*50
この世はいつだって惨たらしい。
それを忘れていた。
諦めの境地で過ごしていた闘技場での日々が懐かしくさえある。
要塞の中にはいくつもの小部屋があり、そのひとつにラウルの遺体は安置された。真っ白な布切れに覆われたラウルの遺体に、チェスが手を組んで冥福を祈っていた。ルーノはその横顔をぼんやりと眺めながら思う。
ラウルがルーノの背を押した要因のひとつはチェスであったのではないだろうか。
嘘ばかりの中、誰にも隙を見せられない戦いを続けていて、そんな中でチェスの笑顔が癒しであったとしたら――。
考えても仕方のないことだ。むしろ、考えない方がいい。
ルーノは軽くかぶりを振った。チェスは祈りを終えると、壁際のルーノのそばに歩み寄り、そして手を取った。
「ルーノ、思いつめないで。つらかったらつらいって言って。私ができることならなんでもするから」
大きな青い瞳に零れ落ちんばかりの涙が浮かぶ。ラウルの死に衝撃を受けていないはずはないのに、今ここでルーノの心を労わってくれる。そんな心優しい娘がいてくれても、ルーノはただ単純に癒されることはなかった。
繋がる手の肉感が、男のそれとは明らかに違う。心が弱りきって、そのぬくもりに感情のはけ口を求めている。そんな今だから、チェスをそばに寄せたくなかった。
他の女なら苦しみと劣情をない交ぜにして全部ぶつけてやりたかったけれど、チェスにだけはそれをしてはいけない。
ルーノは心を落ち着けるために無言でまぶたを閉じ、チェスの手が離れるのを待った。繊細な指がするりと抜ける。ルーノは目を開けるとかすれた声で言った。
「もう平気だ。気持ちは切り替える」
情けない強がりだ。
それでも、チェスはうなずいて、うん、と答えた。大粒の真珠のような涙が頬を伝わず床に落ちる。
ラウルがルーノの背を押した要因のひとつがチェスであったかどうかはもう確かめようがない。
けれど、ルーノとラウルは容姿だけでなく、何かが似ていたのだとルーノ自身が思う。だからこそ、チェスのこともルーノの憶測からそう遠くないものがあったのではないかと感じてしまうのだ。
ルーノから数歩離れると、今度はチェスが体を傾けた。チェスも心身共に参ってしまったのだ。それを素早くピュルサーが支える。
「ごめん、大丈夫……」
今は自分のことで煩わせたくないと思うのか、チェスは無理に笑おうとする。そんなチェスをピュルサーは軽々と抱き上げ、フルーエティに告げる。
「少し休ませてきます」
「ああ、そうしろ」
表情には変化もないけど、フルーエティなりに色々と思うところはあるのだろう。今まで、何もかも順調に進んでいた。それが、今回ばかりは思い通りにならなかった。それが何故なのか、フルーエティ自身がわからぬようだ。
人の心の複雑さが、悪魔であるフルーエティには理解できぬのかもしれない。目の前にして心を読めても、その構造までは身をもって知ることがない。それどころか、今回のことは心を読めるからこその油断であったとも言える。
急な変節が起こり得るのは、人が弱いからだ。力のある悪魔ならば、自分の意志を貫くこともできるだろう。しかし、人は常に揺れ動く。
フルーエティはひとつ嘆息すると、ルーノに向けて言った。
「それでも、動き出した以上、お前には役目がある。今だけは虚勢であろうと立っていろ」
コルドバ解放の後は一気に王都まで駆け上がると言っていた。今、立ち止まってしまえば、始めたことが無駄になり、またやり直さねばならなくなる。そうすると、奪う命の数が増えていく。それがわかるから、ルーノも腑抜けている場合ではなかった。
「ああ、王都でもなんでも攻めてやる。ソラール兵は一兵も残らず叩き出す」
それだけを吐き捨てると、ルーノはフルーエティと冷たくなったラウルに背を向け、その場を後にした。拳をグッと握り締め、腑抜けた心臓に叩きつける。もう、後戻りはできない。
ルーノはこの十年乖離していた『ルシアノ』に還る。
闘技場にいた頃と同じだ。膝を突けば死が迫る。
ただ今は立って、そうして走り続けるしかない。
ルーノはラウルが使っていた指揮官の部屋で仮眠を取る。といっても、ベッドではなくソファーで軽く横になっただけだ。いるはずのないラウルの気配を感じながらルーノはそこにいた。体に染みつくのは、あの男の無念だろうか。
体も心も休まったとは言えないが、ルーノは早朝に部屋を出た。そこには当然のようにしてフルーエティがいた。壁から背を離すと、表情を変えぬままで言う。
「少し腹に何か入れろ。それからコルドバに急げ。もうそろそろソラール兵がこちらに向けて動き出した頃合いだ」
「わかってる」
短く答え、ルーノは食堂へ向かった。まだ人はまばらで、あったけれど、『星空亭』の働き手たちは動いていた。ルーノの姿を見るなり、皆が頭を下げて固まった。今まで、それほど重要視されていなかっただけに、この態度の差が面倒だと思った。
「そういう態度はいい。スープとパンがあればくれ」
ルーノは素っ気なく言った。
皆が戸惑うのもわかる。昨日までラウルが王太子だと信じていたのだから、そう素早く切り替えられるものでもないだろう。ルーノが上辺だけの敬意で気をよくするようなことはない。むしろ、そういうものは求めていない。
「は、はいっ」
給仕の女が食堂の一角に座ったルーノのもとに慌てて駆け寄る。頼んだ以上にあれこれと載っていたけれど、今のルーノは受けつけない。
「……スープとパンだけでいい」
「も、申し訳ございません!」
泣き出しそうになりながら頭を下げられた。怒っているわけでもないのだが、顔が怖いのだろう。
スープ皿とパンの入ったバスケットだけを受け取ると、サラダやオムレツはトレイに残したまま返した。他の誰かが食べればいいと思っただけなのだが、女は泣き出しそうだ。
ルーノはなるべくそちらに顔を向けないまま食べ始める。ラウルなら、食欲がないとしても角が立たないように上手く断っただろう。それから、優雅な所作で食べた。
本当に、どちらが偽者か。
あのままラウルを王太子にしたままでいた方がすべてが丸く収まったような、そんな気がしてしまう。
そんなルーノの心を、正面にいるフルーエティが読んで呆れるのだった。
「お前は正当な居場所に戻るだけだ。それがいけないというのなら、何が正しい?」
「何が正しいかなんてオレが知りてぇよ」
無理やりパンをスープで流し込む。胃がそれらを拒絶するようにヒリヒリと痛んだけれど、そんな軟弱なことではこの先が思いやられる。ルーノは痛みなど気のせいだと自分に言い聞かせた。
そうしていると、チェスとピュルサーがやってきた。同じ部屋にいたわけでもないだろうけれど、あまりにぴったりと寄り添っている二人は傍目にはどう見えるのだろう。
フルーエティは近づいてきたピュルサーに言う。
「お前はここで待機だ。兵力が王都へ流れていくことをサテーリテ王国側もつかむだろう。その時にこの要塞を攻める可能性もある。ここは死守しろ」
「はっ」
マルティとリゴールは戦線に加え、ピュルサーは留守番だ。チェスは心配そうに胸の前で手を組み、ルーノを見た。ルーノはうなずく。
「しばらく戻れないが、頼む」
チェスもうなずいて返した。
「うん。どうか無事で……」
潤んだ瞳が見つめていた。次に会う時は、王都を落とした後になるのだろうか。




