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エリサルデが倒れたのは、ルーノとそんな会話をした約ひと月後のことであった。
日増しに食が細り、痩せこけていた。フルーエティが予見したように、そう長くはないとルーノでさえわかるのだ。
ルーノは毎日、少しの時間であっても顔を見せにエリサルデのもとを訪れた。
エリサルデは、病人の私室に王太子が足を運ぶなど恐れ多いと言っては困っていた。そのたび、ルーノは余計なことを言うなと叱った。
エリサルデが寝起きしているのは、兵舎の部屋である。状況が落ち着けば城下の一等地でも与えてやるところだが、それをする前に病に倒れた。もっとも、与えたところで受けなかった気はする。
この日もルーノはエリサルデのもとを訪れようとしていた。日が沈みかけた夕刻のことだった。
エリサルデが病みついてからは、世話をチェスに頼んだ。チェスだけでは大柄なエリサルデの世話も難しいので、時には兵士の手を借りてなんとか看てくれている。
この時、兵舎の前でチェスと会った。誰かと交代し、休むところだったのではないだろうか。
あれから、チェスとゆっくり話していない。本来ならもっと距離を縮めてしまいたかった。
けれど、エリサルデが病んでいるとわかった時から、チェスに触れることに罪悪感のようなものを覚えてしまう。エリサルデが苦しんでいる今、ルーノが幸福を感じていてはいけない。
多分、チェスもそれを察しくれている。余計なことは何も言わない。何事もなかったかのようにして振る舞っている。
それが切なくはあるけれど、仕方がなかった。
「エリサルデ様、今は眠っておいでなの。私も少し休ませてもらうね」
「そっか。オレも顔見たら帰る」
眠っているのなら、起こそうとは思わない。いや、死んだように眠っていたら、やはり揺すり起こしてしまうかもしれない。
チェスは笑ったつもりなのか、逆に泣き出しそうに見えた。
「私ができることなんてあんまりないの。ピュルサーにだって、病を癒すようなことはできないから」
「そんなこと言ったら、オレだってそうだ。無力なもんだな」
お互い、かけられる言葉は多くない。今はただ、すがれるものを探したかったけれど、悪魔にも人の命は救えない。
救えるのは神か。神は人を試すばかりで救うとは思えなかった。
ルーノはチェスと別れ、エリサルデの部屋へ向かった。若い兵士がつき添っており、ルーノの顔を見るなり椅子から飛び起き、恐縮してしまったけれど、ルーノは構うなとだけ言った。
眠るエリサルデは、起きている時よりも十も二十も老け込んで見えた。それでも、小さな寝息だけが聞こえた。そのことにほっとしてルーノは部屋を後にした。
それから向かったのは、ヒスペルトのところだ。ヒスペルトは執務室にいることが多い。その時も大量の書類をめくり、雑務をこなしていた。
「殿下……。エリサルデ殿のところへ行かれていたのですか?」
察しのいいヒスペルトは言わずとも先回りをする。ルーノは扉を閉めながらうなずいた。
「まあな。それで、相談があるんだが」
「……はい」
「オレが戴冠式をすると言ったら、すぐに手配できるか?」
エリサルデは最早助からない。それが現実だ。
それならば、死にゆく老兵のためにルーノができることはなんなのか。それをここ数日ずっと考えていた。
彼は偽者を立ててまでティエラ王国の再建を夢見た。こうして生きているうちに王都奪還が叶い、表向きは国が蘇ったと言えるだろう。
けれど、ルーノはまだ王位に就いてはいないのだ。問題が解決してからと先延ばしにした。
ただ、その問題が解決する頃にエリサルデが生きているという保証はない。
それならばさっさと王位に就き、王が不在の国ではなく、確かなものとなったところを見せてやらねばと思った。
どうやら、ヒスペルトもそれを考えていたようだ。悲しげにうなずいた。
「ええ、諸々のご用意は進めて参りました。状況が状況ですので、それほど豪華にとは申せませんが……」
「形が整いさえすればいい」
「畏まりました。殿下、とお呼びするのもあと少しのことでございますね」
理由をつけて即位を先延ばしにしたのは、重責に打ち克てる自分ではないとルーノが恐れた部分もあるのだ。けれど今、それを言っていては一生後悔する。だからこその決断であった。
ヒスペルトは本当に、戴冠式の支度を進めていた。フルーエティのように人心を読み取る力などないくせに、先読みに長けた男である。
いや、ヒスペルトでなくとも、ルーノがそうするべきだと誰もが思うのだろうか。
着実に支度は整い、ルーノがヒスペルトに切り出したその十日に戴冠式が予定された。とはいえ、国内で残っている貴族も数少なく、国外からの賓客もおらず、それはひっそりとしたものになるのはわかっていた。
しかし、そんなことは重要ではない。ルーノはエリサルデに冠を載せた姿を見せてやれればよいかと思うのだ。
戴冠式を明日に控えた時、ルーノはエリサルデに会いに行った。チェスが言うには、ルーノが即位すると聞いてエリサルデは喜んでいたそうだ。
夕暮れ時、顔を見せる。その時は眠っていなかった。起きてチェスと話をしていた。エリサルデはルーノが現れてとっさに身をよじって頭を垂れる。
「病人が頭なんて下げるな。余計な体力使ってんじゃねぇよ」
顔をしかめてルーノが室内に入ると、チェスが苦笑して自分が座っていた椅子を譲った。ルーノはその丸椅子に腰かける。この方がエリサルデと目線が合う。
「申し訳ございません……」
「いちいち謝るな。――明日はついに戴冠式だ。本来ならお前も参列するべきところだが、まあ安静にしていろ。終わってから顔を出しに来てやる」
下手に優しい言葉などかけては、エリサルデが不審に思うかもしれない。先が長くないと本人も弱気になっているように思うのだ。
エリサルデは落ちくぼんだ眼窩の奥からルーノを見ていた。そうして、ポツリと零す。
「ついにこの日が来るのですね……。本当に、長かった。私は何のお役にも立てませんでしたが、心よりお慶び申し上げます」
ルーノは一度歯を食いしばると、エリサルデの眠るベッドの縁を軽く叩いた。
「あのな、お前が何の役にも立たなかったなんて、本気で思ってるのか?」
「しかし、私は……」
ルーノの生存を信じず、偽者を立てた。言うなれば紛い物の国を作ろうとした。
けれど、それは愛国心からしたことである。それをルーノは理解しているつもりだった。
「……オレ自身はオレが『ルシアノ』であることを知っている。けどな、身の証となるものなんて何ひとつ持っちゃいなかったんだ。そんなオレが今、ここに戻って王位に就こうとしているのは、お前と再会したからだろうが」
「それは……」
「国内でも名を知らねぇ者はいねぇ、数多くの武功を持った武将のお前がいたからだ。お前がオレを認め、民に宣言したからこそ民はオレを認めた。お前がいなきゃ、オレは『本物』には戻れなかった。そこのところ、わかってるのか?」
罪にばかり目を向けたがる気持ちが、ルーノにもわからなくはない。それでも、エリサルデは私欲に走ったことはないのだ。どこまでも清廉な武人である。
エリサルデの目から涙が零れ、目元の皺を縫ってシーツに零れる。ルーノは軽くため息をつき、ジジイの涙なんて見たくねぇぞ、などと悪態をついた。けれども、少しくらいはエリサルデの胸のつかえを軽くすることができたのならいいと思えた。
そうして、戴冠の儀を迎える。
豪奢な深紅の衣装に白貂の毛皮のマントを羽織り、手には花飾りのついた王笏を持つ。ルーノはまっすぐに敷かれた天鵞絨の道を歩み、宰相ヒスペルトより冠を受けた。
この冠は保管されていたティエラ王のものである。時折セシリオ王子が戯れに被っては悦に入っていたかもしれないが、少しも損なわれずに保管してあった。
ルーノはこの瞬間からティエラの国王となった。
実感はないに等しい。国中がお祭り騒ぎで、ルーノはバルコニーに出て黒蟻のように群がる民に手を振った。それでも、心は逸っていた。
夜になり宴が始まる。けれど、ルーノはそれに出席する前に抜け出し、エリサルデのもとへ急いだ。
「エリサルデ、来たぞ」
重たい冠とマント、王笏を手にしたまま、ルーノはエリサルデの部屋を訪れた。似合わないと思っても、お似合いです、くらいの世辞は言えるだろう。そんなふうに思ったけれど、そんな言葉はついぞ聞けなかった。
入った途端、湿っぽい空気を感じた。ランタンの灯火はあるけれど、少しも明るくない気がする。
そこには、つき添っていたチェスと、そのチェスを心配したのか、ピュルサーがいた。チェスは床に膝を突き、ベッドの縁に突っ伏して震えている。ピュルサーがそんなチェスを見守って立ち尽くしていた。
ゾッと、ルーノの体を悪寒が走った。ピュルサーと目が合う。暗がりでもよく光る目だ。
ピュルサーはかぶりを振った。
「さっきだ……」
さっき、どうしたと言うのだ。
すると、闇から現れるようにして、いつの間にかフルーエティがいた。
「この男の生は、そう悪いものではなかったのではないか?」
そんなことを言う。
そうだろうか。エリサルデは不運だ。いつも、何かが外れている。
今だって、もう少し生きていれば――。
「いいや、満足して逝った」
フルーエティが言うのなら、そうなのだろうか。
セベロはこの父親を労い、迎えに来たかもしれない。エリサルデはそんな息子に今頃何を語っていることだろうか。




