*58
「敵の侵入を食い止めろ!」
敵兵の叫びをものともせず、ルーノたちは王城の奥深くへと切り込む。謁見の間は一階にある大広間だ。そこに王座が備えつけられており、父王の堂々たる体躯が座す様子を幼いルーノは日常的に眺めていた。
それが今、敵将であるソラールの王子が我が物顔で座っている。そう思うとやはり血が沸き立つ思いだった。
ルーノの背後に迫った兵士をリゴールが長槍でもって跳ね飛ばす。振り向かずとも、後方に憂いがないことはわかった。だから、ルーノはひたすら駆けた。
けれど、白い柱が立ち並ぶ謁見の間にセシリオ王子らしき人影はなかった。金の台座に紅い天鵞絨を張り、宝玉で飾りつけた、ひと際の高みにある王座には誰も座っていなかったのだ。
「居室の方か」
フルーエティがボソリと言う。
王の居室は城の最上階にある。ここまで来たのだから、最上階であろうとすぐそこだ。
「最上階を目指す。ここは頼む!」
リゴールに向けてルーノが叫ぶと、リゴールは槍を振るいながら大きくうなずいた。
「はっ。お任せください」
「僕もこっちで頑張ろうかな!」
マルティもここに残るらしい。ルーノについていっても、敵はセシリオ王子のみならマルティの出番はないからだ。
ルーノは階段手前の兵をフランベルクで蹴散らし、そのまま駆け上がる。フルーエティが後ろに、息ひとつ切らさずについてきた。
セシリオ王子を討ち取れば、ルーノの戦いは終わるのだろうか。ふと、それを考えた。
しかし、王子が討たれたとなれば、ソラール本国から仇討ちの軍がさらに押し寄せてくる。それを迎え撃ち、ルーノは国を護らねばならない。
結局のところ、戦はいつ終わるとも知れない――。
タン、と階段を上りきって踏み締めた靴音が鳴る。
最上階に敵兵は見当たらなかった。だが、ここへ踏み込ませた時点でソラールの負けは確定したようなものなのだ。
ルーノは躊躇うことなく王の居室へ向けて進んだ。突き当りにある両開きの扉がそれである。鍵は内側からかかっていることも予測できた。フルーエティを見遣ると、フルーエティは軽くうなずいて、城門を砕いた時と同じようにして扉の中央を魔法で砕いた。
ドゥン、と衝撃音が響き、ルーノはフランベルクの柄で扉の取っ手を叩く。取っ手は脆く崩れ落ち、さらに蹴りを入れると扉は内側に勢いよく開いた。
象牙色をしたタイルの床に、薄汚れた靴で踏み入る。ルーノが踏み越えた血の色が床に跡を残す。
「賊将セシリオ、出てこい!」
ルーノは唾棄するように呼ばわった。
セシリオ王子が父の首を刎ねたとフルーエティは言ったのだ。
あの屈強な父を討ったのなら、相当な手練れである。それでも、この戦いにフルーエティは手を出さない。セシリオ王子を討つのはルーノの役目である、と。
抜身のフランベルクを持つ手に力がこもる。セシリオ王子は窓辺にいた。窓辺で壁に飾られていたらしき華美なサーベルを手にしている。
ルーノよりも十歳以上も年嵩ではあるが、こう相対して見るともう少し老けて見えた。それは荒淫と暴食によって煤けた外見のせいかもしれない。いくら飾り立てようと、濁った目からは武人としての獰猛さが薄れている。
淡い金髪は陽の光を受けて白く見えた。顎に蓄えた髭がかすかに震える。
「貴様が……ティエラの亡霊か」
喉が貼りついたのか、かすれた声だった。ルーノはクッと短く笑った。
「ルシアノ・ルシアンテス。お前が殺したティエラ国王の嫡子だ。さあ、その首もらい受けようか」
フランベルクの切っ先がセシリオ王子に向く。
昔ならばいざ知らず、今ならば勝てるとルーノは判じた。この男からはなんの脅威も感じない。
セシリオ王子は窓辺でルーノを睨めつけながら言う。
「私を殺せば、本国から大軍が押し寄せてくるだろう。寄せ集めの兵力で防ぎきれると思うのか」
「自分が死んだ後の心配なんざしなくていいんだよ」
つい口汚くなってしまったが、今にセシリオ王子の首は胴と離れるのだ。死ねばこんなやりとりも覚えてもいないことだろう。
ルーノは流れるように自然な動きで踏み込む。最初の一撃は様子見だった。セシリオ王子もこの程度の斬撃は受け流すことができた。サーベルがギィンと音を立ててフランベルクを拒む。ルーノは舌先で唇の端を舐めた。
そうでなくては面白くない。あっけなく討ち取れては、こんな愚物に父が屠られたことになるのだ。
今までのどんな戦いより、ルーノは熱くなった。
楽しいとさえ感じた。心が躍った。
獲物を狩ることに喜びしか湧かなかった。
フランベルクの方がサーベルよりも幅広の刀身を持っていたけれど、フランベルクはルーノの手に馴染み、軽い。速度はルーノの方が上であった。フランベルクと衝突するたび、サーベルは弱り、そしてついには折れた。
真っぷたつに折れたサーベルの先が、敷かれた絨毯に刺さる。セシリオ王子は土気色の顔をして折れたサーベルを手に呆然としていた。ガタガタと震えるのは、死を間近に感じるからだろう。
ふぅ、とひとつ息を整え、ルーノはフランベルクで突きを繰り出す。
――終わった、と思った。
終わるはずだった。
フランベルクはセシリオ王子の胸を貫くはずであった。
それが、ルーノの膂力ではびくともしない。ルーノはフランベルクを繰り出したままの体勢で固まっていた。
「悪いが、邪魔をさせてもらおう」
聞き覚えのない声がする。
ルーノの剣を受け止めた手の主が言うのだ。白く細長い、形のよい指をした手が、セシリオ王子の手前に現れ、フランベルクの刀身を素手でつかんで止めた。
そんなことが起こり得るのかと、ルーノが愕然としたのも当然だ。謎の手は、腕のつけ根まで現れていた。その先は、赤光を放つ魔法円の中だ。
手が、フランベルクごとルーノを弾き飛ばした。予想以上の衝撃にルーノが体勢を崩してよろけると、肩口をつかんで転倒を止めてくれたのはフルーエティであった。
フルーエティは、牙を剥くようにしてその手の主に向けて呼びかける。
「タナルサス。何をしに来た?」
すると、その腕のつけ根から先、胸の辺りまでが現れた。――ひと目でわかる。この男は悪魔だ。
短く、こめかみのひと房だけ長く伸ばした白い髪は、赤光を受けて赤味を帯びて見える。目も赤く、唇も赤い。造作は人並み外れて整い、美しい。けれど、作り物めいた、生命の鼓動を感じないような美であった。
細身の体はやはり黒衣を着込んでいる。フルーエティよりも中性的に思えた。
その悪魔、タナルサスは赤い唇を弓なりにして笑った。
「フルーエティ、君がこのところ随分と楽しげにしているから、僕も混ぜてもらおうかと思ったのさ」
「ふざけるな。帰れ」
すげなく言うフルーエティに、それでもタナルサスはゆとりを持って笑っている。
「君の軍勢ではこの戦いも呆気なく終わってしまうだろう。それでは面白くない。僕の軍勢がこの王子について戦えば、もっと面白いはずだ」
タナルサスの細い指がセシリオ王子の首を抱き込むように滑る。セシリオ王子が緊張から呼吸を止めたのがわかった。
そうして、タナルサスは赤い瞳でルーノを見据えた。蛇に睨まれた蛙のごとく、ルーノは動けない。
「ここはお預けだ、ルシアノ王子。僕は北の砦までセシリオ王子を連れて退く。すぐに戦ったのでは勿体ない。そこでしばらく力を溜めてからぶつかろうではないか」
「何を……」
いきなりやってきて、好き勝手なことを言う。それでも、フルーエティが追い払わないところをみると、この悪魔もフルーエティと同等の上級悪魔であるのだろう。ルーノ単身で止める力などない。
「では、またいずれ。来たるべき日に会おう――」
タナルサスは魔法円の中にセシリオ王子を落とし込み、そうして自身もその中に潜る。
まるで悪い夢を見ているようであった。
これが夢でないと思うのは、フルーエティのため息が聞こえたからだ。




