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北の砦からはなんの動きもないまま、ルーノが王都を奪還して早三月が過ぎようとしていた。以前町でピュルサーが感じた気配もなんだったのか、これといって何もない。
ルーノが闘技場での劣悪な生活に慣れたように、こうしてまた王城での生活に戻っても、それに次第に慣れてゆく。とはいえ、それほどの贅沢は望まない。衣服も見苦しくない程度であればいいし、食事も飢えなければそれでいい。
この三月の間、ヒスペルトはこの国を、ルーノの亡き父王がいた頃に近づけようとしているように見えた。それならば、ルーノにも父のようにあれと思っているに違いない。
「殿下、この十年のうちにティエラの有力貴族は力を失い、もしくは命を失い、以前のように格式のある家柄という者も少なくなりました。裕福な商家の出であらば、行儀作法も身につき、美しい娘もたくさんおります。一度、そうした娘たちを集めて宴を催してみてはいかがでしょうか?」
またこの話かと、ルーノは普段はろくに身を入れて読んでもいないくせに、書物を読みふけるのに忙しいといった様子でページをめくる。
「なあ、ヒスペルト。父上は母上以外の妃に子を産ませていなかったな。側室にとって王妃である母上は絶対で、逆らうこともなかった」
だから自分もそれでいいと言いたいのだが、ヒスペルトは突いていた杖でコツン、と床を叩いた。
「王妃様は殿下を含め四人の御子をお産みになられました。だからこそです。もし子宝に恵まれなければ、いかに陛下の寵が王妃様ただお一方に注がれていたとしても、他のお妃に子をお産ませになったことでしょう。そもそも、殿下はそのただ一人ですら選ぼうとなさいませんが?」
口でヒスペルトに勝てるはずがなかった。それをルーノもそろそろ学ばねばと気づく。
「母上ほどの女がそうそういるものか」
「それはそうですが、それを言ってしまってはお終いです」
「……ヒスペルト、明日の予定だが」
「あからさまにお話をすり替えられるのですね」
「…………」
牢に十年も入っていた宰相に、怖いものなどないらしい。いつも言いたいことを言いたいように言う。佞臣ばかりでは国も亡ぶが、こう耳の痛いことばかり言ってくるのもどうなのだ。
これならばエリサルデの方がまだ可愛げもある。
「よろしいですか、殿下。近いうちにお妃を娶られなさいませ」
さらに頭が痛くなるようなひと言を残し、ヒスペルトは去った。ルーノはぐったりと本の上に突っ伏す。
今は国を整えながら、来るべき戦に備えておきたいところなのだ。フルーエティにヒスペルトをなんとかしてくれと頼んだら、鼻で笑われそうだが。
その翌日も、ルーノが中庭に出て気分転換をしていると、ヒスペルトがルーノを探しに来た。ルーノはとっさにアーケードの柱の陰に身を潜めた。ヒスペルトの杖の音と草を擦りながら引きずる足音がした。足が悪いくせにあんなに歩き回って探さなくてもいいものを。
ルーノはまた妃のことを言われるだろうと思い、そこに潜んでいた。正直、面倒だ。
ヒスペルトの足では、遠ざかるのにも時間がかかる。もうしばらくここで待つつもりでいた。
暗がりでじっとしていると、余計なことばかり考えてしまう。妃の話をされると、頭を占めるのは、いつも――。
「ルーノ!」
いきなり声がかかり、ルーノはビクリと肩を跳ね上げた。隠れているのだ。呼ばれたくない。それに、よりによって今、考えていた当人が来た。チェスは手を振りながら駆け寄ってくる。
「ルーノ、向こうでヒスペルト様が探していらし――」
そのヒスペルトから隠れているのだ。ルーノはとっさに自分が隠れていた柱の陰から手を伸ばし、チェスの手首を引いた。チェスは驚いて小さく声を上げると、よろけた。よろけて転がりそうになったので、ルーノはとっさにチェスの腰に手を回し、支えるつもりで抱き寄せた。ただ、それだけのつもりだった。
けれど、抱き寄せたチェスの体は華奢で、力を込めれば折れてしまいそうに弱々しい。その頼りなさを感じた時、何か、胸の内に渦巻いていたものが奔流のように押し寄せた。
――自分でも驚くほどに強い衝動だった。
頭で考えるのではなく、体が望むままに、本能に支配されたとでも言うべきだろうか。止めることができなかった。
細い腰を抱き、艶やかな髪に指を差し入れ、そうして勢いで口づける。チェスが驚いて身を硬くしたのがわかったのに、それでも体を離すどころかいっそう深く、激しく求めた。驚きが勝ったせいなのか、力では勝てないからか、抵抗らしい抵抗はない。
緊張がほぐれたというより力が抜けたようで、ルーノの腕にチェスの体の重みがかかる。
ようやく唇を離すと、チェスの浅い呼吸が聞こえた。
――疚しくて、目を見ることができなかった。心臓が震えて縮み上がった。
それでも、このぬくもりは現実だ。なかったことにはできない。
ルーノはぐったりとしたチェスの体を改めて抱き締めた。チェスは振り払うでもなく、ルーノの袖の辺りをギュッと握った。その意味は、ルーノには量りかねる。
何かを言わなければと思う。けれど、言葉が浮かんでこない。ルーノは気の利いたことが言えるような人間ではないのだ。自分がそれを一番よくわかっている。
ただ、出てこない言葉の代わりにチェスの髪を撫でた。
そうしていると、遠くからヒスペルトの声がした。
「殿下! どちらにおわしますか!」
苛立った声である。けれど、おかしなもので、あれほど逃げ回っていたくせに、その声が救いのように感じられた。
ルーノはチェスから体を離し、チェスがどんな表情でいるのかも確認しないままで声を上げた。
「うるさい! ここにいる!」
内心では呼びに来てくれてほっとした。ルーノはチェスをそこに残して駆け出した。顔が赤くはないはずだが、様子がおかしいとヒスペルトに言われるだろうか。
ルーノは平静を装ってヒスペルトの前に出た。
「殿下、先ほどから探しておりましたものを……」
ブツブツと文句を言われたが、ここはもう反論する気もなかった。
「悪い。で、何の用だ?」
ルーノがいつになく素直なので、ヒスペルトはかすかに眉を跳ね上げたけれど、深く追及はしてこなかった。
「この間の件ですが――」
そこから色々と長い話をされたが、ルーノの頭にはまるで入ってこなかった。ヒスペルトの声が耳をすり抜けてゆく間、ルーノはチェスの唇に触れた感覚と体のあたたかさを生々しく感じていた。
――これは、もしかすると重症かもしれない。
次にチェスと顔を合わせた時、どう言えばいいのだろうかと、悩んだ。なかったことにはできないのなら、何故そんなことをしたのかを語らなくてはならない。
――何故か。そんなことはルーノが自分に訊きたいくらいだ。
いや、わかっている。好意はあった。ただ、それが日増しに大きくなって、自分でも抑えきれなかったのだ。
チェスのそばは、王太子としての責務や来るべき戦の重圧を考えると気が重くなるルーノの、ただひとつの憩いの場であった。
チェスの気持ちも確かめないまま、それを押しつけたのはいけなかった。今ならそれもわかる。だから顔を合わせるのが気まずい。
どうしたものかと考えていると、案外あっさり廊下で行き会ってしまうのだった。チェスがびっくりしたのと同じように、ルーノも内心では狼狽えていた。ただ、それを顔に出さなかっただけだ。
チェスは顔を赤らめて少しうつむき、足早に進む。そうして、ルーノの隣まで来てすれ違いざま、小さく言った。
「あの、あれ、ね……」
「ん……」
ギクリとして足を止めたルーノを、チェスは下から見上げた。
「からかったんじゃないよね?」
顔は赤く、瞳は潤んでいる。その表情がなんとも艶めいて見えた。少年らしく見えた頃が嘘のようだ。
ルーノは心音が伝わらないことを祈りながら、ぶっきらぼうに言った。
「そういうんじゃない」
すると、チェスはそっと微笑んだ。
「うん、わかった」
それだけを言い残し、小走りで去る。その背中をルーノはぼんやりと眺めながら立ち尽くした。
わかったというのは、ルーノの気持ちがわかったと、そういうことなのか。それとも、からかわれたのではないと理解したと、ただそれだけの意味なのか。
はっきりとしないのはお互い様だろう。
それでも、チェスが見せた微笑みが目に焼きつく。少なくとも、嫌われてはいないのだと、それくらいの自惚れは赦されると思いたかった。
戦を前にした時に似て、血が沸き立つようで落ち着かなかった。思わず心臓に手を当て、静まれと命じてしまうほどには狂っていたのだ。




