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フルーエティはその場で魔法円を描き出す。それはいつもルーノたちが潜るものよりも格段に大きかった。『星空亭』がすっぽりと入るくらいの広さがあり、その魔法円の赤い紋様が生き物のように蠢く。魔法円からは続々と悪魔兵が排出され、地の底から這い出すに似た光景であった。
その数、三十ほどだろうか。それでも、異形の悪魔たちは人よりも格段に大きい。獣が喉を鳴らすような音がする。角や翼を持つ悪魔たちを前に、フルーエティは言い放った。
「我が配下の者ども、よく聞け。今よりあの要塞を陥落する。一兵たりとて生かすな」
おお、と地響きと錯覚するほどの声が響く。マルティの顔にはありありと喜色が窺えた。
「ああ、あの時以来ですね!」
フルーエティは軽く目を細めた。
「要塞は破壊するなよ。制圧が目的だ」
リゴールも珍しく笑った。
「ええ、あの時のように大陸を滅ぼし尽くすほどの戦はそうそうありません。それでも、このところ血が沸き立って仕方がなかったのです。存分な働きをお見せ致しましょう」
配下たちの気概にフルーエティは満足げにうなずくと、優雅に手を伸ばして要塞を指す。
「行け」
そのひと言に悪魔たちは呼応する。彼らの雄叫びに、間近にいたルーノは思わず耳を塞いだ。頭が割れそうなほどの勢いだった。
要塞の兵士たちも異変に気づき、篝火の周辺に続々と湧いて出る。遠目に見ている分には悪魔だとは判別できなかっただろう。敵兵だと、ただそれだけの認識で迎え撃ったに違いない。
ただし、相手は悪魔兵である。人兵が敵うものではない。
ルーノは鷹揚に佇むフルーエティの隣に立ち尽くし、その光景を目の当たりにした。要塞の正面にはマルティが炎を撒き散らしながら駆ける。人には到底出せない速さで近づき、要塞から出てきた騎兵を馬ごと炎で絡めとる。マルティが操る炎の大蛇は、骨も残さずに人馬を砕き、焼ききるのだ。
マルティが逃した獲物を、その他の悪魔兵たちが潰しにかかる。おこぼれがようやく回ってきたとばかりに獲物の奪い合いだ。牛のような角と巨躯の悪魔たちにかかれば、馬も小さく見えた。
そして、上空ではライムントを駆るリゴールが戦闘を繰り広げていた。ただし、それは戦闘と言うにはあまりに一方的であった。人兵の脆弱な矢は、ライムントの腹に刺さりもしない。雄々しい翼の起こす風に煽られ、よろめいては倒れる。それに耐えたところで、リゴールの繰り出す槍の餌食となるだけであった。
リゴールたちの死角に逃げ込もうにも、蝙蝠のような翼を持つ悪魔兵たちが要塞の屋上に降り立ち、弓兵を一兵ずつ確実に仕留めていた。
圧倒的な力の差である。人は次々に屠られていくのに、悪魔兵たちは一兵として傷つきもしない。これが悪魔の力なのか、とルーノは空恐ろしさを感じずにはいられなかった。
そして、あの悪魔たちの主君こそ、隣で涼しげに佇むこの悪魔なのだ。
「悪魔の戦いを前に臆したか?」
嘲笑にしか見えぬ笑みを浮かべ、フルーエティは問う。
ルーノは歯噛みしつつ、それでもなんとかして悪魔を睨みつけた。
「オレはただの人間だからな。あんなの見せられたら当然だろ」
大陸ひとつを滅ぼした――。
あれだけの力の差なら、人の築き上げたものなど容易く壊せる。そのくせ、フルーエティはか弱い人間を主に頂いていたという。何故、その少年に従う気になったのだろう。
こうして隣にいても、フルーエティは謎の多い悪魔だ。ルーノは改めてそれを思ったけれど、当のフルーエティに心を読まれぬように気を張ってそこにいた。
悪魔たちの戦いは見ているだけで、剣を振るうよりも色濃い疲労感をルーノに与える。
それでも目を逸らせぬのは、ここがルーノの国であり、要塞の兵士たちが敵であるからだ。あの命を奪うことでしかこの国は正常に戻れぬのだ。戦に御託は要らぬ。生きて立っていた者が勝者なのだ。
それがどんなに嫌な戦いぶりであったとしても。
冷や汗が頬を伝い、顎からポタリと落ちた。
その戦闘は半刻ほどで終えたのではないだろうか。人が攻めようとすれば幾日もかかったであろう要塞も、悪魔の手にかかれば造作ない。
フルーエティが歩み出す、その後ろにルーノも続いた。近づけば近づくほどに焼け焦げた臭いが立ち込める。辺りも薄暗くなってますます見えにくいけれど、血でひどく汚れているのだろう。
それでも、フルーエティは戦の後始末をするかのように細やかな光を撒き、戦の残骸を消滅させた。それは氷が蒸発するように容易いものだった。地上が浄化されたかに見えるけれど、染みついた穢れを悪魔が祓えるわけではない。ただ見えなくなったに過ぎないのだ。
悪魔兵たちは主君の前にひざまずく。フルーエティはうなずき、そして開かれた要塞の門を行く。マルティは中に攻め入ったらしく、姿が見えない。
ただ、ルーノは、こうした戦を繰り返さずに済むのなら、王位に就くことを真剣に考えようと思えた。戦をせぬために何をすればいいのか、それを探したくなった。
闘技場では多くの闘士を斬ったけれど、それはひとつひとつの死に向き合うことであった。これほど一度に多くの死が押し寄せる状況は、決して気分のいいものではない。
こんなものとは無縁でいられたら――。
悪魔と契約したとはいえ、チェスもこんな戦にはとても耐えられないだろう。それでも長引けば戦に加わると言い出すかもしれない。戦など早く終わらせ、平穏に過ごさせたい。
ピュルサーも、チェスの前では従順だが、本質は他の悪魔とそう変わらぬのだから。そんな様子は見せたくもない。
戦いの後も消えずに燃える篝火が門の両脇で燃えている。敵兵はもう生き残っていない。
赤く照らされたフルーエティは振り返り、いつかのようにルーノに向けて手を差し伸べる。
「ルシアノ、来い。ここからお前の戦いが始まるのだ」
正直、嫌だった。
けれど、もう止まらない。
動き出した運命は、行きつくところまでルーノを誘う。
ルーノは大きく息を吐き出すと、悪魔たちがひざまずく中を歩み出した。まっすぐ、冴え凍るような銀髪の美しい悪魔を見据え、拳を握り締めた。
篝火が照らすルーノの影が伸びる。ルーノはフルーエティに導かれるまま、ナバルレテ要塞を制圧する。
マルティは司令官以外の兵士をすでに焼いてしまっており、その司令官はリゴールが押さえてフルーエティとルーノにひれ伏す形となった。フルーエティはそんな司令官の男をじっと見遣り、それからリゴールに向けて軽くうなずいた。
その途端、リゴールは司令官の男の顔を上げさせると、石の床に叩きつけた。男の頭は熟れた果物のように呆気なく潰れた。
それからフルーエティは、ルーノを連れてあたたかみのない石の階段を上り、屋上へ向かった。そこにはマルティがおり、他の悪魔たちに命じてソラールの軍旗を下ろさせていた。
「あ、フルーエティ様! 全部集めましたよ!」
フルーエティは一度ルーノに目を向け、それからマルティに言い放つ。
「燃やせ」
「はっ!」
太陽を模したソラールの軍旗が炎に絡めとられた。その赤い火をルーノは食い入るように見つめる。
この旗が燃え尽きた時、要塞の制圧は完了するのだ。
正統なる者がルシアノ・ルシアンテスを名乗る時が近づく――。




