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ルーノとフルーエティが『星空亭』の奥の通路を進むと、部屋の扉の前から声がした。
「――いや、だから、ね」
ラウルの声だった。そこにはチェスとピュルサーがいた。
ピュルサーがチェスを庇っているのではなく、むしろチェスがピュルサーを庇って立っていた。
「誰にだって見せたくないものはあります。どうかご容赦ください」
状況が呑み込めないでいたルーノが立ち止まると、それに気づかぬままのラウルは続けた。
「どうしてそういつまでも顔を隠すんだい? 私たちは大切な戦いを控えている。不審な者は警戒して当然だ。疚しいことでもあるのかい?」
あまりにチェスの周りをウロウロするピュルサーが気になって仕方がなかったのだろう。ラウルはピュルサーの素顔を見たことはない。何者かが気になって顔を見せるように言ってみたところ、チェスが庇っているようだ。
ルーノは背後のフルーエティを見遣った。フルーエティは軽く嘆息する。
「殿下、要塞の下見を終えました。ご報告をさせて頂いてもよろしいでしょうか?」
フルーエティの落ち着いた口調に、ラウルはハッとした様子で顔を向けた。
「あ、ああ。頼むよ」
苛立ちを押し込めるようにして『ルシアノ』を演じる。けれど、先ほどまでの様子には明らかに『ラウル』そのものだった。
ラウルはフルーエティの方へ歩み寄る際、ルーノを特に見るでもなかった。ルーノもまた、特別な意識はしなかった。二人が室内へ入ったのを見届けると、ルーノはチェスに歩み寄る。
「チェス、エリサルデは?」
「あ、うん、二階にいらっしゃるんじゃないかな」
そう言ってから、チェスはほぅっと息をついた。そんなチェスをピュルサーが不思議そうに見ている。
「見せろというなら見せてもいいが。一目で俺がなんなのか、そこまで気づきはしないだろう」
「そ、そうなんだけど……」
ラウルはピュルサーに興味を持ったわけではない。ただ、チェスの周りをうろつくから難癖をつけたのではないだろうか。それをチェスが庇うから、余計に面白くなかったはずだ。
ルーノからしてみると、ピュルサーの見事な邪魔者っぷりに笑いたくなる。これではラウルも落ち着いてチェスと会話することもできないのだから。
クク、と忍び笑いをすると、ルーノは安心して二階に上がった。エリサルデの部屋はルーノたちが借りている部屋の斜め向かいだ。
一応ノックをする。そうして短く告げた。
「オレだ」
その途端、中にいたエリサルデが慌てて立ち上がった気配があった。すぐさま扉は開かれる。
「お戻りでしたか……。要塞の様子はいかがでしたか?」
緊張の面持ちで問うエリサルデに軽くうなずくと、ルーノはエリサルデの部屋の中に滑り込んだ。立ち話をしていては誰かに聞かれるかもしれない。
部屋の中はルーノが借りている状態とほぼ同じで、これといった特別な設えはない。ラウルのところだけは多少の差はあれど、エリサルデならばそうした気遣いを辞退したのではないだろうかと思う。
ふと、ルーノは机の上にあったナイフに目を留めた。見覚えがあったのだ。
艶やかなターコイズブルーの鞘と柄。あれは、もしかすると息子セベロの遺品ではないだろうか。
そのことに気づいたルーノに、エリサルデは戸を閉めてからポツリと零す。
「戦場で剣をへし折られた私に、息子が手渡したものです。こんなもので戦えはしませんが、片腕を失くした私を侮って近づいた敵兵を一人二人くらいは仕留められるかと。これが息子の形見になってしまいましたが……」
今、息子の形見を前にしてエリサルデは何を思っていたのだろうか。
ルーノは無言のまま窓辺に行き、そうしてそこから振り返った。
「チェスは成り行き上、オレとラウルの正体を知った。口止めはしてあるけどな」
「左様で……」
エリサルデとしては答えようもないのだろう。ラウルを担いだ張本人なのだから、ラウルだけが悪で、自分は『こちら側』の人間だと主張するほどには図太くもない。
過去の武功が霞むほどに肩を落としている。
「もうじき真相は明らかにする。ラウルの処遇をどうするかはヤツ次第といったところだが」
家臣に加えるかどうか、正直なところルーノは乗り気ではないけれど、フルーエティがああ言う以上、なんらかの意味はあるものとして生かしておく。
エリサルデはそれでも、ルーノの口からそれを聞いてほっとした様子であった。罪の意識というものは、いつまでも人につきまとい、引け目となるのだから。
エリサルデは皺深い目元を瞬かせた。それは苦悶からなのか、ルーノには判別できなかった。
「そうですか……。いずれは皆に知らせることとなるのでしょうが」
「まあ、そういうことだ。それから、ララは放逐した。ああいう女は置いておくと破滅する」
詳細はとても語れない。だからそういうことにしておく。
「ララが戻らぬので、もしやとは思いました」
それに関しては異存もなかったのか、どこかほっとしたようにも見える。ルーノは続けた。
「ナバルレテ要塞を落とした後、コルドバを解放し、本格的に進軍を開始する。オレの正体を公表するのはこの時だ」
ルーノの言葉に、エリサルデは立ち尽くしたまま、無風の室内で風に吹かれているかのように揺らめいた。
「進軍とは、この程度の人員でソラール軍に立ち向かうと仰るのですか?」
「ああ。お前が認識している以上にオレたちには兵力がある。正確にはビクトルが持っている」
「傭兵団ですか。ラウルも彼には心酔しているようですが、今回の作戦も彼が練ったのですね?」
「そうだ。一応アレが参謀だ」
すると、エリサルデは声よりも大きく聞こえるような息を吐いた。これ見よがしというつもりもないとしても、それはエリサルデの不安の表れに見えた。
「不敬を承知で申し上げます。彼は……どこか得体が知れぬように思われます」
気分を害するどころか、ルーノはそれを言ったエリサルデに感心してしまった。武張った硬い頭をしているが、エリサルデは歴戦の勇士である。頭で考えるのではなく、感覚としてフルーエティの存在に警鐘を鳴らしているのかもしれない。
けれど、ルーノを救ったのはそのフルーエティだった。
得体の知れぬ悪魔が、ルーノと共にあるのだ。
ルーノはクスリと笑った。
「そうだな、あいつは危ないヤツだ。でもな、オレはあいつに賭けることにしたんだ」
エリサルデはグッと言葉に詰まった。
「要塞を落とした後、ラウルの立ち位置は変わるわけだが、ビクトルのヤツもラウルは生かせってうるせぇし、今のところそのつもりだ。ただし、ラウルが『王太子』から家臣になることに納得しなけりゃどうかな。いざって時にはお前からも話せ」
「は、はい。もともとは私が撒いた種です。ラウルが死ぬようなことになれば、私も――」
「だから、そういう面倒くせぇのはいいってんだよ。じゃあ、わかったな」
素っ気なく言った。すると、エリサルデはただ頭を垂れるかと思えば、かすれた声を出した。
「……殿下が生きておられると信じもせず、浅はかな行いをした私を、殿下は決してお赦しにはならないのでしょう」
この時、ルーノにはエリサルデの言わんとすることがよくわからなかった。
浅はかだとは思うが、信用ならないとまでは思わない。ルーノの言動が荒っぽいのは、何もエリサルデに限ったことではない。闘技場での暮らしで他人との接し方など学べるはずもないではないか。
家臣であるはずのエリサルデよりもビクトル――フルーエティを重用するから、エリサルデはルーノがまだ信用してくれていないと思うのか。
「んなこたぁもう関係ねぇんだよ。いつまでも言うな」
今に偽者が退き、正当な血筋が立つのだから、そんなことはもういい。
それだけ言うと、ルーノはエリサルデの横をすり抜けて廊下へ出る。言葉は足らなかったかもしれない。けれど、ルーノ自身も何を言えばいいのか困惑したのだ。
部屋を出ると、待っていたかのようにチェスとピュルサーがいた。事実、待っていたのだ。
「ねえ、ルーノ。要塞を落とすのに私は何をしたらいいの?」
決意を秘めた目に、ルーノは言い放った。
「留守番」
「ええっ!」
「お前は留守番だ」
ピュルサーは少し考えてから首を傾げる。
「俺も?」
戦力としては惜しいけれど、チェスにラウルを近づけてほしくない。これは私情だと認めてもいい。それから、戦場にも連れていきたくない。ピュルサーにはここでチェスについていてほしかった。
「マルティとリゴールが長い留守番の鬱憤を晴らすのに丁度いいだろ。譲ってやれよ」
「ん……」
ピュルサーはチェスを見て軽くうなずく。
戦いに臆するはずもない、フルーエティの将だが、チェスといる時は猫の子のようだとルーノは苦笑した。
そして、ついに戦乱の幕開けが訪れるのだった。
艶やかで美しい、闇の深い夜に――。




