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屋上に出てみると、数多の星が瞬いていた。艶やかな黒の天鵞絨に宝石を散らしたような夜空だ。
ソラールの軍旗は燃やし尽くされ、今はティエラの国旗に挿げ替えられている。ティエラの国章はランタナの花がモチーフである。武を重んじる国が風雅なことだと昔は思ったが、ランタナの花は繁殖力が強いのだという。国が根強く続くという意味合いがあったらしい。
ルーノが視線を戻すと、ラウルは少しも星空など見ずにルーノを気にしていた。それも仕方のないことだろうか。ルーノが無言でいると、ラウルが口を開く。互いが沈黙するためにここに来たわけではない。
「ルシアノ殿下はもうご存命ではないと聞き及び、私にもできることがあるのならばと、この身には不相応な役割ではございましたが、奮起致しました。それが大罪だとは重々承知の上です。詫びて済むことではございませんが、殿下はさぞ不快な思いをされたことでしょう」
ラウルの口から出た言葉は、思った以上に殊勝であった。フルーエティが言うように、ラウルなりに引き際を見定めているのだろうか。この男は馬鹿ではないのだ。
「……持ちかけたのはエリサルデだろ? お前だけのせいだとは言わねぇよ」
ため息交じりにルーノはつぶやいた。事実、そうなのだ。ラウルだけを罰するわけにはいかない。
「けれど、受けたのは私です」
潔いことを言う。ここへきてグダグダと罪の擦りつけ合いを聞かされたくはない。この潔さが、ラウルなりの決意なのか。
腹をくくったのなら、今後、国のためによい働きをしてくれるのかもしれない。フルーエティはそう評価したはずだ。
「まあ、お前はオレより王子らしいくらいだったしな。誰も疑っちゃいなかっただろうよ」
ハハ、と軽く笑ってみせる。屋上には篝火があり、夜であっても見えないことはない。ルーノは石造りの胸壁の縁に両手を添え、再び空を見上げた。ラウルと立場が入れ替われば清々するかと思えば、罪を認め、弱った相手を見ているのは苦痛だった。
「……けれど、チェスカは気づいたようですね」
「ん? ああ」
チェスは自力で気づいたことにしたのだろうか。その場合、ルーノの正体までは知らされていないということになるのか、フルーエティの配下であるピュルサーが教えたことになっているのか。ルーノなりに事情がわからない今、下手に喋るとよくないような気がした。
「あの娘に失望されるのは私も悲しいですが、自分が撒いた種ではあります」
ラウルは失笑気味に言って、それからルーノと同じように胸壁の縁に手を置いて夜空を見上げた。
チェスのことをラウルはやはり特別に見ていたのだろう。整った横顔がどこか切ない。
「殿下、私には祖国奪還とは別に叶えたい願いがありました。そのための近道として殿下に成りすましたと言ってもいいくらいです」
フルーエティが、ラウルには信念があると言った。だからこそ、大それた嘘もつけたのだ。
ラウルはクルリと体の向きを変え、胸壁を背にしてまた空を見上げる。空など見たいわけでもない。ただ、ルーノと面と向かって話すのを避けたいだけだろう。
しばしの沈黙の後、ラウルは軽く首を振った。
「……いえ、何を言っても言い訳にしかなりません。やはり、これ以上はやめておきます」
「そうか」
本人が語らないのなら、聞き出そうとは思わない。フルーエティに訊けばわかるだろうが、それを聞いたところでルーノには関わりのないことだ。それに、今後ラウルがルーノのもとで働くつもりがあるというのなら、そのうちに事情もわかるかもしれない。
「それではもう戻りましょう。夜は冷えます」
ラウルはそう言った。けれど、ルーノはかぶりを振る。
「ん、オレはもう少しここにいる。ちょっと頭を整理したくてな」
「そうですか……。それでは、失礼致します」
と、ラウルは頭を垂れた。ラウルが誰かに頭を下げたのは久し振りではないのかと思う。ルーノは軽くうなずくと、また夜空を見上げた。ラウルの足音がかすかに聞こえた。
けれど、その次の瞬間――。
チュニックの背中の辺りを掴まれ、そのまま突き飛ばされた。他の誰かがいるはずもない。ラウルだ。
ルーノはとっさに胸壁に手を引っかけ、かろうじて落下を防いだ。
しかし、あとひと押しでルーノは要塞の上から真っ逆さまに落ちる。体勢を整え直す暇を与えず、ラウルが腰に差していた短剣を引き抜いたのが横目に見えた。ルーノは剣を帯びていない。ここに危険はないと外していた。ただし、背負っていたなら背中の重みで踏みとどまれずに落ちていたかもしれない。
ルーノはここへ来てラウルに襲われる心配などしていなかった。完全に油断していた。ルーノの隙を引き出すほどにラウルの演技は自然であった。この男はそうした男だという認識が甘かったのだ。
短剣の切っ先が狙うのは、ルーノの心臓ではない。胸壁をつかむ手だと、ルーノは瞬時にそれを読めた。だからこそ、思いきって体を滑らせ、ラウルの足を払った。ラウルの短剣が胸壁を擦り、火花が散る。
ルーノが見たラウルの姿は、それが最後であった。足元をすくわれ、背を向けたまま闇の中へ落ちてゆく。美しい星の瞬く天ではなく、地の底へ。
仰向けに倒れているルーノの背に、ラウルが打ちつけられた振動と音が僅かに伝わった気がした。はあ、はあ、と尋常ではなく息が乱れ、脂汗が噴き出す。
起きなければ――。
起きて、確かめなければ。
フルーエティがラウルを救ったかもしれない。
だとしても、もうあの男を家臣になどとは望まない。今のように寝首をかかれるだけだ。あの男は信用ならない。あんな殊勝な顔をしてみせて、そのくせルーノを突き落とそうとしたのだ。
立ち上がろうとすると、体が揺らめく。膝が借り物のようにぎこちない。ルーノが階段へ向かうと、その前にフルーエティが立っていた。闇に溶け込むのはいつものことだ。
「フルーエティ、ラウルがっ!」
いつになく動揺している自分を感じながらも、ルーノは目の前の悪魔にすがるような目を向けていた。
フルーエティは深々と息を吐き、そうして目を伏せて首を横に振る。その仕草だけでひとつの命が消えたことを知った。
「……これは俺が読み違えた結果だ」
何故かフルーエティはそんなことを言った。ルーノは、自分の目で確かめなければと必死で階段を駆け下りる。途中ですれ違った人々は、ルーノの剣幕に驚いていた。
要塞の重たい扉はすでに開いていた。音を聞きつけた者が開けたのだろう。
出てすぐのところに人垣ができていた。ルーノはそれを目がけて駆けつけ、その隙間から人垣の中を覗いた。誰かが手にしている松明の火が倒れたラウルを照らしている。頭が割れ、地面に散った血が黒く見えた。
王太子の死というあまりの出来事に、皆が放心状態である。最初に叫んだのが誰であったのか、ルーノも覚えていない。ただ、その場に膝を突いて動けずにいた。
ラウルがルーノを殺そうとし、結果返り討ちに遭った。
真実はそれである。
ルーノは、今さらたった一人の命が自分の罪状の中に加わったとしても変わりないと思う反面、なんともやりきれない気持ちであった。




