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その後、会話を盗み聞きでもしていたのではないかというタイミングで扉がノックされた。姿を見るまでもない。フルーエティだ。
「入れ」
ルーノは短く言う。
「失礼致します」
澄ました声で断り、フルーエティが室内に入ってくる。用があったのはルーノではなく、エリサルデの方だったらしい。
「エリサルデ様、これからソラール兵と本格的な戦が始まります。明日の朝一番に我々はこの町から離れ、被害の少ない平野に陣を構えてソラール兵を迎え撃ちます。その出立の時、皆にこちらが本物の殿下であると告げて頂きたいのです。エリサルデ様のお言葉が最も説得力がありますので」
エリサルデは一度ルーノを見た。その視線が彷徨う。
「本当に大丈夫なのでしょうか? 勝算のほどは……」
「勝つしかねぇだろ。今さら退くって選択肢はねぇよ」
皆、不安は拭えない。ティエラ王国を一度滅ぼしたソラール兵を相手に、傭兵団とレジスタンスの混合部隊が勝てるなどとは絵空事だと思うだろう。
ただし、この戦いは人と人とのものではない。それをエリサルデは知らない。
エリサルデは細く長い息をついた。
「殿下の御意のままに。では、私は教会へ行って参ります」
頭を下げ、エリサルデは部屋を抜ける。教会というのは、ラウルの葬儀の段取りのためだろう。
エリサルデにとってラウルの死は自らの罪として刻まれた。
しかし、ラウルは自らが望んで王太子を騙ったのだ。声をかけたのがエリサルデだとしても、そのすべてがエリサルデの責任であるとは思わない。ラウルにも思惑があり、罪を犯した。それだけのことだ。
といっても、ラウルの責任とするにはエリサルデは真面目すぎる。そういうところが嫌いなわけではないが、もどかしくはあった。
「……で、ここから王都まで攻め込むのに人間は使わねぇのか?」
悪魔兵だけで押した方が早い。けれど、それではいけないのもわかる。
フルーエティは淡々と言った。
「まず、悪魔兵で露払いをしてやる。だが、お前が本格的に動き出したことが国中に伝われば、戦に志願してくる人間も増えるだろう。人間も適度に使え。俺の傭兵部隊だけでソラールの正規兵を壊滅させたとあってはさすがに不自然だろう。王太子が国中から兵を募り、その力をもってしてやっと、といった体が望ましい」
「やっと、な」
わざとらしいことこの上ない。
「それから、ここコルドバだが、多少の兵力は残すが独自に戦えるほどではない。本隊が王都を攻めているうちにファネーレなど他の町に駐屯しているソラール兵がコルドバ奪還の動きを見せぬとも限らん。しかし、ここに兵力を割きたくはないのでな、その時はこの兵舎の牢にいる捕虜を使って食い止めるよう指示してある」
「……まあ、仕方ねぇよな」
人質を使って籠城しろということだ。手段を選ぶほどの力はルーノ個人にはない。それはもう嫌というほどにわかっている。
フルーエティはうなずく。
「しかし、コルドバだけ奪還したところで王都は落ちるのだから、攻めるだけ無駄だということがわかる司令官がいればコルドバに攻め入ることはないだろうがな」
フルーエティは薄く笑みを浮かべていた。
各方面に心配事はあれど、ルーノは明日から本格的に王太子として立たねばならぬのだ。不安がないかといえば、ある。けれど、それを不安だと感じること自体が馬鹿げている。
これから、ルーノから国と家族を奪ったソラールの王族と直接ぶつかるのだ。その恨みを晴らせるのだと思えばいい。国を統べるだとか、民を導くだとか、そんなことは後だ。まずは戦い、蹴散らすのみ。
ここから戦いは激化するとして、フルーエティがそばにいるルーノにとって、戦はそう難しいことではないのだから。
その後、フルーエティは平野までの兵站線を確保するため、レジスタンスの数人を使い、支度をさせた。新参者が偉そうに指示をしてくることをよくは思わなかった彼らも、ナバルレテ要塞を陥落させた今となっては素直に従う。武具はこの兵舎にもソラール兵のものがいくらかあり、それをそっくり頂いた。
ただし、その前はティエラのものであったはずなので、取り返したと言った方が適切かもしれない。
ルーノの剣、フランベルクは魔界の武具だ。刃こぼれひとつしない。手入れの必要はなかった。むしろ、血を吸わせれば余計に切れ味が増すような気さえするのだ。
これといってすることも見つけられず、ルーノは兵舎の部屋を借りて早めに眠った。――とはいえ、気が昂り、あまり眠れもしなかったけれど。
早朝、エリサルデがルーノのもとを訪れた。その時、手にしていたのは衣服であった。
「殿下のお召し物をご用意致しました」
ルーノが着ているチュニックはフルーエティが用意してくれたものである。闘技場でのことを思えば随分とまともだが、こればかりを着ている。戦いで剣戟を潜り抜け、多少の綻びもある。エリサルデが用意したのは、鎧ではなく白い羅紗の戦衣。金糸で縁取りが施されていて、着ていれば誰であろうと少しばかり高貴には見えるかもしれない。
「殿下の戦い方ですと、あまり重装備を好まれないかと思いまして、胸、肩、膝と要所のみの防具がよろしいかと、それだけご用意しましたが、もし甲冑の方がよろしければ――」
「要らねぇよ、そんな重てぇの」
それだけ言うと、ルーノはエリサルデの用意した戦衣にその場で袖を通した。腕を動かしてみても問題はなさそうだ。戦衣の前を止め、胸当てなどを嵌めると、最後に背にフランベルクを背負う。ブーツだけは真新しいものでは動きが鈍るので断った。
装いを改めたからといって、すぐにルーノが王族らしく振る舞うわけではなかったけれど、それでも見られる程度には整っただろうか。ぼうっとルーノを見ていたエリサルデに顔を向けると、エリサルデはポツリと言った。
「殿下はご幼少のみぎりより父王様とよく似ておいででした。今も陛下のお若い頃のようです……」
「似てんのは見た目だけだな」
ハッとルーノは思わず笑った。父ほど立派にはなれない。見た目だけ取り繕っても中身は服を着替えるようにはいかないのだ。
それでも、血の繋がりがあるのなら、いつかは父のようになれるのだろうか。
エリサルデは何かを言いかけたけれど、その時部屋の扉が叩かれた。フルーエティだろう。
「入れ」
フルーエティは顔を覗かせ、ルーノを見遣ると言った。
「それでは、参りましょう」
そういうフルーエティは相変わらず黒尽くめの軽装である。すぐそこまで買い物にでも出かけるようだ。皆、この男は参謀だという認識なのか、それを不自然に思わないらしい。
「うむ」
エリサルデは神妙にうなずいた。ルーノも覚悟を決めて顔を上げる。そんなルーノに向け、エリサルデは痛々しい面持ちでつぶやく。
「殿下、御武運をお祈りいたします」
エリサルデとも次に会う時は王都奪還が叶った後だろう。戦に連れていってやりたいような気もしたけれど、ラウルの葬儀を任せられるのはエリサルデだけだ。それに、見送る義務もあるだろう。
ルーノは、ああ、と答えてエリサルデの言葉を受け取った。
通路を歩くも、誰もいなかった。兵舎はもぬけの殻だ。それもそのはず、兵舎を抜けた先の表にすべての人員がいた。レジスタンスと悪魔兵、それから町の人々。かなりの人数が兵舎を囲んでいた。
その人数にルーノがやや怯んだことなどフルーエティは見通しているだろう。けれど、それを顔には出したくない。
人々をここに集めたのは、フルーエティかエリサルデか。どちらだとしても些細なことである。
エリサルデはルーノの数歩前に立ち、老齢とは思えぬようなよく響く声を張り上げた。
「ティエラの民よ、この町が解放された今こそ真実を語ろう! この町を解放されたのは、ルシアノ・ルシアンテス王太子殿下である! ――ただ、我らは今まで仲間をも欺いていた。王太子殿下を名乗り矢面に立っていたのは、殿下の影である。本物の王太子殿下はこちらにおわすお方なのだ。このウーゴ・エリサルデが過去の武功に懸けて申す。こちらこそが本物の王太子殿下である!!」
そう言って、エリサルデはルーノに道を譲った。
正直、嫌だ。顔が引きつりそうだった。皆がざわめき、視線がルーノを射る。あまりに多くの目だ。闘技場の舞台よりもずっと近い。
――嫌だけれど、ラウルはもういない。ルーノに逃げ場はないのだ。
数歩前に進んだ。言葉は発さず、ただ毅然と立つ。
皆の戸惑いが痛いほどに伝わった。
「あの時、ここで戦ってた、あの……!」
「カブレラ流の使い手だ!」
「そういうことだったのか……」
フルーエティの思惑通り、あの戦いを目にしていた人々がいる。それだけでルーノを受け入れるのに抵抗が弱まるのだ。
エリサルデは続けて言った。
「殿下はティエラ王家唯一の生き残りであらせられるのだ。本来ならば大事を取って、もう少し戦況が落ち着いてから名乗りを上げられるつもりであったが、殿下たってのご希望で今となった。王太子殿下はナバルレテ要塞に続き、このコルドバをも開放してくださったのだ。これからソラール兵を駆逐し、ティエラ王家を再建される。我らがティエラ王国に栄光あれ!!」
わぁあああ、と割れんばかりの歓声が上がる。人々の熱狂に、ルーノの中の血が沸き立つ。
これほどに心が動いた瞬間があっただろうか。
今、ルーノは自らの足で踏み出す。そうして、剣を抜き、太陽に向けて高らかに切っ先を伸ばした。
「いざ、出陣する! 祖国奪還の戦いに加わる気概のある者は我に続け!」
ルーノの号令をかき消すほどの歓喜の声がコルドバの町を染める。
それをフルーエティは満足げに眺めていた。
――それは、オディウム歴四百六十三年のことであった。




