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「すげぇ疲れた」
ルーノは笑う膝を押さえながら開口一番にそう言った。噴き出す汗と浅い呼吸が、ルーノの限界を越えていたことを物語る。
石畳の上にポタポタとルーノの汗が落ちるけれど、血は流していない。流れているのはすべて敵兵のものだ。
ザワザワと、野次馬がうるさい。また無慈悲だとか残虐だとか言いたいのか。
しかし、ルーノの耳にもハッキリと聞こえる声が騒ぎ立てる。
「カブレラ流の剣術……久々に見たぞ! やるなぁ、兄ちゃん!」
ザワザワ、ザワザワ、伝播する。その隙にリゴールは兵舎へと乗り込んだ。フルーエティは続かず、ルーノにも行けとは言わなかった。数名の傭兵を装った悪魔兵が共に行く。
フルーエティはルーノの戦いぶりを、語ることのできる誰かに見せたかったのだ。カブレラ流は王家を始めとするごく一部の爵位を持つ家柄の出でなければ学ぶことができない。見よう見まねで取得できるほど甘いものでもない。
それならば、その流派の剣を振るうルーノは只者ではないことになる。これは布石なのだ。
ラウルとルーノが入れ替わるための――。
ルーノの呼吸が整った頃、リゴールが兵舎の入り口に戻った。フルーエティはリゴールに歩み寄る。外野の視線を感じつつ、ルーノもフルーエティに続いた。
「司令官他数名は捕らえて牢に入れておきました」
「ああ、それでいい」
そうして、ルーノを見る。
「兵舎を押さえた印として、ソラールの旗を降ろせ。名乗りを上げるのは、ラウルと話をつけてからでいい。これらはすべて下準備だ」
「わかった」
フルーエティが描いた筋書き通りにことは運んでいる。ルーノはそれを感じつつ、一度振り返って叫んだ。
「エリサルデ!」
またしても敬称を忘れてしまったけれど、もうあと少しのことだからいいかとも思う。エリサルデはハッとしてぎこちないながらもルーノの方へ急ぐ。
「ここの旗を降ろしたら、オレたちはソラール兵の残党を片づけて回る。その後は要塞に行って、ラウルたちを連れてくる。お前はこの兵舎で待機してろ」
「は、はい。仰せのままに」
まばらに人が増え始めた。もう安全だと思ったのだろう。まだ兵士が残っている可能性もあるが、この辺りにはいないとばかりに。
周囲の目がある。頭を垂れかけたエリサルデをルーノは目で止めた。硬直したエリサルデに、フルーエティが穏やかに言う。
「ライムントの隊を残していきます」
「うむ……」
リゴールの働きを目にしたばかりなのだ。異存もないだろう。エリサルデはうなずいた。
そうして、高らかに掲げられ、風にはためいていたソラールの国旗が悪魔兵たちの手によって降ろされた。リゴールはその旗棒を一本、軽々と、槍のようにして振る。その時、ルーノを見た。
ルーノはうなずくと、打ち合うようにしてフランベルクでソラール国旗を切り裂いた。魔界の武具は布地だけでなく硬い旗棒さえ切り落とす。ソラール国旗の切れ端が風に弄られた。それらが地に落ちる前に、ルーノは剣を高く掲げた。
この地は、ソラールのものに非ず。ティエラの、正当なる王家のもとへ還せ、と。
わぁああ、と歓声が兵舎を囲む人垣から上がった。いつの間にやら、野次馬は増えていた。民衆の、期待と歓喜に満ちた目が、ルーノただ一人に向けられていた。
この感覚は、闘技場にいた頃を思い起こさせる。
目の前の敵を斬り伏せ、勝利をつかむ。そう言った意味では、遊戯も戦も変わりないのかもしれない。
ルーノは、ラウルのように言葉巧みに人心を収攬するわけではない。
ただし、ルーノが持つ王家の血は、もともと戦上手と謳われた武人の血筋なのだ。武力をもって英雄となり、民を従える。それこそが、ティエラ王家の血なのかもしれない。
ルーノは兵舎をエリサルデとリゴールに任せ、ナバルレテ要塞へ向かうのに兵舎にいた馬を使うことにした。フルーエティはリゴールが乗っていた馬をそのまま使うつもりらしい。
「町の中にソラール兵があとどれくらい残ってるかわかるのか?」
馬に跨った状態でルーノはフルーエティに問う。フルーエティは表情を変えずに答えた。
「放っておいても問題はない。俺の兵が逃がさず追うからな。兵の骸の始末まで行う。それよりも急いで要塞に行かねば、マルティが退屈している」
「そりゃ不吉だ」
思わずルーノもぼやいた。ラウルとマルティに手を焼いたピュルサーの機嫌が限界を迎える前に辿り着きたい。フルーエティの力でいきなり飛べばすぐなのだが、それでは後で辻褄が合わなくなる。面倒だが、ここは人間らしく馬の力を借りるべきだ。
「チェスもどうしてるかなぁ?」
「ピュルサーがついているから問題ない」
素っ気なく言われた。
問題はないが、困ってはいるだろう。
ラウルがチェスに構うのはどういった感情からのことか――。
妹のような存在から始まったのだと思う。けれど、次第にそれだけでもなくなったのではないだろうか。
そういうルーノも、チェスが女だからか、レジェスに抱いていたような単純な感情とはまた違うような気がする。ラウルと馬が合わないわけだ、とルーノはしみじみと思った。
このままナバルレテ要塞に向かう前に、ルーノにはすべきことがひとつあった。
「フルーエティ、お前だけ先に要塞に行ってろよ。用が済んだらオレも向かうから」
ほんの少しの時間でいい。コルドバですることが残っている。
そんなルーノの心を読み、フルーエティは軽く笑った。
「律義なことだな」
「うっせぇ」
「それくらいの時間ならば待っていてやる」
ルーノとフルーエティは馬に乗ったまま『星空亭』へ戻った。馬を脇へくくりつける。フルーエティはそこで待つつもりのようだ。ルーノは一人、中へと入った。そうして、食堂の中央の席にドカリと座る。
「女将、飯食いに戻ったぞ。急ぐからあたため直さなくていい」
ルーノの声に、女将は驚いて奥から出てきた。
「ルーノ! もう町を解放したってのかいっ?」
「ああ、終わった。今から要塞まで走る」
素っ気なく言ったルーノに、女将はほっと息をついた。
「あんたたち、本当に強いんだねぇ。無事でよかったよ。ビクトルさんやエリサルデ様もご無事なんだろ?」
「もちろん」
フルーエティなど殺したって死にそうにない。
女将は手早く皿に料理を盛って運んでくれた。
「保温してたから、まだあったかいよ。さ、食べな」
ん、と軽く答え、ルーノは女将の煮込み料理をがっついた。
――食べに戻るという約束だった。
些細な約束ではある。けれど、約束とはどんな小さなことでも可能な限りは守るべきだと、王族としてルーノは思うのだ。無言で食べ続けるルーノに、女将はふと笑いかける。
「あんたって、荒っぽいわりにいい子だね」
ブッ、とスープを噴きそうになってむせた。咳き込むルーノの背を女将はドシドシと叩いて笑った。
近いうちにルーノは正体を明かす。その時、女将はどう思うのだろう。
いい子だなどと言って、子供扱いしたことを慌てるだろうか。
急いで食べたせいで脇腹が痛むけれど、ルーノは女将に礼を言って外へ出た。すぐ戻ってくることにはなるのだが。
フルーエティは何も言わず、無言でルーノに馬の手綱を渡す。無言なのに目が笑っているようで癪だと思うのは、ルーノの被害妄想かもしれない。
あとは黙って馬を走らせた。風が心地よい。魔界の生ぬるい風とは大違いだ。
大きく息を吸い、改めて祖国の匂いを確かめる。
聳え立つナバルレテ要塞の物見より、飛び跳ねながら手を振る人物が見えた。あんな動きをするのはマルティくらいのものである。敵が来たらいいのにな、などと思いながら外を眺めていたに違いない。
「フ――じゃない、ビクトル様ぁ!! おかえりなさいませ!!」
フルーエティの顔が真顔なのはいつものことだが、今もまた不機嫌そうに嘆息する。ああも大声で呼ばれて嬉しいわけもないだろうが。
屋上にいたはずのマルティは、首を引っ込めると瞬く間に門の前まで下りてきたらしい。あそこから飛び降りたいのを我慢して階段を使っただけ褒めてもいい。
「お待ちしておりました! いやぁ、もうピュルサーが機嫌悪いし、あのラウルって人間もなんか面倒くさいし、僕もそっちに行きたかったです。リゴールより役に立ちましたよ?」
「……いや、リゴールの方が役に立った」
ルーノの口から思わず本音が漏れたが、マルティは聞き流した。フードは一応被っているものの、浅くである。目の色は黒く、尖った耳さえ見えなければ人にしか見えない。
「さささ、中へ」
ルーノそっちのけでフルーエティの馬を曳くマルティだが、ルーノも気にしないことにした。
「マルティ、馬を馬屋へ連れていって飼葉を食わせておけ」
「うわぁ、雑用ですね。いえ、もちろんフルーエティ様の御言いつけなら、腹がはち切れるほど食わせてやります」
「……馬の扱いに慣れたヤツに預けてくる」
思わずルーノが割り込んだのはまともな判断だろう。ルーノは騎乗したまま馬を曳くマルティを先導する。
「ほら、ついてこいよ」
ルーノが振り返ると、マルティは長い舌をペロリと出した。人の神経を逆なでするのが好きな悪魔なのだ。ルーノは平常心と唱えながら広い要塞の敷地を進んだ。
フルーエティはそんな二人を見送り、そうして単身要塞の建物の中へ先に入っていった。
明るい日差しが届かぬ要塞の入り口は、闇の深い地底へ続くように見えた。




