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それから、ヒスペルトは的確に動いた。セシリオ王子のもとで働いていた者たちに個々で面談し、篩い分けたのである。
十年前、ティエラ王朝が潰えても、庶民の生活は連続していたのだ。何かをして働かねば日々食べていくこともできない。祖国を踏みにじった相手に仕えることになっても、家族がいる以上は逆らえず、従うよりない。
そう、この城で働いていた人間の半数以上がティエラの民なのである。ヒスペルトはそうした者たちと話をし、信用できるか否かを決めた。残す者は残し、ソラール出身者は投獄するか北の砦まで流すかルーノに選べと言う。
「投獄すればその分食料がいる。北へ送れ」
ルーノはそう答えた。
「彼らは料理人ですが、まあ武器を振り回すこともできなくはないでしょう。それでもですか?」
処刑してもいいと、暗にほのめかしているのかもしれない。情が国を滅ぼすこともあると、少なくともヒスペルトは考えられる人間なのだ。
「戦力にはならねぇよ。放り出せ」
セシリオ王子がソラール本国に援軍を要請することはない。それがルーノにはわかっていた。
何故なら、今、セシリオ王子には悪魔がついている。本国からやってきた者たちにそれを知られたくはないだろう。
つまり、ソラール本国を巻き込まず、ティエラ内で戦を終わらせたいはずだ。料理人たちが向こうに行こうがルーノとセシリオ王子の戦いにこれといった変化はない。
「はっ。後は後宮の女たちですが」
「それも放り出せ。食費がかさむ」
あっさりと言い放ったルーノに、ヒスペルトは眉をピクリと動かした。
「殿下は女たちをご覧になりましたか? お気に召す女はおりませんでしたか?」
「さあ。見てねぇし」
「セシリオ王子の手のついた女はお嫌なのですね?」
「ん、まあ、そうだな」
適当に答えると、ヒスペルトは大きくうなずいた。
「畏まりました。後宮の女は総入れ替え致しましょう。これから募集をかけます。殿下はどういった女人がお好みでしょうか?」
真顔で訊いてくるヒスペルトに、ルーノはどう答えていいものか戸惑った。顔を片手で覆って脱力する。
「好みって、あのな、今それどころじゃねぇよな?」
「それどころではないとお考えですか?」
また、ヒスペルトのこめかみに青筋が浮いた。
「殿下はこのティエラ王国の正当なるお血筋でございます。それも、今となってはただ一人の。そのお血筋を絶やしてはなりません。一刻も早くお世継ぎをお作り遊ばすようお願い申し上げます」
そう来ると思っていなかったのは、ルーノの認識が甘かったせいだろうか。別に、女を抱くのが嫌なわけではない。
ただ、少しの引っかかりがあるだけだ。真っ先に手をつけたくなるとしたら、それは――。
「……また、追々だな」
そう言って逃げた。顔を背けたルーノに、ヒスペルトは妙に冷ややかな目を向けてくるのがわかった。
「ビクトルは整いすぎた顔立ちをしておりますが、よもや――」
「そっちじゃねぇっ!」
思わず叫んだのも無理からぬことだ。
ひどい誤解を受けるところだった。
それから、ヒスペルトのおかげでルーノは目まぐるしい日々を送るはめになった。
所作が雑だ、言葉が汚い――容赦なかった。この年で幼少期にしていたような行儀作法をうるさく指摘される。
それをフルーエティたちが楽しげに眺めているのがまた癪なのだが。
「ヒスペルトは失意の中で十年過ごした。自決しなかったのは、幽閉された状況で敵から語られる情報のすべてを信じなかったからだ。どこかに誤った情報があり、王家の誰かが生き延び、そうしていつか城を奪還しに戻る――そんなことは夢物語だと思いつつも、その限りなく低い可能性を捨てきれなかったようだ。現実主義なのか、夢想家なのか、面白い人間だ」
などと言ってフルーエティがクスリと笑う。ちなみに、ルーノは部屋で山積みにされた本と格闘していた。これだけは読むように、とヒスペルトに渡されたのだ。しかし、長く本を読んでいなかったルーノの目は文字の羅列をなかなか追えない。これならば戦っている方が気楽だ。
王族としての心得、などという本は本来暗記していて然りなのだが、それがまったくなっていないからヒスペルトは怒るのだ。
「小言は多いが、あれはヒスペルトが浮かれているからでもある。牢から出て再び王太子にまみえたのだから、まあ嬉しいのだろう」
「なんつぅ迷惑な浮かれ方だ」
とは言うものの、ルーノもそんなふうに言われては突っぱねることもできない。読みづらい文字をたどたどしく目で追っていた。
「そのヒスペルトが、俺たちにここに留まる意志はあるかと問うてきた」
ルーノはハッとして顔を上げた。すると、フルーエティは組んでいた腕を解かぬまま、軽く手を振ってみせる。
「俺たちの生涯はお前たち人とは長さがまるで違う。十年、二十年など他愛もない。ただし、老いない俺たちを不審に思う者も出るだろう。まあ、しばらくは留まれる。位を受けることを承諾しておいた」
「そうなのか……」
功労者であるフルーエティたちを放逐したのでは周りが訝しむ。そのためでもあるのだろう。
そんな話をフルーエティとしていると、扉がノックされた。
「殿下、エリサルデです。只今馳せ参じました」
ナバルレテ要塞にいたエリサルデがようやく到着したのだ。この城に入った時、エリサルデは感慨深かったことだろう。
「ああ、入れ」
そう答えると、扉が開いた。そうして、ルーノはハッとした。
エリサルデだけでなく、後方にはチェスとピュルサーがいたのだ。それほど長く離れていたわけではないけれど、密度の濃い日々であった。長く会わなかったような気がしてしまう。だからか、少しくすぐったいような気持ちがした。
顔色は悪くない。元気そうには見えた。
そんなルーノにエリサルデは頭を垂れた。
「まずは、王都奪還おめでとう存じます」
エリサルデに続いてチェスも頭を下げた。ピュルサーは相変わらずフードを被ったままで立っていたけれど。
「ヒスペルトには会ったか?」
「はい。よもや彼が存命だとは……」
「ほんとにな。しぶてぇジジイだ」
などと憎まれ口を叩いてみる。そんなルーノに、エリサルデはフッと僅かに笑った。その笑みに、ルーノは少し引っかかりを覚えた。
エリサルデの目が何かを言いたげである。フルーエティもそれを察したようで、扉の前まで歩くと、チェスとピュルサーを従えて出ていった。
エリサルデは閉まった扉をしばらく見ていたが、ひとつ息をついて振り返る。そうして切り出した。
「ラウルの葬儀は恙なく執り行いました」
「そうか。悪ぃな」
それしか言えなかった。言葉が途切れ、部屋に沈黙が続く。
ただ、エリサルデが本当に言いたいのはそれではなかった。
「……実は、サテーリテ王国側から偵察に来た小隊がいたのです」
それも懸念していた。しかし、ピュルサーがどうにかするだろうとフルーエティは言っていた。事実、ここに皆で来たのだから、問題にはならなかったはずだが。
エリサルデは言いにくそうにつぶやく。
「それが、その小隊が要塞付近をうろつくようになると、どこからともなく一匹の獣が現れたのです」
「獣?」
「あれは、獅子ではないかと……」
それは間違いなくピュルサーである。獅子になって小隊を蹴散らしたのか。
ルーノがどう答えていいものか考えていると、エリサルデは悩ましげな顔つきで続けた。
「獅子などこの辺りにそうそう生息しているものでもありません。何故急にそのような獣が出たのかはわかりませんが、その獅子はサテーリテ王国の小隊を威嚇し、要塞に近づけぬようにしているように見えました」
「そうか……。なんでだろうな」
白々しく聞こえないように気にしつつ、ルーノは相槌を打つ。
そして、とエリサルデはため息をついた後に言った。
「サテーリテ王国の兵が矢で獅子を射抜こうとしたのです。矢は外れたのですが、獅子は猛り、小隊に突撃しました」
それは怒るだろう。ルーノは、それで、と促す。
「はい。獅子が兵士にかぶりついたその時、要塞の上からチェスカがやめるようにと叫びました。相手は獣です。それなのに、その獅子はその兵士を捨て、まるで要塞を護るよう南門の前に陣取り、しばらくそこにいたのです」
「…………」
人型をしていなければ見られてもいいと思ったのかもしれないが、獅子など珍しい獣なのだ。目立って仕方がない。
「しかし、サテーリテが近づかなくなったのはその獅子のおかげではあります。あれは一体なんであったのか……」
ふぅ、とエリサルデは嘆息した。そうしてから、ポツリと零す。
「守護神と、そう思いたくなるほどの神々しさでした。それから、その獅子を制したチェスカもいつの間にやら、もう子供ではないのだと思わされるほどに凛としておりました」
守護神どころか、悪魔とその契約者である。けれど、守護神と、言いたくなるのもわからなくはない。むしろ、その認識でいいのではないだろうか。実際にフルーエティとその配下たちはルーノを護り、助けてくれているのだから。
ルーノはふと表情を和らげた。
「そうだな。その獅子はオレたちに味方してくれるつもりなんだろうよ」
「これは吉兆なのかもしれません。殿下がティエラ王国を再建するにあたっての」
エリサルデが安堵したように感じられる。この時、ラウルの死に倦み疲れた表情に光が差したように見えた。




