*63
着々と、体制が整っていく。もしヒスペルトがいなければ、王国再建までの道のりはもっと遠かったと思える。彼は張りきり、寝食の間をも惜しんで動いた。ヒスペルトがルーノの治世でも変わらずに宰相として辣腕を振るってくれるといいのだが、無理をしすぎて倒れたのでは元も子もない。
年を考えろ、と時々釘を刺してやることも忘れなかった。
そして、エリサルデには兵力の強化を任せる。まず、国に残っているカブレラ流の使い手を募ってみるという。ある程度位の高い武門の貴族でなければ会得していないのだが、もしかすると戦のどさくさで生き延びた良家の子息がそのまま成長している可能性もある。
あまり集まらなければ、エリサルデが新兵の指導をし、見込みのある者に教えるようにとルーノは指示を出した。それから、先の戦でレジスタンスたちの中に負傷者や心的な後遺症を引きずる者がいないか気を配るようも頼んだ。立場は軍事顧問といったところだ。
フルーエティは正規軍の参謀に、リゴールは将軍に任命された。マルティとピュルサーはその副将という立ち位置になり、二人とも不満げであるけれど、所詮人間の決め事である。すぐにこだわらなくなった。
リゴールとマルティの二人は、配下を連れてティエラ王国の王都より南の町にてソラールの残党狩りをしている。コルドバは牢に少しばかり入っているだけだが、ファネーレなどはまだソラール兵がいるはずなのだ。それを片づけに行った。
日々、色々なことが移ろってゆく。
チェスはというと――。
「ルーノ!」
書物ばかりと向き合って体が鈍りそうだと思えたルーノが中庭でこっそりと剣を振るっていると、チェスが大声でルーノを呼んだ。呼んでから、他に人がいるかもしれない場所でそんな呼び方をしてはいけなかったと気づき、口を押えていた。
「ごめん、つい……」
そんなことをつぶやきながら近づいてくる。
チェスの髪は、出会った頃よりも少し伸びた。伸ばせと言ったのはルーノなのだが、そんなちょっとしたことで以前のような少年っぽさが薄れた。もちろん、現在の服装のせいでもある。
戦後、チェスはカミロたちレジスタンスと共に兵士になると言い出したのだが、ルーノが却下した。そして、女官としたのである。だから、服装もそれに見合ったもので、丸襟の白いシュミーズに朱色のビスチェ、黒いスカートといった出で立ちである。
「あのね、コルドバから『星空亭』の女将さんが来てくれたの。どうしてもひと言お祝いを言いたかったんだって」
「ああ、女将が……」
ルーノとしても世話になった。ラウルを王太子だと信じたままで、ルーノが本物だと名乗ってからは一度も会っていないけれど。
「今、会える?」
チェスが大きな目で探るように見上げてくる。ルーノはその目を直視しないで答えた。
「会う。どこにいる?」
「今、町の宿にいるんだって」
「なんて宿だ?」
そう問うと、チェスは驚いた様子だった。
「まさか、そこまで会いに行くつもり? 私が呼びに行くよ。ルーノが城を抜け出したりしたら、ヒスペルト様に叱られちゃう」
だからこそ抜け出したい時もある。王都奪還が叶ってから一度も城下へは行っていないのだ。この目で町を見たいとも思う。
「でもな、女将に城まで来させたら恐縮しそうだ。俺もヒスペルトがついてると以前みたいに砕けて話せねぇし」
「うーん、フルーエティさんに頼む? 城下まですぐに行けるから、それなら少しくらい……」
「そうだな」
――だが、ルーノたちの思念を拾ってすぐに中庭に表れたフルーエティは顔をしかめた。
「お前たちは俺をなんだと思っている?」
チェスはええっと声を上げて委縮したけれど、ルーノはフルーエティの鉄面皮が崩れるのが面白かった。
「細けぇこと言うなよ。ちょっとでいいからさ」
フルーエティは諦めたのかスッと目を細め、それから嘆息した。
「ピュルサー、来い」
と、急にピュルサーを呼びつける。ピュルサーはどこから現れたのか、音速で馳せ参じた。
ピュルサーは軍に入ってから少しは武人らしく見えるよう革の胴衣を着込み、剣を帯びていた。ただし、剣を扱うところは見たことがない。フードを脱ぎ、リゴールと同じような鍔の広い黒帽子を被っている。
「お呼びですか」
一応はルーノの兵としてここにいるはずだが、ピュルサーがかしずくのはフルーエティ、もしくは主であるチェスだ。ルーノのことなど眼中にない。
フルーエティはうなずいた。
「ルシアノとフランチェスカが城下へ行きたいそうだ。ついていけ」
「はっ」
ルーノはともかく、チェスが行くのならピュルサーは何も言わずともついていくつもりだろう。ふと、ルーノはチェスの手に視線を落とす。契約の印がある手には相変わらず指先のない手袋が嵌っている。
これは、誰にも知られてはならない秘密なのだ。
「よかったね、ルーノ。女将さんも喜ぶよ」
フフ、と無邪気に笑う。それは軽やかな笑い声だった。
『星空亭』の女将が滞在しているという宿は、以前使っていたアジトに近いところだった。あまり高級な宿は気取っていて苦手だと言いそうな気もする。
ルーノの顔を認識している者は今のところそう多くはないだろうと高をくくり、服を着替えただけで顔は隠さずやってきた。その宿は『星空亭』よりも古く、雨漏りでもしそうに見えたけれど、そんな古びた宿の前でさえ、町を行き交う人々は楽しげに見えた。国が解放されたと、喜んでいるのだろうか。
実際のところはまだ安心して暮らせる状態ではない。セシリオ王子とタナルサスたち悪魔が国内にいるのだから。
けれど、束の間の休息と思えば、その喜びに水を差したくもなかった。
チェスが宿の扉を開く。キィ、と蝶番が鳴った。
窓から差し込む光が古めかしい板敷を照らしていた。一階は食堂のようだが、昼食もすでに終えたような時間である。それでも、そこで女将は落ち着いて茶を飲んでいた。一人ではなく、働き手を連れてきたようだ。見覚えのある娘も一緒だった。
女将はルーノたちを見つけると、手にしていたカップをテーブルに戻そうとしてひっくり返した。共にいた娘が慌てても、女将はお構いなしにルーノたちの方に駆け寄ってきた。宿の者が何事かとこちらを見ている。
「で、で――っ!」
『殿下』と呼びそうになった女将に、チェスが人差し指を唇に当てて止めた。女将はハッとして黙る。それから、いつもの豪快さをどこかに置き忘れて控えめに言った。
「あ、あの、部屋まで来て頂いてもよろしいでしょうか?」
「ああ、行こう」
ルーノが答えると、女将はほっとした様子だった。女将に誘われ、ルーノたちは二階の客室へ向かう。
部屋は二人部屋で簡素なものだった。長居するつもりもないので居心地は二の次、安い宿を選んだのだろうと思えた。仕事熱心な女将が店を閉めてまでルーノに会いに来てくれたのだ。その気持ちをありがたく思う。
「このたびは祖国奪還の宿願が叶いまして、おめでとうございます。私も一国民として感謝の思いでいっぱいです。ただ……知らぬこととはいえ、殿下にご無礼ばかりを働いてしまい、なんとお詫び申し上げてよいやら……」
しどろもどろになる女将が可笑しかった。ルーノは思わず笑ってしまう。
「無礼ってなんだ? 女将のメシは俺が今まで食った中で一番美味かった。また食いに行くとは簡単に言えねぇけど、いつかは食いてぇな」
相変わらずの口調で言うルーノに、女将はほっとしたようだった。けれど、すぐに顔を曇らせる。
「殿下を名乗られていたあの人、ラウルという名前だったそうですね。しばらくお世話をさせて頂いていたので、本物の殿下ではないとわかった今でももういないというのは寂しいものです……」
それを言ってから、女将は口に出したことを後悔したのかもしれない。それが顔に表れていた。だからか、チェスが間に入った。
「王都は奪還できたんだから、もうあんなふうに誰かとお別れすることはないといいのに。きっと、これからティエラはもっと幸せな国になるよね」
「……そうなるようにしねぇとな」
ルーノはそう答えた。本当に、それを目指してルーノは精進しなくてはならないのだ。
女将はふと目を細め、うなずいた。それから、じっとチェスを見た。チェスの方が戸惑うほどに。
「ねえ、チェスカ。あんたは王都で殿下をお支えするんだね?」
「え? あ、うん。そのつもり」
すると、今度は後方にいたピュルサーに目を留めた。ピュルサーはよくわからずにぼんやりしている。
「あんた、レオだったね? いつもチェスカの周りにいるけど、嫁にもうらう気はあるのかい?」
「はぁあ?」
誰よりも先にルーノが品のない声を上げてしまった。ヒスペルトがいたら大目玉だ。ちなみに、ピュルサーは意味がよくわかっていない。
「女将さん、レオはそういうんじゃないの。私、結婚はまだまだ考えてないし」
チェスが慌てて言うと、女将は大きなため息をついた。
「何言ってんだい。あんたは家族がいないんだ。早く結婚して家族を作った方がいいよ」
身寄りのないチェスのことを気にかけてくれているのはわかるが、余計なお世話でもある。
「大丈夫よ、私は」
そう言ってチェスは笑ってごまかした。女将はまだ何かを言いたげにしていたけれど、ルーノの前で世間話ばかりもよくないと思ったのか、諦めた。
会えて嬉しかったと互いに言い合い、ルーノたちは女将と別れた。女将はこれからも『星空亭』を守り、営んでいくのだろう。それができるようにルーノが治世を整えることが女将のためにもなる。
宿から出て路地裏へ行く。こうした場所はまだ治安がいいとも言えなさそうだった。けれど、今はまだここに手を入れるほどのゆとりはない。いずれ、もう少し国が落ち着いたら、貧困に喘ぐ民にも目を向けなければならない。
その薄暗い路地裏でフルーエティを呼ぼうとした。その時、ピュルサーがふと振り向いた。それは獣のように機敏な動きだった。
「なんだ?」
ピュルサーは、刺客にでも遭遇したのかと思うような険しい顔つきになっていた。チェスが不安げに問う。
「どうしたの、ピュルサー?」
すると、ピュルサーはしばらく考え、かぶりを振った。
「何か嫌な気配がしたような……」
そこでルーノとチェスは顔を見合わせた。
「もしかして、タナルサスっていう悪魔の?」
「そうかもしれない。人じゃない気配だった」
やはり、町をふらつくのはよくないのかもしれない。あの悪魔の手先が偵察に来ていたりするのだろうか。
フルーエティのように神出鬼没であっても不思議はないのだ。
ルーノたちは急いでフルーエティを呼びつけ、そのことを語った。




