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チェスにはまだ、詳しいことを話せていない。それでも、チェスのために雇う女官を選ぶとだけ伝えた。
「私はいいのに……」
恐縮した様子でチェスは王座に座るルーノの隣にいた。ただし、着ている衣装はいつもよりも上等なドレスを用意させた。チェスの瞳と同じ色のドレスだ。あまりに装飾過多では着てくれないだろうと、なるべくさっぱりとした控えめなものにするように言っておいた。
細身の体を包むドレスの飾りけは少ないものの、それ故にチェス自身が持つ美しさ、瑞々しさが際立って見えた。髪も結えるほどには伸びており、軽くまとめて宝石のついた髪飾りで留めてある。
少し着飾っただけでこうも化けるかと、ルーノは終始落ち着かなかった。ルーノだけでなく、誰もが見惚れ、無意識にため息を漏らしていた。それをわかっていないのは本人だけだ。ずらりと控えている衛兵たちでさえ、男だというだけで見せたくないと思ってしまう。
「よくない。ちゃんと選べよ」
ついぶっきらぼうに言ってしまうのは、そんなチェスを直視できないからである。チェスもドレスなど着たのはいつ以来なのだろう。慣れない格好に照れてもいる。そんな仕草のひとつひとつも愛しい。
ヒスペルトは少し離れた位置からルーノたちをチラチラと見ていた。
そして、女官長が新たに募った女官の候補者たちを連れてやってきた。恭しく頭を垂れ、それから女官長は候補者たちを列にして謁見の間へ入れた。候補者たちは殊のほかゆっくりと歩む。
王の目に適えば妃になれるのだと、女たちはこれから始まる仕事そっちのけでそんなことばかり考えているのだろう。美しい娘たちであったが、媚びを含んだ目や口元に閉口してしまう。
彼女たちは自らの容姿に自信があったのだろうけれど、ルーノの隣に控えるチェスに目が行くと、笑顔がスゥッと消えた。再び作り直した笑顔はどうにもぎこちない。
ただ、そんな女たちのことはどうでもよかった。
最後の一人、ひと際目を引く美貌の女にルーノは目を奪われた。それは、チェスも同じであった。
美しい黄金色の長い髪、肉感的な体。
忘れていた。記憶の彼方に葬り去っていた。それが噴出するようにして蘇る。
ルーノのそばでチェスが小さくつぶやいた。
――ララ、と。
「――では、一人ずつご紹介させて頂きます」
女官長の声がどこか遠い。ルーノもチェスもララに釘づけであった。ララは表情らしきものを作らず、人形のようにしてそこにいる。
チェスはチラチラとルーノを見た。ルーノはその視線に答えることができなかった。チェスはララが何をしたのかを知らない。知らせていない。だから、この再会の意味をわかっていないのだ。
ルーノがフルーエティに生かせと頼んだ。生きていて、ここへ来た。
――不思議はない。それでも、体中にじっとりと嫌な汗をかいた。
ララは、ラウルの死を知っただろうか。ラウルが偽者であり、ルーノこそが王太子であったことをすでに知ったのだろう。王座にルーノが座していても驚いた様子はない。
もともと、ララはラウルに想いを寄せていた。そう言ってしまうのも少し違うのかもしれない。ララは王太子に見初められたかったのだろう。だからこそ、ラウルが気に入っていたチェスを陥れようとした。
今、ララがこうして現れたのは、それでも王の妃の一人になろうとする野心からのことだろうか。もしかすると、身分などは関わりなく、単にラウル個人を好いていたのだとしたら、死を招いたルーノに復讐心が湧いたのかもしれない。
わからない。何故、今になってここに現れたのだ。
ルーノはこの時、女の執念の恐ろしさを知ることになるのだった。
「こちらは――」
女官長の言葉をかき消すほどの声で、ララは突如笑い出した。高らかに響く笑い声に、ルーノは心臓をつかまれたようなおぞましさを感じた。チェスも胸元で両手をギュッと握り締めている。ララの視線は、そんなチェスに留まる。その時、笑い声もピタリとやんだ。
「あ、あなた、陛下の御前で一体何を考えているの!」
女官長の叱責に動じもせず、ララはチェスだけを見て口元を歪めた。
「久しぶりね。王様に取り入って、お妃になるのだそうね? 綺麗に着飾って、貞淑そうな顔をして、あなた、たいしたものね」
「ラ、ララ……?」
チェスが剥き出しの敵意に怯えた。ルーノはヒスペルトに目で合図をし、ララを捕えるよう促した。王に対しての不敬だ。牢にぶち込んで、もう二度と出さないでいい。この女は禍を呼ぶ。
しかし、衛兵たちがその細い腕をつかんでも、ララは笑っていた。高らかに笑い声を響かせ、そうして禍々しい目をして言い放つ。
「皆、騙されているの! その女は悪魔つきよ! 嘘だと思うのなら、その女の体を調べてみなさいよ! ちゃんと証拠があるんだから!!」
ゾッと、全身の血が凍りつくような感覚だった。それでも、呆けている場合ではない。ルーノはとっさに立ち上がり、叫んだ。
「その頭のおかしい女を早く下げろ!!」
衛兵たちはララを捕らえるが、ただの女一人だという油断もあった。見境なく暴れるララの爪に引っかかれ、脛を蹴られ、怯んでいる。
そんな時、獣が喉を鳴らす音がした。ハッとして見遣ると、そこには獅子になったピュルサーがいた。黄金の鬣をなびかせ、太く力強い脚で跳躍する。
ララの二の腕から膝下までを鋭い爪がザクリと裂いた。甲高い叫びが謁見の間に響き渡る。
衛兵たちも驚いてララを放し、壁際に引いた。ピュルサーは一撃では満足せず、鋭い牙を剥き出しにして咆哮する。
「駄目! やめて!!」
ピュルサーの明確な殺意を、チェスが止めた。こんな女に慈悲など要らない。
ルーノもかつてはそれを与えた。それが仇になったのだ。
けれど、主であるチェスが命じるなら、ピュルサーはララにとどめを刺すことをしない。グルグルと唸りながら、ピュルサーはララから離れる。その隙に、衛兵たちは痛みにもがき苦しむララを捕縛して連れ去った。
緋毛氈の上に赤い血が落ちたところで目立ちはしなかった。それでも、この場の空気は得も言われぬおぞましいものとなっていた。
「……皆、下がれ」
ルーノはそう告げた。
「し、しかし、陛下――っ」
ヒスペルトが壁際で腰を抜かしていた。そんな彼に、ルーノは精一杯の落ち着きを持って声をかける。
「平気だ。この獣はオレを害することはない。早く下がれ」
「しかし……」
「下がれ!!」
強く言うと、皆、従わぬわけにはいかず、ルーノたちの方を気にしつつも去った。皆の視線がなくなると、チェスは力が抜けたのか、その場にへたり込んだ。ピュルサーは、しなやかな体をチェスに寄せ、額を擦りつけては慰めているように見えた。
悪夢だった。




