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バディア平野に近づくにつれ、北から吹く風が戦を前にした緊張を伝える。寄せ集めの軍はそれでも北上を続ける。
ルーノの隣で馬を進めているフルーエティは、バディア平野の端が見えてきた頃に思念で語りかけてきた。
『そろそろか。悪魔の力をもってすれば、一刻と経たずに平らげることができるが、それでは後々説明が難しかろう。せめて一日を費やすとしよう。まず、お前が全軍へ開戦を告げろ』
ルーノは馬上で軽くうなずいてみせると、そこで馬を止めた。皆、ルーノに従って歩みを止める。
まだソラールの軍勢は見えない。けれど、この先に待ち構えているのは間違いのないことらしい。
ルーノは馬首を返すと、兵たちに向けて言った。
「斥候によると、この先にソラール軍が陣を構えているとのことだ。これより、ついに祖国奪還の戦が始まる。まずはライムントに傭兵団を率いて先陣を頼む」
リゴールはフルーエティから説明を受けていたのだろう。落ち着いた調子であった。
「はっ。王太子殿下のご期待に沿えるよう死力を尽くして参ります」
そのリゴールの後ろでマルティがニコニコとしていた。もちろんリゴールに続くつもりである。
数にして百ほどの悪魔を引きつれ、リゴールは馬を走らせた。悪魔たちは荒ぶるでもなく淡々と平野の中へと踏み入っていく。要塞の惨劇を思い出し、ルーノは胃の腑が縮むような思いで悪魔たちを見送った。
フルーエティはルーノの隣に残る。戦況を見て進軍させるためだろう。
この場でひとまず待機となった人兵たちは、しばらく誰も口を開かなかった。ただ落ち着きなく目が泳ぐばかりである。
どれくらいか経って、鬨の声が上がった。ルーノだけでなく、誰もがハッとした。
始まったのだ、ついに。
ルーノは手綱をグッと握り締めた。手が震えるのを、膝に押し当ててごまかす。
馬が大地を踏み鳴らす音、剣戟の音、雄叫び――風がそれらを運んでくる。
人兵は何を思っているだろう。怖気づくか、それとも血が猛るか。
隣のフルーエティを見遣った。
悪魔であるフルーエティは動じず、千里先を見渡すようにして前を見据えている。
実際、戦に加わっている方がましなのではないかと思うほど、待つのは重たい時間であった。ジリジリと照りつける太陽の下、皆が汗を滴らせながら待機した。フルーエティだけが涼しい顔をしていたのだ。
そのフルーエティが不意に正面からルーノに目を向けた。それは戦の始まりから一刻を過ぎた頃であっただろうか。時間の感覚も曖昧である。
『そろそろ進むぞ』
ルーノは普通に答えそうになったが、その言葉を呑み込むと皆に向けて言った。
「我々も進軍する。支度をしろ」
おおっ、と声が上がる。ただし、そんな士気も実際の戦場を見れば下がってしまうのではないだろうか。戦を知らぬ者ばかりなのだ。
父王と一緒にティエラの兵士はほぼ壊滅した。逃れられたのはエリサルデのような負傷者や退役した老人くらいだ。強固な同盟もなければ、諸国から兵を借り受けるためにちらつかせる餌もない。
そう思うと、本来、落ち延びた王太子が侵略してきた敵国から祖国を奪還することなどできようはずもないのだ。
今、それが叶いそうなのは、すべて悪魔の力である。
神はそんな邪悪な王が立つ国を見捨てたもうただろうか。
それならば、それでいい。
ルーノは神など頼みにしない。悪魔の手を取り、祖国を取り戻す。
それしか術がないのだから。
ルーノたちが平野に駆けつけると、そこには折り重なって倒れた人馬の骸が点々と転がっていた。鉄の擦れる音、叫び、耳から頭の奥底へ入り込み、いつまでもこだまする。血と、草の臭い。
激しい戦がすぐそこで繰り広げられていた。その中でもリゴールは平野を縦横無尽に駆け回り、長槍を振るっている。マルティは騎乗しているものの、武器らしきものは手にしていないというのに、敵の攻撃を躱しては振り向きざまに敵兵を蹴り倒し、馬上から叩き落していた。
そんな戦いに混ざれと、経験の少ない者に言えたものではない。ルーノはただ、馬から降りた。その馬を近くにいたカミロに押しつける。
「で、殿下?」
「俺の戦い方は騎乗していると動きが制限される。このまま行く」
「えっ、そ、そんなっ」
皆がざわつく中、ルーノは剣を引き抜き、ただの一兵と変わらぬつもりで戦に身を投じる。
駆け出すと、すでに疲弊している敵兵を難なく斬り伏せた。ルーノが振るうのは魔界の剣であり、地上の武具では防ぐことも難しい。鎧でさえ、力を込めて深く切り込めば刃が通る。
ごぶ、と溺れたような水音を立てて血を吐いた兵士の返り血を浴びぬよう、ルーノは軽く身を翻す。その兵士が汚れた草の上に倒れ込んだ後、ルーノの後方からレジスタンスたちが参戦してきた。
わあわあと、声だけは威勢がいい。
王太子自らが剣を取って戦っているのだ。ここへ来て傍観しているわけにも行かなくなったのだろう。
今はいい。気が昂っている。人も殺せるだろう。
ただし、戦がすべて終わった頃にそれらは悪夢となって彼らの身に降りかかる。殺めた人の顔、最期の声――すべてがいつまでも生々しく脳裏にこびりついて離れぬことだろう。
戦とはそうしたものだ。
それでも、共に戦い、生き抜いた人々を護ることがルーノの役目でもあるのかもしれない。
そこで、慣れぬ戦いに不覚を取り、剣を取り落として尻もちをついた男がいた。ルーノは軽く舌打ちをしてそこへ駆け戻ると、対峙していたソラール兵を背から斬った。卑怯だろうとどうでもいい。言いたいことがあるのなら化けて出ろと思う。
「で、殿下……っ。こ、このご恩は――」
「そういうのはいい。危ないと思ったら下がってろ」
それだけ言い捨てると、ルーノは再び戦場を駆けた。その脇に騎乗しているフルーエティが平然と並走する。手には弓が握られていた。
「ルシアノ、ソラール兵は徐々に後退している。敵将のアラニスは戦慣れしているせいか、判断が早い。このままだと決着がつかぬまま王都に引き返されてしまうので、予定よりも早めに仕留めるとしよう」
「リゴールが追ってるのか」
ルーノも疲れてきた。言葉は短くなる。
フルーエティはうなずいた。
「あと少しだな。……迫っている」
歴戦の武将であろうとも人の子だ。悪魔であるリゴールに敵うはずもない。
「そうか」
それだけつぶやくと、ルーノは額から滴った汗を手の甲で拭った。
すると、フルーエティはこちらに向かって突進してきた騎兵の喉笛を射抜いた。いつ矢をつがえたのか見えぬほどに早かった。フルーエティのことだから、放たれた矢はただの矢ではない。外れることはないのではないだろうか。
兵士は馬上から落ちたものの、軍馬は無傷であった。馬鎧をした鹿毛の馬は走り去るでもなくフルーエティを前に竦んでいるように見えた。
「あの馬に乗れ。急ぐぞ」
ルーノは言われるがままに軍馬に駆け寄り手綱を取る。騎手を失った軍馬は暴れもせず、従順にルーノを背に乗せた。
フルーエティが馬を走らせるその後に続き、ルーノも戦地を駆ける。敵陣の奥へと切り込んでも、ソラール兵は統率を失い、悪魔兵に押されていた。その中にありながらも、リゴールの長槍の動きが目を引く。威圧感が違うのだ。黒尽くめのリゴールは汚れて見えぬものの、その身体中に返り血を浴びているのだろう。
そのそばにはマルティがおり、敵兵から奪ったのか珍しく剣を振り回していた。ただ、ふざけているとしか思えないでたらめな振り方だった。それでも、速い。その上、細身に見えるものの力は人よりも強いのだ。そのでたらめな剣筋にかすっただけで落命する者も出る。
リゴールが追い詰めていたのがアラニスだろう。
ひと際立派な馬鎧を身につけた軍馬に跨った男は、五十歳くらいか。よく日に焼けた厳つい顔に黒々とした口髭を蓄えている。白銀の鎧は、黒尽くめのリゴールと対比のように見えた。リゴールの槍に対し、アラニスの剣は頼りない。あの剣に、かつてティエラ兵は苦しめられたはずだが、今は相手が悪い。
「ティエラ王国はすでに滅んだ。王族は死に絶えたのだ」
アラニスの怒号に、リゴールは落ち着いたものだった。
「王太子殿下はご存命であらせられます。さあ、王都への道筋を将軍の血で彩って頂きましょう。その首級、頂戴致します」
アラニスの脇を固めていた兵士たちはマルティを始めとする悪魔に蹴散らされ、アラニスは単騎でリゴールと相対する。
「この亡霊どもが!!」
雄叫びを上げ、アラニスは馬の腹を蹴って剣を振りかぶった。けれど、リゴールの槍の穂先がアラニスの首を飛ばしたのは一瞬のことであった。ゴロリと落ちた首の後を追うように、体が地面に落ちる。噴き出す血潮を眺めつつ、リゴールはつぶやいた。
「ああ、失礼。将軍の武勲に敬意を払って、少しくらいは打ち合うべきでした。私も少々気が逸ってしまったようです」
バディア平野の戦いは、その数が半数にも満たなかったティエラ軍の圧勝で幕を閉じた。




