*59
王の居室で、ルーノとフルーエティだけがポツリと佇んでいた。ここへ来て敵将を逃す愚行を犯すなど、到底予測できなかった。
ルーノは振り返り、フルーエティを睨む。
「おい、逃がしたぞ?」
すると、フルーエティは額に手を当て、深々と嘆息した。
「そのようだ」
「あいつ、悪魔のくせにお前の味方じゃねぇのかよ」
そう毒づいてみるものの、悪魔たちの関係などルーノにわかるはずもない。フルーエティは苦々しい表情のままつぶやく。
「あいつは……タナルサスは、俺と主君を同じくする六柱の悪魔だが、気ままなヤツだからな」
以前、リゴールが教えてくれた気がする。六柱と呼ばれる上級悪魔のうち半数は同じ主君に仕えていると。タナルサスもその配下だということだ。
「気まま、な。お前の邪魔をするのが楽しいってツラしてたぞ」
ルーノの指摘に、フルーエティは無言で通す。ただし、その真顔が珍しく物語っているようにも見えた。
フルーエティの三将は競い合ってはいるものの、互いを出し抜こうとするのではなく、協力し合っている。けれど、フルーエティたちほど位が上がると、互いに牽制し合い、仲がいいとは言えないものなのかもしれない。
「あいつ、お前より強いのか?」
まず、それが気になった。
「そんなことはない」
即答してきたのは、フルーエティなりの矜持だろうか。
「じゃあここで叩きのめしてやりゃあよかったのに、なんで逃がしたんだよ?」
つい、苛めるようなことを言ってしまう。ルーノがここまで来れたのは、フルーエティのおかげであるとわかってはいるけれど、目の前で獲物をかっ攫われた虚しさの行き場がない。
すると、フルーエティは鼻白んだ。
「俺が手を出したら、手前にいたお前は即死していただろうな」
「…………」
「ヤツがその気になれば、お前など赤子の手をひねるよりも容易く首が落とされる」
それはきっと、フルーエティの言う通りなのだろう。残念ながらタナルサスの放つ気がそれを物語っていた。
「……そいつは失礼。アリガトヨ」
ルーノはひねくれた礼を言ってから軽く目を閉じた。
それでも、タナルサスはセシリオ王子を連れて北まで退くと言った。つまり、王都はルーノのもとに戻ったということになる。いろいろなことが入り乱れすぎて、実感が湧くのに時間がかかってしまった。
「なぁ、この城も王都も取り返したってことでいいんだよな?」
返事が欲しくて、フルーエティに問うた。するとフルーエティは静かにうなずく。
「当座はな。ただし、いつ向こうから攻めてくるかは知らん。その時に護りきらねば意味がない。……とはいえ、しばらく体制を整える時間はあるはずだ」
ルーノは、ん、と軽く返事をした。
その時、王の居室にマルティが駆けてきた。手前で立ち止まり軽く礼をしてみせると、いつになく興奮した顔でまくし立てる。
「フルーエティ様、なんですかあれ! ラージェのヤツに会いましたよ!」
「ラージェ?」
聞き覚えのない名にルーノが首を傾げると、フルーエティが言った。
「タナルサスの配下の将だ」
要するに、マルティたちと同じ立場の悪魔らしい。配下同士も仲が悪そうだ。マルティは憤慨している。
「あいつ、僕らの邪魔ばっかりして! 終いにはモラキュスまで出てくるから、そっちはリゴールに任せたんですけど、こっちは今、ピュルサーがいないし不利で……っ」
あ――っ、と叫んで髪をかき乱した。モラキュスというのも悪魔の将だろう。少々押され気味だったのかもしれない。マルティがこうも悔しそうなのはそのせいだ。
フルーエティは嘆息しつつ言った。
「タナルサスがセシリオ王子を連れて北の砦へ移った。そのうちにまたここまで攻めてくるつもりらしいが」
「あ、あいつら! フルーエティ様がヴァルビュート様から一番目をかけられておいでだから、僻んでるんだぁ!」
こう聞くと、悪魔社会も人となんら変わらないように思えてくる。いつも淡々としているフルーエティだが、案外気苦労が多いのかもしれない。
ルーノがそんなことを考えていると、フルーエティは僅かに顔をしかめた。
「おい、ルシアノ。一応追い払いはしたのだから、勝利宣言はしておけ」
「ん? ああ……」
城下でまだ戦闘が続いているのなら、敵の戦意を喪失させるためには早々に宣言した方がいい。
一番効果的なのはバルコニーだろうか。
ルーノは居室から廊下に出る。リゴールは階段下でまだ残兵の後始末をしている様子だった。階段を下りず、ルーノは廊下から続くバルコニーの戸を開けた。サッと吹き抜ける風が清々しく、どこか懐かしく感じた。
ついにここまで帰ってきたのだと思える。
抜身のまま手に持ったフランベルクを光に翳し、ルーノは思いきり声を張り上げた。
「皆の者、よく聞け! この王都は正当なる血筋、ティエラ王家に還った! 今日、この時よりこの地は紛れもなくティエラ王国である!」
まずは場内にいた兵たちが野太い歓声を上げた。騎兵が走り去り、この言葉を城下にばら撒くだろう。
ルーノは今、祖国の頂にいる。
落ち延びた子供一人が祖国を奪還するなどという夢物語を実現させたのだ。
ただし、こんなことができるのは人の仕業ではない。それを差し引いたとしても、ここへ還れたことがルーノには夢のようであった。
フランベルクを鞘に納めると、バルコニーの縁に手を置き、空を仰いだ。天高く、白い鳥が飛翔する。光が降り注ぐ、その空の色を美しいと思った。
太陽に目が眩んだからか、涙が出た。
そう、これは眩しいからだと、ルーノは自分に言い訳をして風を受けながら、しばらくそこに佇んでいた。




