*72
廊下に出ればすぐに騒ぎとなっていた。静かであったのは皆が声を潜めていただけのことで、そこに立てば異質な空気が肌を刺すように感じられる。
ルーノの顔を見るなり、皆が慌てて頭を垂れた。顔を伏せている方が気が楽なのではないだろうか。
落ち着いて考えたいとルーノが自室に戻ろうとすると、ヒスペルトが杖を突きながら後ろに続いた。
「陛下、お話が……」
「なんだ?」
不機嫌さを隠さずに言った。
答えはしたものの、足は止めない。ヒスペルトがルーノに言いたいことなどわかっている。だから、聞きたくなかった。
健脚なルーノにヒスペルトが並べるはずもない。階段を上がるのがやっとだった。ルーノはそんなヒスペルトを振りきるようにして歩む。ヒスペルトは息を切らしながらルーノの背に向けて鋭く言った。
「陛下、以前とは状況が変わったのです。あの娘はお止しください……っ。今は大事な時なのです、陛下、どうか、どうかご理解頂きたく――」
ギリ、と奥歯が砕けるほど噛み締めた。ヒスペルトの声がいつまでもルーノに追いすがるようだ。
それでも、どんなに懇願されても、ルーノがほしいのはチェスだけなのだ。それが赦されないなど、そんなことがあってたまるかと、ルーノは怒りのはけ口を探した。
部屋に戻ると、先回りしていたフルーエティがいた。ヒスペルトとの会話も筒抜けであったのだろう。
「フランチェスカは部屋に戻しておいた。今はピュルサーがついている。それがなくとも誰も近づきはするまいが」
悪魔つきの娘になど、誰も近寄りたくないというのか。
これまで、チェスは懸命に働き、その素直さからも周囲に可愛がられていた。それが、こんなことで脆く崩れ去るものなのか。
大体、悪魔つきだからなんだというのだ。そもそも、悪魔だからといって話が通じないわけでもない。悪魔は悪しき存在だという先入観が先走っているだけだ。
あんなにも優しいチェスが爪弾きにされる現実が我慢ならない。
フルーエティは頭に血が上っているルーノに淡々と言う。
「人は理解できぬものを恐れる。それは今に始まったことではない。……それで、お前はどうするつもりだ? フランチェスカのことは諦めるか? そうすれば、フランチェスカはこの城を出てどこかでひっそりと暮らして行けるだろう。そうしてやるのが一番だと、お前もわかっているはずだ」
わかっている。
誰もチェスを知らないところへ行き、そこで穏やかに暮らしてゆければ、それがチェスにとって最良のことである。けれど、そこにルーノがついていってはいけないというのだろう。
「当たり前だ。国王がいなくなれば、家臣が総出でお前を探す。そうすれば、フランチェスカも静かには暮らせぬ。それとも、二人して魔界で過ごすか? 地上の太陽が恋しいなどとは言うなよ」
手加減を知らぬ悪魔だ。ずけずけと胸を抉るようなことばかり言う。
ルーノは疲れて、感情が擦りきれそうだった。
「……なあ、それでも、たまになら会いに行ってもいいよな?」
結局のところ、そんな決断しかできない。
それでもフルーエティは、そうだな、と言って軽くうなずいた。
その翌朝のこと。
朝から家臣たちの様子がおかしかった。城中が葬儀の席か何かのように暗く沈んでいる。
謁見の間に座すルーノに、ヒスペルトが潜めた声で言った。
「昨日捕らえたあの娘ですが、牢で喚き散らしております。フランチェスカは、陛下の代役であった青年を本物の王太子殿下だと信じていた頃はその青年に媚び、本物の王太子殿下が現れてからは手の平を返して本物に乗り換えたのだとか。あれは――」
「あの女は狂っている。耳を貸すな」
ヒスペルトは、はぁ、と小さく返事をする。
しかし、まだそれだけ喚ける元気があったようだ。ピュルサーの爪に引き裂かれ、痛みに呻いているかと思えば、そんな時でさえチェスを貶めてやりたい思いが止まらないのか。
母や姉、妹――ルーノを取り巻いていた女たちは皆、美しく優しかった。闘技場にいた際、褒美にと寄越された娼婦たちも翳をまといつつも決して悪ではなかった。
ルーノが甘かったのだ。あの時、止めなければよかった。ララを生かそうなどと考えたルーノがいけなかった。どんなに姿が美しかろうとも、根っから腐った女もいるのだ。
そんな女にチェスが傷つけられることが耐えがたい。近いうちに処刑してくれようと本気で考えた。処刑などせずとも、ピュルサーの爪から毒が回り、勝手に死ぬかもしれないけれど。
一人の女を愛しいと想う同じ心で、もう一人の女を憎む。
人の心とはおかしなものだと心底思った。
――何か、何かもっといい案はないのだろうか。
フルーエティが、ルーノがいなくなれば家臣たちがルーノを探すと言う。それならば、ルーノに見立てた死体でも用意し、ルーノが死んだことにするのはどうだろうか。もう二度と戻れないけれど、それでもチェスのそばにいてやりたい。国はどうすると問われても、好きなヤツに王位をやると言いたい気分だ。
責任など、もともとルーノには背負えない。体には確かに王家の血が流れていても、ルーノは所詮愚物なのだ。父のようにはなれない。
そんなルーノが王位に立った時点で、この国は再建すると見せかけて再び亡びにかかってしまうだけなのだ。
誰か、もっと適任者がいれば。この玉座を喜んで譲る。
そんなことばかり考えてしまう情けない己の心を読むのは、いつもフルーエティだけだ。冷たい目をして正論を吐く。嫌な悪魔だ。
けれど、この時、ルーノの心を読めたのはフルーエティだけではなかった。チェスもまた、ルーノの考えなど見通していたのだ。
それをもっと早くに察知してやれていれば、この結末は避けられただろうか。
女の悲鳴が聞こえた。
ハッとしてルーノが王座で顔を上げると、謁見の間にいた人々がザッと脇に逸れていった。壁際で女官たちは震え、衛兵たちは手にした槍をとっさに構えた。
そこに現れたのはピュルサーである。
そして――。
ピュルサーが横抱きに抱えるのは、チェスであった。ドレスではなく、普段着である。意識がない様子で、ぐったりとピュルサーの腕の中で身じろぎひとつしない。
「チェス!」
ゾッと、背筋が凍った。それは、まぶたを閉じたチェスの顔があまりにも青白かったからだ。
ルーノは王座から飛び退き、人目もはばからずにチェスに向けて駆け出した。いつも帽子を目深に被っているピュルサーからは表情らしきものは窺えなかった。
ピュルサーにとって、小柄なチェスなど軽いものだ。危なげもなく抱え、そしてルーノがそこに到達した時、ピュルサーはルーノにチェスの体を押しつけた。
「……俺は行くところがある。チェスのことを頼む」
「なんだと?」
ピュルサーが、ルーノにチェスのことを頼むと言う。それはひどく珍しいことだった。意味がわからないなりにもルーノはチェスの体を受け止めた。意識のない体は重たく感じられる。
その時、ルーノはようやく事態を正確に知ったのだった。
「――嘘だろ?」
声が震えた。手が、足が、体中の震えが止まらない。
ピュルサーはルーノに背を向け、そして駆け去る。いつの間にか、入れ違いにフルーエティとリゴール、マルティがいた。
けれど、そんなことはどうでもよかった。
まだあたたかいチェスの体は、それでも明らかに違ったのだ。
まるで眠っているかのようにして、息絶えていた。




