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ワールドエンド・レメゲトン 2  作者: 五十鈴 りく


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6/80

*5

 外へ出たという実感は薄かった。


 ルーノがフルーエティの手を取った刹那、フルーエティの背面が歪んだ。ルーノが眩暈を起こしたのかと錯覚するような光景であったけれど、そうではない。何もないはずの空間が不気味に歪んだのだ。暑い日に周囲が揺らめいて見えるのにも似ていた。


 その歪みは広がり、ルーノの視界を黒く塗り潰した。瞬くこともしなかった。目を背けてなるものかと、目を見開いていた。けれど、何ひとつ見えぬ艶やかな闇であった。

 闇が走り去るように消えた時、そこは血に汚れたルーノの居室ではなかった。青い空が広がっている。見上げれば、白い雲が流れ、太陽の光が降り注いだ。


 そこは小高い丘の上であった。緑の豊かな、美しい場所。遠くには海さえ見え、辺りには白い花が無数に咲いている。砂埃に塗れるばかりのあの闘技場とは離れた場所なのだろうか。


「ここならばお前たちヒトにとって不快な場ではなかろう。ここに埋めてやれ」


 不快どころか、ルーノが望んだ通りの、もしくはそれ以上の場である。ここならばレジェスも穏やかに眠れるだろうか。

 ほっとして、ルーノはレジェスを下した。硬直した体は寝ころぶといったふうにはならず、ただ置かれたと表現した方が合っているのかもしれない。

 ルーノは草むらの中から石を拾い、それを手に、黄色の花をつけた木の近くを掘り始めた。その行動を眺めていたフルーエティが、どこか呆れた様子でつぶやく。


「その石で掘るのか? 無駄な手間などかけずとも、穴くらい開けてやる」


 フルーエティにかかれば、墓穴など瞬時に掘れるのだろう。しかし、レジェスはそれを喜ぶだろうか。ルーノが手ずから掘った穴に埋葬してやりたいと思う。死者は最早何もわからず、そんなものは感傷で、自己満足にすぎない行為だという自覚はある。それでも、誰の手も借りたくなかった。


「ヒトの情は愚かしいな」


 そう言ったフルーエティの声は、手を差し伸べたルーノを突き放すほどの響きがあった。

 悪魔に人の感情をわかれとは言わない。

 それまで、ルーノもそうした感情は二度と持てないと思っていた。死に、心が慣れたと思っていた。闘技場に来る前に姉と妹が殺された時ですら、ゆっくりと悲しむゆとりはなかった。心を凍らせてしまわないと、苦痛が蘇るから、どんな痛みにも鈍い自分になったのだと思う。


 他人との人らしい触れ合いは久し振りで、ルーノはレジェスを通して子供むかしの自分が求めていたものを与えようとしていたのかもしれない。

 望まぬ場所に無理やり放り込まれた苦しさを知るから、護ってやるつもりでいた。それが、護ることなどできなかった。護れると思い上がっていた自分に腹も立つが、この行為が贖罪のつもりでいる自分も嫌悪する。

 土塊つちくれに還って、それで魂は救われるのかと――。


 無言で土を掘るルーノの背に、フルーエティは言った。


魔界アディスの、アケローン川のほとりに向かう罪深い魂ならば会わせてやることもできるが、その子供は無事天門を潜ることだろう。業の深いお前とは二度とまみえん。安心しろ」


 レジェスは天国に行けたと。

 あの無垢な魂は、来世こそ幸せになれるのだろうか。

 だとしたら、ルーノも嬉しい。

 石をつかむ手からほんの少し力が抜けた。それをフルーエティは見ていただろうか。


 無事に穴を掘り終えたのは、空が薄紫に染まった頃だった。ルーノはレジェスを抱いて穴の中へ下りると、その体を下した。硬直した指を組ませてやることはできない。ただ、頭を撫でてやった。恐怖に固まったままの顔に、ルーノは再び詫びる。そうして、穴から出ようとした時、レジェスが首から提げていた、曇った銀の指輪に触れた。


 多分、親の形見なのだろう。レジェスには大きい。飾りけはなく、ただ模様が刻まれているだけのものだ。

 パトリシオに首から提げていた革紐を傷つけられたのか、革紐は簡単に切れた。その時、ルーノはこれをレジェスがルーノに持っていってほしいと願っているように思えた。

 手に残った指輪には血が付着し、さらに薄汚れていた。それでも、ルーノはその指輪を右手の中指にはめた。誂えたようにすんなりと指に収まる。


 馬鹿だと、自分でも思いながら、ルーノは軽くかぶりを振って穴から出た。何をしてもレジェスの死は変わらない。自分にできることももうない。いい加減にそれを認めなくてはならない。

 祈る言葉も持たないルーノは、ただ静かに遺体に土をかけた。


 掘ったばかりの柔らかな土がレジェスを覆い隠していく。土の中はあたたかいのか、冷たいのか。それも考えるだけ無駄なことだ。

 すっかりと土が被された時、無言で木にもたれかかっていたフルーエティは、斜からルーノを見てつぶやいた。


「気は済んだか?」


 その言い方に苛立つのは、フルーエティからしたらお門違いであっただろう。あの闘技場から連れ出してくれて、こうしてレジェスを埋葬できたのはフルーエティのおかげである。レジェスを殺したのもフルーエティではない。

 わかっていても気持ちにムラがある。ルーノの日常も穏やかなものではなかったけれど、今日のことはそこからもさらにかけ離れた非日常であった。 


 本来ならば礼でも言うべきだろうか。けれど、ルーノは他者に感謝を伝えることをあまりしてこなかった。今さら、それも悪魔に礼など言えたものか。


「……お前はくだらんことを気にする」


 と、フルーエティは呆れたように嘆息した。ルーノは思わず顔をしかめた。


「くだらん?」

「お前に礼など言われたいとは思わん」

「……」


 ルーノはこの悪魔とそれほど会話を交わしたわけでもないのに、フルーエティは何故かルーノの考えが手に取るようにわかる。まさかとは思うが、思考を読まれているのだろうか。


「読まれたくないのならば読まれぬように気を張れ」

「――っ!」


 読めるのだ。人の思考を、この悪魔は。

 だとするのなら、くよくよと思い悩みながらレジェスを埋葬した時、フルーエティは辟易としながらルーノの思考を聞いていたのだろう。


「勝手に読むんじゃねぇよ!」


 射殺すほどの勢いで睨みつけたものの、ただの人間でしかないルーノなど、フルーエティが恐れるはずもない。美しく整った顔はどこか鼻白んでいる。


「憐れな子供の死を嘆くのは、ごく普通の感情だろう。ただし、いつまでも感傷に浸るな。お前には為すべきことが山のようにある」


 悪魔のくせに、フルーエティはルーノが嘆き悲しむことを嘲っているのではなかったのかもしれない。そんな理解が悪魔にあるとは思わないから、そこが奇妙ではあった。


「まずはもう少し見られるように装いを改めろ。ひどい有様だ」


 血と、汗と、土と。見苦しいのはわかっている。この涼しげなフルーエティの佇まいが恨めしい。


「そうだな、お前を俺の主とするつもりはないが、客分として迎えてやろう」


 どこへと訊ねる前に、フルーエティが手を振るって現れた魔法円が、異界への扉を開いた。


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