念がルーノに直接語りかける。
『お前が王位を捨ててもいいなどと言うからだ。フランチェスカはそれを恐れた。自分がお前の足枷になり、ひいては国が瓦解することだけは避けたいと考えていた』
「……っ!」
ルーノが感情に任せ、考えもなしに喚いたからだと。
チェスは本当に、人形のように綺麗なままだった。外傷はどこにも見当たらない。
「へ、陛下……っ」
ヒスペルトが声を震わせる。周囲がざわざわとうるさかった。これではチェスも落ち着かない。
ルーノはチェスを抱えたまま、謁見の間を後にする。誰も、追ってくる勇気のある者はいないだろう。
寝室の寝台の上にチェスの体を横たえる。柔らかな寝台にチェスの体が浅く沈んだ。
ルーノはチェスの手を組ませようと、華奢な手を取った。少しずつ熱が逃げて、間接が滑らかに動かなくなる。ルーノはチェスの体を損なわないようにゆっくりと肘を曲げさせ、そうしてチェスの右手の手袋を外した。手袋の下に契約の印はなかった。契約者が死ねば消えるものらしい。
そこでハッとした。まさか、そのことをチェスは知っていたのだろうか。死ねば消える。死ぬ前に体を調べられては困るから、この契約の印を消すために自死した――などという可能性はないだろうか。
そもそも、外傷がないのだ。首にも手首にもなんの跡もない。
では、服毒したのか。チェスはどこにそんなものを隠し持っていたのだろう。
――こんなことを考えていても意味がない。
すべては今さらだ。
チェスが二度と蘇らないのなら、理由なんてもうどうでもいい。
「……なあ、オレのこと置いていくんだな。国の心配はしたくせに、オレの心配はしてくれねぇのかよ」
責めたところで謝ってくれるはずもない。
まだ現実を受け入れられないのか、涙は出なかった。心も、凍ったようだ。それなのに、指先だけ震えが止まらない。
ルーノは両手でチェスの顔に触れた。その時、ルーノは左手の指輪に目を留めた。それは、ラウルの形見である。
それを見て、ゾッとした。ラウルがチェスを連れていってしまったような気になった。
その指輪を震える手で抜き取り、そうして力任せに投げつけた。パァン、と音を立て、指輪はどこかにぶつかり、見えなくなった。
こんなことをしても無駄だ。愚かだ。ルーノは自分の額をチェスの額に擦りつける。いつまでもこうしていようかと思った。
ピュルサーとの契約はチェスの死をもって切れたのだろう。ピュルサーはどこかへ行き、ここにいない。生前のような情はもうないのか。
その時、ルーノの背にフルーエティの声がかかった。
「……ピュルサーならばアケローン川のほとりだ。死者の魂に別れを告げていることだろう」
アケローン川。
罪深い死者の魂が行き着く場所だという。
――チェスの何が罪深いというのか。あんなにも心優しかった娘が。
「悪魔との契約者は魔界へ落ちる。しかし、フランチェスカの魂はそれほどの深みに落とされることはないだろう」
微罪で済むということか。ピュルサーはその魂を護ってくれるだろうか。
「死後のことに干渉しきれるわけではないが、多少のことはな」
「……オレもチェスの魂に会わせてくれ」
かすれた声で、フルーエティの方を見ないまま言った。すると、フルーエティはつぶやく。
「やめておけ。生前とまったく同じ者であるとは言えん。それに、フランチェスカはそんな自分をお前にさらしたくはないだろう。美しいままの思い出を抱えていてやれ」
心の中に宝物として、大切にしまっておけと言う。
どうしてこんなことになったのだ。チェスがレジスタンスになど参加しなければ、ルーノとも出会わなかったけれど、生きてはいられただろう。そう考えると、レジスタンスを立ち上げるきっかけとなったエリサルデのことすら恨めしい。
――しかし、一番の元凶はなんだ。タナルサスか。
それとも、ルーノが中途半端な情けをかけ、ララを生かしておいたからいけないのか。
あの時、止めなければよかったのだ。
チェスが死に、ララがまだ生きている。これはおかしなことではないのか。
いつの間にかフルーエティの他にリゴールとマルティが来ていた。彼らもまた、チェスの死を共に嘆いてくれるのだろうか。
「ルシアノ、牢の中にいるあの女をおくれよ」
マルティがそう言った。その声は、いつものように弾むことなく、重たく腹の底に沈む。
ルーノは薄暗い目をして振り向いた。マルティは今までに見たどんな時よりも、ゾッとするほどに凄みのある笑みを浮かべている。無言のままのリゴールもマルティと同じ気持ちでいるのだろうか。
「城じゃあ殺らないよ。魔界に持って帰って――どうしてやろうかな。ピュルサーに残しておいてやりたい気もするんだけど、多分無理。僕も、抑えきれないや」
チェスから例の少年の俤が薄れていても、やはりただの人間とは価値が違ったのだ。静かな、それでいて揺らめく炎に似た憤りがヒシヒシと感じられる。
だから、ルーノは言った。
「ああ、やるよ。好きにしろ。自分の罪を思い知らせてやれ」
もう、慈悲など欠片もない。
あの時と同じだ。レジェスを殺したパトリシオを剣で貫いたあの時と。
ただ惨たらしく死ねと思う。
マルティは赤い舌で唇を舐めた。リゴールは犬歯を見せて歯を食いしばっている。
フルーエティは――。
「それでお前の気は済むのか」
静かに問うた。
ルーノはかぶりを振る。
「済むわけねぇだろ。チェスを殺したのは、この世界だ」
そこに含まれるルーノも、チェスが死に至る原因である。
運命は、どこまでもルーノを弄ぶ。
何も持たずに闘技場の中にいたルーノが、フルーエティによって外に出され、それからいくつかのものを手に入れた。けれど、現状はどうだ。
再会した老臣も、愛しい娘も、手に入れて、そうして喪った。
まるで運命は、奪うために与えたのではないのかと思えてしまう。
ルーノの手には何ひとつ残らぬようにできている。
今はもう、そうとしか思えなかった。




