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「で、殿下が――っ!」
仰向けに投げ出された手足、広がった血の量。見開いたままの濁った眼。どこを見ても生きてはいない。
夜間にも関わらず、皆が呻吟の声を上げた。大声で泣き叫ぶ。国の未来が閉ざされたと。その声を聞いていると、ルーノの頭は割れんばかりに痛んだ。
魔界の風の音に似た嘆きの中、フルーエティが人垣の外から声を上げた。
「殿下ではない。彼は来たるべき日まで殿下の身代わりとして表に立ち続けた代役だ」
皆が一斉にフルーエティを見た。入り口の篝火がほんのりと照らす悪魔は神秘的であった。その背後にはピュルサーとマルティ、そしてチェスが控えていた。チェスは口元を押さえ、今にも倒れそうである。
「あ、あんた、何言ってるんだ? そんな話、聞いたことねぇ! じゃあ、本物の殿下はどこだよ!」
すると、フルーエティはひとつ息をついてから静かに言った。
「そこに。あなたの足元に」
「はぁっ!?」
「ルーノと名乗って参戦した、そのお方がルシアノ・ルシアンテス殿下だ。エリサルデ様も証言してくださるだろう」
ざわ、と周囲が騒ぐ。
うるさい。
今は何も聞きたくない。
それでも、フルーエティは続けた。
「殿下と彼、殿下を演じていた彼、『ラウル』は明日、真相を告げて入れ替わるつもりだった。殿下はラウルの功績を認め、今後重用するつもりでいたのだが、当のラウルが、自分の役割は終わったと、殿下にすべてを託して身を投げてしまった。それも、殿下の御前で――」
フルーエティがもっともらしく語る。
違う。そうではない。
そんな美談にするな。
この男はルーノを騙し、卑劣にも背後から突き落とそうとしたのだ。
けれど、皆はフルーエティの言葉を信じたがっていた。夜の静けさがそれを伝える。
「ラウルは最初からこうするつもりでお仕えしていたのだろう。その愛国心をたたえ、我々は手厚く葬ってやることしかできないが……」
皆の視線がルーノに刺さる。そばにあるラウルの死から目を背けたいだけなのではないかと思う。
「殿下もラウルの死にお心を痛めておいでだ。皆、しばらく下がっていてくれ」
項垂れたルーノの姿に、皆がざわめきながらも離れてゆく。それぞれが気持ちの整理もつかないのだ。
皆が去り、フルーエティたちがルーノのそばに近づいてくる。ただし、ピュルサーがチェスを止めた。それは正しい判断だ。
ルーノはもう一度ラウルの死に顔を見た。無念そのものである。
その時、ふと、ラウルの首から下がった革紐に目が行った。服の下にあったものが叩きつけられた衝撃で表に飛び出したのだろう。その革紐の先に通されていたのは、指輪だった。もとは銀であったのかもしれない。焼け焦げて黒ずんだ指輪だ。
その指輪には見覚えがあった。ルーノは毎日それを目にしていた。自分の指にそれと同じものがはまっていたのだから。
その指が、どうしようもなく震えた。
『――なんだよ、レジェス?』
『え? な、なんでもありませんよ、ルーノさん』
『さっきからじっと、俺の背中ばっかり見てただろ?』
『背中に目があるんですか、ルーノさん!』
『気配でわかるっつの』
『いえ、ちょっとぼうっとしてしまっていただけで、すいません……』
『別にいいけどよ。具合が悪ぃなら寝ちまえよ』
『ほ、本当になんでもないんです!』
レジェスはよく、ルーノの背を見ていた。あの時は何も思わなかった。
けれど、今ならわかる。ルーノとラウルは背格好がよく似ていた。
そう――ラウルにはルーノの代役ができた。逆もまた当然で、ルーノもラウルに似ていたのだ。
ルーノの背に、レジェスは俤を追っていたのか。
「だから生かせと言ったのだ」
フルーエティの落ち着いた声がかかった。ルーノは素早く立ち上がり、フルーエティの胸倉をつかもうとしたが、マルティに軽々と腕をつかまれた。マルティは細身なのにびくともしない。ただにっこりと笑っている。
フルーエティは苦々しい顔をして真相を語った。
「ラウルは贄にされたあの少年の兄だ。商人であった父親が火災のあった倉庫ごと焼け死に、一家離散となった。ラウルがエリサルデの申し出を受けたのは、力を持ちさえすれば家族の消息がつかめると思ってのこと」
「なんでっ! それがわかった時点でオレに言わなかったっ!」
噛みつく先が他にない。ルーノはやり場のない感情をフルーエティにぶつけた。
フルーエティの表情はいつも変化に乏しい。こんな時でさえだ。
「言ったら、お前はあの少年の死に責任を感じずにラウルと接したか? ラウルに引け目を持つことは今後のためにならない。とはいえ、ある程度ラウルがお前に従うようになるまでは、せめて飼い殺しにしておくべきかと判断したのだが」
だから、フルーエティはルーノに真相を伝えなかったというのだ。
レジェスが死んだのはルーノのせいだと言えなくはない。仇は取ったけれど、ルーノがもう少し気をつけてやれば避けられた。いつまでもそれが悔やまれる。
ルーノはレジェスに自分の過去を何も話さなかった。だからか、レジェスも自分のことをほとんど話さなかった。結局、近くにいたくせに互いのことをそう多く知らない。
ルーノの腕から力が抜けたせいか、マルティが手を放した。ルーノはうつむき、苦々しくつぶやく。
「あいつ、オレのこと殺そうとしたんだ」
語らずとも、フルーエティには真相が見えたことだろう。うなずいた気配があった。
「ラウルに真相を告げた時、ラウルは一度諦めた。そうして、損得を考え、お前の下につくことを決意した。それでも、王に重用されれば家族を探し出せる可能性はあると。俺が読み取れる感情の流れだったはずだ。深読みしなかったのは俺の落ち度だ。人の心がこうも容易く覆るとはな。……人の心は、いつも裏切る」
フルーエティがひどく珍しいことを言った。ラウルのあの殊勝な態度は演技ではなかったのか。フルーエティが心を読んでさえ本気であったと。
それが、あの時、ルーノはラウルに背を向けた。そのまま星空を眺め、気を抜いてしまった。ラウルとルーノでは力量が違いすぎて、正面切って戦ってラウルに勝機はない。
あの瞬間、ラウルの心に魔が差したのだ。
今、目撃者は誰もおらず、少し押せば『本物の王太子』は死ぬ。エリサルデやフルーエティが真相に気づいたところでルーノはいない。民衆はラウルを本物と信じたままだ。それならば、このまま嘘をつき通すという判断しかできない。
ルーノが死ねば、ラウルは王太子になる。
本当に、ルーノと話していた時までは諦めていた。ルーノが背を向けなければ、すべては丸く収まっていたのか。ほんの些細なことが運命を変える。
人の心とは、他人が操れるものではない。
ルーノには、レジェスに顔向けできないことが増えた。少なくとも、ラウルの死はルーノが原因であるのだから。
ただただ苦しくなって、ルーノは呻き声を上げた。そうして、ラウルに繋がる首の革紐を力いっぱい引きちぎり、指輪を手に取った。ふたつの指輪は父親の遺品なのだろう。ルーノはラウルのものをレジェスの指輪とは反対側の手にはめた。
ふたつの罪の証しだと、ルーノには思えた。




