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タナルサスとセシリオ王子の動向を気にしつつも、ルーノ自身忙しさに目が回りそうであった。それでも、即位した以上は王として背負わねばならぬことが多くある。
そんなルーノの救いは、やはりチェスであって、フルーエティであっただろうか。チェスが微笑んでいれば、それで少なからず癒される。フルーエティは、おかしなものだが、やはりそこにいると安心感を覚えてしまうのだ。
それでも、タナルサスとの件が落ち着けば、フルーエティはルーノの手を放し、魔界へ戻るつもりなのだ。
その頃にルーノは、自らの足でしっかりと立ち、このティエラの王として君臨してゆけるような人物になれているのだろうか。
フルーエティたちが去っても、チェスにはそばにいてほしい。それを強く願っている。
すると、いつものようにヒスペルトが廊下を歩きながらルーノに小言を言う。
「陛下、即位されたのですから、王妃をお娶りくださいませ。独り身では民が惑います。王妃は国民の母たる存在なのですから」
「……わかった。妃を娶る」
ルーノはそう答えてみた。ヒスペルトは目を限界まで見開いたかと思うと、今度は目を細めた。小言の礫をすり抜けたいばかりにルーノが適当に答えているとでも思ったのだろうか。
生憎と、ルーノは本気で答えていた。
ただ、ヒスペルトがそうした表情になった理由はすぐに語られた。
「あの娘は、武将であったウルタードの遺児だそうですね」
ヒスペルトを甘く見ていたのはルーノの方だった。それは的確にルーノの胸を突く台詞であった。グッ、と呻いて言葉を失ったルーノに、ヒスペルトは嘆息してみせる。
「陛下はあの娘にご執心なのでしょう?」
「そ、えっと……」
しどろもどろになった。王の威厳もあったものではない。そんな態度を見せてしまっては、言い逃れもできるはずがなかった。認めたようなものだ。
ヒスペルトは途端にニヤリと笑った。
「よろしいのではございませんか」
「は?」
「ウルタードの娘です。ウルタードは子爵位にあり、先王の信頼の厚い武人でした。聞けばあの娘はレジスタンスとして活動し、陛下をお助けしたそうではないですか。民衆が好みそうな美談でございます。それに、あれだけ整った容姿をしていることですし、申し分はございません。ですから、よろしいのではございませんか?」
一向に後宮を作る気もなく、世継ぎのことなど念頭にないルーノが娘に関心を持っているのだ。この際、余程のことがなければ話を進めたいのかもしれない。
「娶るなら正妃としてだ。それでもか?」
後でつべこべ言われたくない。先に念を押しておく。
それでも、ヒスペルトはうなずいた。
「ええ、もちろんでございます」
本当に、それが叶うのだろうか。
だとしたら、ルーノにとっては幸運なことである。
何せ、フルーエティたちのこともすべてチェスは事情を知っている。ルーノがありのままで嘘をつかずにいられる人間はチェスだけなのだ。
そう考えると、こんなにも相応しい相手はいないのではないだろうか。
母が父王に何時も寄り添っていたように、チェスがそばで支えてくれるのなら、ルーノも今以上に頑張れる。そうして、王であるルーノがチェスを護ることもできるはずなのだ。
そうなればいいと思った。
ただし、王妃に迎えようというのなら、ルーノ自らがチェスにそれを伝えねばならないだろう。嫌だと、そんな窮屈な暮らしはごめんだと、断られる可能性もあるのだろうか。
そう考えて、浮かれていた心が重たくなる。浮かれるのはまだ早すぎた。
チェスも女官としての仕事をこなしている。この城にいる女官たちは半数以上が新たに入れた者であるから、その中にチェスが紛れていてもなんら問題はなかった。
むしろ、ルーノと面識があるということでルーノの居室の清掃などもチェスが配属されるように仕向けてある。
まず、どんなふうに切り出せばいいのかを考えて、そうしてから捕まえようと思っていた。
けれど、その日、ルーノの居室の方に清掃道具を持って向かうチェスの姿を遠目に見た。ルーノはこれからヒスペルトと共に、謁見に来る僧侶たちと会うことになっていた。この僧侶たちは改宗を拒み、農村などに逃れて信仰を守っていた者たちだという。
ソラールに占拠されてから、この地はシエルラ信仰を強いられていたのだ。改宗した僧侶の処遇も難しいところである。国中の教会をソラナス信仰を正常に行える状態に戻すのもまた骨が折れるとヒスペルトはぼやいていた。
時間はあまりない。ないけれど、ルーノは全速力で階段を駆け上った。
ヒスペルトが見ていたら説教を食らうような振る舞いだが、見かけた者が告げ口しないことを祈った。
廊下を走ると、慌ただしい音に驚いたチェスが振り返った。ルーノはそんなチェスを小脇に抱えて部屋に押し込む。
掃除用具がバラバラと廊下に散ったけれど、そんなことに構っていられない。
急ぐあまり閉じた扉が大きな音を立て、チェスはその音に驚いて身を竦めた。
「あ、あの、ルーノ……」
ゆっくりと、時間がある時では言えない。急いでいるからこそ、勢いで今なら言えそうな気がした。
ルーノはチェスを下すと、その顔を両手で包み込んで自分に向けさせた。
「チェス、俺は王なのにまだ独り身だ。それじゃあ示しがつかねぇし、王妃が必要なんだ」
「え、うん、そう、だね……」
切れ切れに答えたチェスは、精一杯ルーノから距離を保とうとしているように見えた。顔を向けさせているのに、青い瞳がルーノから逸れる。どこか苦しそうに見えるのは気のせいだろうか。きっと気のせいだと思うことにした。
「だから、お前がなれ」
短く、わかりやすいように言った。それなのに、チェスはきょとんとして目を瞬かせた。
そうして、え、と声を漏らしたかと思うと、ひと息ついてから大声で叫びそうな気配があったので、ルーノはとっさにチェスの口を手で塞いだ。
ルーノから好意を向けられているのをわかっていたはずだ。そんなに驚くことかと言いたい。
チェスはルーノの手を両手ではぎ取ると、驚きに強張った顔で言った。
「な、そ、そんなの……私は王妃になんて相応しい人間じゃないよ。なんにもできないし、少しも立派じゃない。……つり合わないよ」
「つり合いってなんだよ? オレが立派だと思ってんのか? こんな王のところに他に誰が来るってんだよ?」
チェスが卑屈なことを言うから、ルーノまで自虐的なことを言うはめになる。
「――って、何言わすんだ」
すると、チェスは心底困った顔をした。そんなに嫌かとルーノが傷つくくらいには。
うつむくと、ポツリと零す。
「ルーノは立派だよ。ルーノのところにはいずれ、相応しいお妃様が来られるはずだから、私はあんまり多くのことは望んじゃいけないって、ちゃんと自分に言い聞かせていたの。それを――」
もし、国がソラールに占拠されることもなくあのまま存続していて、父王が存命であったなら、正直に言ってチェスを正妃に迎えるのは難しかっただろう。けれど今はルーノが王で、国は生まれ変わるところなのだ。そんな古い考えは要らない。
「王はオレだ。オレが望むものは手に入れる。オレはお前がいいんだ」
柔らかく、折れそうな体を抱き締めた。チェスが呼吸を止めたのが伝わるけれど、すぐに力を抜いてやれなかった。
「本当、に?」
苦しそうに、チェスはルーノの胸元でつぶやく。ルーノは恐る恐る腕から力を抜いた。
「なんで嘘なんだよ? 当たり前だろ」
「後悔しない?」
そんなことを言っては震えている。ルーノはチェスの髪を撫でた。
「するかよ。……そのためにはピュルサーと戦えとか言うなよ。それは無理だからな」
すると、チェスはようやく体の力が抜けたようだった。クスクスと軽く笑った。
「そんなこと言わないよ。ピュルサーはいつも私の幸せを考えてくれてるから」
「まあ、そうだな。……返事は?」
「はい」
このたったひと言を引き出すのに、こんなにも苦労させられるなんて理不尽だと思わなくはない。けれど、顔を上げたチェスの微笑に、そんな苦労も忘れた。ただただ幸福感が押し寄せる。
それは、ルーノの人生の中で最良の時であったかもしれない。




