*6
赤黒い色合いの空。黒い雲。
峡谷に吹き荒ぶ風の音は哀切な嘆きに似ていた。
暑くも寒くもなく、そのくせ見た目のせいか心地よさは微塵もない。
崖の先で、地についているはずの足さえ震えた。このところ、高所に馴染みがなかったせいではない。見下ろしても下まで見通せぬ深み故のことでもない。
大気が、地面が、すべて自分を拒絶しているような気になるのだ。この世界で自分は異物だと詰られているようで、いたたまれない。
「ここは――」
喉がひりつく。やっと声を出したルーノにフルーエティはため息で答えた。
「ここは俺の領地だ。それだけ血の臭いをさせていれば精霊は騒ぐ。もとより業の深いお前だから、生きたまま来る場ではないな」
フルーエティの領地というのなら、ルーノのいた世界とは違う、俗に魔界と呼ばれる場であるのだろう。
「その恰好を改めるために連れてきただけだ。そこで立ち尽くしていてもろくなことはない。……ついてこい」
恰好を改めると、湯殿にでも入れてくれるつもりなのだろうか。
フルーエティが歩む先に、貴族の館のようなものが聳えていた。それはフルーエティの住処であるのだろうか。
蔦が這い、薄暗さを醸し出しつつも、それは十分に整った建築物に思われた。ルーノが立ち止まって崖の上に建つ屋敷を見上げていると、フルーエティも立ち止まって振り返った。
「悪魔のくせにヒトのような暮らしをしているとでも言いたげだな。ヒトが悪魔らしい暮らしをしているのかもしれんぞ」
などと言って意地悪く微笑する。
「……悪魔らしいとか、他の悪魔がどうかなんてオレにわかるわけねぇだろ。少なくとも、ここ最近のオレよかいい暮らししてそうだけどな」
王宮にいた時ならばまだしも、掃き溜めと言われた暮らし振りだ。フルーエティは軽く息をついた。
「本来ならばヒトなど我が屋敷へ入れようとは思わんが、お前は曲がりなりにも王族だ。戦乱の火種でもある。客として扱ってやろうというのだから、ありがたく思え」
戦乱の火種とは、嫌な言い方だ。風が吹けば飛ぶほどの火種だろう。一体フルーエティはルーノに何を期待しているのだろう。
そうして、主の帰還にフルーエティの屋敷の僕たちはいっせいにひれ伏した。驚いたことにというべきなのか、僕たちはフルーエティほど人に似た容姿をしていなかった。頭が獣であったり、爬虫類であったり、あるいはそれらが混ざっていたり。
人らしいとしても、角があったり、肌の色が異常なまでに青や緑がかっていた。二足歩行でシンプルな服は着ているものの、明らかに人ではない。悪魔、魔族、そう呼ばれるに相応しくはある。
「おかえりなさいませ、フルーエティ様」
顔にも青光りする鱗のある男がフルーエティの手前で丁寧に頭を垂れた。フルーエティはひとつうなずいてそれを受けると、僕に告げる。
「この人間の身なりを整えてやれ」
僕は、主であるフルーエティの指示に異を唱えるつもりなどなかっただろう。ただ、驚きが勝って抑えきれない様子だった。
「人間、ですか……」
それをフルーエティは淡々と返す。
「そうだ。終わったら俺に声をかけろ」
「はっ……」
去りゆく主に再び頭を下げ、僕は小さく息をついた。顔を上げた際、蛇のような虹彩の目でルーノを見た。そこに驚きは薄れ、けれど歓迎しているとは言い難い色が浮かぶ。
血まみれの汚い人間など、歓迎されるはずもないのが道理だろうか。
「では、こちらへ」
ルーノは無言でそれに従った。けれど、長い廊下を歩きながらやはり口を開いた。
「やっぱり、人間がここに来るのは珍しいことか?」
僕は一度振り向き、そうして表情を変えずに言った。
「ええ。私共が知る限りでは初めてのことです。何せ、我が主は人間がことのほかお嫌いですので」
人間が嫌いだと。
思えば、パトリシオは言っていた。大陸ひとつを滅ぼした悪魔だと。
そこに住む人間、老若男女問わず虫けらのようにすべて消し去ったということだ。
悪魔には慈悲などない。人間であるルーノでさえ、ずっと心は麻痺したまま、同じ人間を手にかけ続けたのだ。フルーエティがそんなものを持ち合わせておらずとも不思議はない。
けれど、それならば何故ルーノを拾うのか。
考えても、フルーエティの考えなどルーノにわかるはずもなかった。
僕が湯殿に連れてきてくれたけれど、そこは僕たちが共同で使う湯殿であった。広さははそれなりにある。闘技場の湯殿よりはそれでもよほど綺麗だ。あそこは砂と黴に塗れ、常に不快な臭いがした。体を洗ったら長居することなく去りたい場であった。
今は誰もおらず、それでも石のような質感の浴槽に満たされた湯は湯気を立てていた。薄暗くはあるものの、見えない暗さではない。昼夜の判別もできない場であるから、この暗さが時間のせいなのかもよくわからなかった。
「何か新しい服を用意させて頂きます」
そう言って、僕は去った。
もともとルーノが着ていた服は粗末なものである。それに加え、血で黒ずみ、洗ったところで着られたものではない。ただ、ここにまともな服があるのかどうかも怪しい。
フルーエティが着ているような服は、どこから袖を通すのかすらわからない。僕たちの着ている服もそう変わりがなかった。
とりあえず、考えてもわからないことは横に置き、ルーノは血に汚れた服を脱ぎ捨てた。だからといって、起きてしまった出来事と綺麗さっぱり切り離されるわけではない。レジェスの血は、服を通り越してルーノの肌にまで染みついた。
体の汚れと汗を流し、湯船に浸かる。頭を一度空っぽにして、そうして一から考える。
魔界の悪魔の屋敷で、剣も持たずに裸で湯殿にいる自分も随分図太くなったものだと。闘技場に入れられたばかりの頃はもう少し繊細で、夜になるとは声を殺して泣いたものが――。
ふと、指にはめたレジェスの指輪が目につく。くすんだ銀は、よく見るとただの変色ではないのかもしれない。黒ずんでいるのは、焼けた跡のようにも見える。これについて、レジェスから話を聞いたことはない。こうしたものを持っていたことすら知らなかった。
金銭的な価値はない。それは見ればわかる。だとしても、レジェスには価値のあるものだったのだろう。
――しかし、湯殿に入ったはいいが、ここから出ていくことを考えると気が重くなった。さっぱりはしたものの、どんな顔をして出ていこうかと。
図太くなったと思った途端、こんな些細なことを気にする自分もいて、何やら愚かしくも感じられる。そう、ルーノは元来そうした性質であった。些事を思い悩み、引っかかる、そうした普通の子供であった。
王太子としてそれではいけないと、強くあろうとした。そうした記憶も今さらながらに蘇るのは、闘技場の外に出られ、ようやくただの人間に戻れたと思うからかもしれない。
「服を用意しておきました。どうぞお召しください」
僕の声が湯煙の向こうからした。フルーエティがどんな目的で連れてきたのかは知らずとも、それなりに丁寧な扱いはしてくれている。闘技場よりずっと丁寧なのだから、おかしなものだ。
ルーノはようやく腰を上げ、浴槽から抜け出した。




