*3
今に攻め入られることを覚悟し、ざわめく国。
町から町へ。そうして、村へ。逃避行には不安しかなかった。
夜間に動くため、昼間に眠る。眠れぬ日が多かった。それは、日が高く登っているから、明るくて眠れないばかりではなかった。先行きの暗さがのしかかり、目を閉じると恐ろしくてたまらなかったのだ。
けれど、ウルタードたちはもっと眠れていなかった。交代で仮眠を取ってはいたけれど、大の男たちが脚を伸ばして眠ることもできず、幌馬車の荷台の隅で座って眠るばかりであった。疲れ果てていたのは皆同じだった。
逃げる道中、戦が本格化していくのを感じた。国中の流れが王都へ向かうように風が吹く。ルーノたちはそれに逆らって逃れていくけれど、第一線から逃走したのか、敗残兵もまたちらほらと見え始めた。
戦は国を荒らす。それは何も剣や槍によるものばかりではない。心が荒み、罪を罪とも思わなくなる。無法がまかり通るとでも錯覚するのか、混乱に乗じて悪事を働く者さえいる。
王は命尽きるまで国のために戦っているというのに、自国が侵略されているその時に、自らの故郷を食いつぶさんとするようなならず者もいるのだ。己の利を欲し、弱者をいたぶる。
そうした者たちにとって、いかにも訳ありげなルーノたちは格好の餌食であった。
どれくらいか経って、片田舎の村に着こうかという頃だった。すれ違う人も減ってきた道であるから、油断があった。この時はもう昼間であっても馬車は走り続けた。
その走る馬車の前に数頭の馬が躍り出たのだ。
「危ない!」
そう叫んだのは、馬車の馭者であった。この男だけは兵士ではなかったと思う。馬の扱いに長けていたので抜擢されたのだ。
馭者はすぐさま馬車を停止させた。急なことに馬が苦しげに鳴いた。幌馬車の荷台で、外へ投げ出されそうな子供たちをウルタードたちが押さえてくれる。けれど、停止した馬車の中を垢に塗れた男の顔が覗き込んだ。
「ガキと男。妙な組み合わせじゃねぇか。ガキどもを売りに行くところか?」
馬車を再び発進させようにも、荒くれたちの馬が道の先にいる。馬車は囲まれていた。ウルタードは小さく息をつくと言った。
「まあ、そんなところだ。この子たちは農家の養子に迎え入れられる予定でな」
ウルタードたちは身なりの特定できる恰好をしていない。平民の服装と変わりない恰好をしているが、顔立ちや体格は平民にしては締まっている。嘘も巧くはない。
姉がルーノの顔を荒くれに晒さぬようにギュッと抱き締めた。その時、エミリアナがあまりの恐怖から大声で泣き出した。わんわんと声が幌の中で響く。
「泣いては駄目」
敬語など使っては高貴な生まれであることを知らせてしまう。孫を宥めるように乳母が抱き止めても、エミリアナは恐慌状態であった。限界であったのだろう。あの幼さでずっと耐えていたのだ。堰を切ったのも致し方のないことで――。
けれど、そんな理由は荒くれたちに届くはずもない。
「うるせぇガキだなっ!」
顔をしかめ、そうして腕を突き出すと、エミリアナの喉を片手で握った。エミリアナの小さな体は、乳母の腕からすり抜け、幌の中から外へ放り出された。その時、首があらぬ方向へ曲がっていた。ルーノはあの瞬間のエミリアナの虚ろな目が忘れられない。
「おい、ガキでも無暗に殺すなよ。買い手がいるかもしれねぇだろ」
「殺す気はなかったんだが、ガキは弱くっていけねぇな」
そんな声が外から聞こえた。カタカタと震えていたのは、ルーノなのか姉なのかわからない。
「貴様――っ!」
先に飛び出したのは、ウルタードの部下だった。外で荒くれたちを相手に剣を振るった。それが見えた。
乳母もこの時、あまりの恐怖に精神の均衡を崩した。突然甲高い声で叫び出す。それは耳を塞ぎたくなるような声であった。
荒くれたちはどうやらかなり数が多かった。部下だけでは防ぎきれないと悟ったのか、ウルタードもまた覚悟を決めたようだった。
「両殿下、決してここから動かれませんように」
そう言い残すと馬車を降りた。けれど、そのまま馬車へは戻らなかった。男たちによってルーノたちは馬車から引きずり降ろされる。その時、叫び続ける乳母もまた男に殴られた。
「気のふれたババァが」
殴られ、ヒィヒィとすすり泣く乳母の後ろには、すでに息絶えたウルタードたちの骸があった。訓練を積んだ武人たちであるけれど、正直なところ長旅の疲労と多勢には勝てない。そもそも、相手は自国民である。敵国の兵でもない相手に殺されることなど、端から想定していただろうか。
護ってくれる大人はすでにいない。姉はルーノを強く抱き締める。けれど、男の野太い腕が背後の馭者台の方から伸びた。
急に姉が苦しげな声を上げた。被ったフードを引っ張られ、首が締まったのだ。
「あ――っ」
姉上、ととっさに呼びそうになって堪えた。農民の子はそんな呼び方をしない、などとこの時になってもまだ、頭のどこかは冷静であった。
姉が引きずり出された時、ルーノは自分から姉を追って出た。姉はフードをはぎ取られ、赤い土の上に転がされた。
「お、こいつぁ磨けば光るんじゃねぇか?」
「まだガキのくせに色気もあるし、ちょっと味見してみるか」
ガハハハ、と下卑た笑いが起こる。ルーノはその瞬間、全身の血が煮えていくのを感じた。これが自国の民かと。この下等な生き物を護るため、ルーノの肉親は戦い続けたのかと。
これらを統べ、上に立つことになど、なんの意味がある。支配するというのなら、その命もルーノの自由にしてもいいのだろうか。こんなやつらは自国には要らない。
ルーノは油断しきった男たちの一人に、そこで拾った剣で斬りつけた。軍用剣であるから、子供のルーノには重く、長かった。それでも、背を向けていた男を斬るくらいのことはできた。
血飛沫がパッと舞った。崩れた男は、悲鳴も上げなかった。ルーノは熱い血潮を浴び、それでもどこか冷静であった。この男たちを人とみなさなかった。人を初めて斬ったことに罪悪感などなかった。死ねばいいとただ思った。
「こいつ――っ!」
男たちはハッとしてルーノに剣を向けた。それでも、ルーノは臆さなかった。
ルーノは生き延びなくてはならない。攻め入られる国をいつか立て直すために。
けれど、本当はそんなこと、できっこないと知っていた。逃げ出した時点でわかっていた。
父が保てなかった国を、ルーノが蘇らせられるわけがない。ティエラ王国は滅ぶのだ。
まるで天がそれを定めたかのように。
そうでなければ、自国民に殺されるなどという末路が用意されているわけがない。天が赦さなかったのだ。ティエラ王族の存続を。
ルーノは、剣の師に教わった通り、重い剣を両手で斜に構えた。男たちと剣を合わせれば、力では勝てない。先を読んで斬り込むしかないのだ。才を認められた腕ならば、あと一人二人は斬れるだろうか。
この時、ルーノは姉のことも叫び続ける乳母のことも頭になかった。ただ目の前の獣たちを屠る、それだけのことを考えていた。その点で、ルーノも獣であったのかもしれない。
剣は重い。その重みを使って振り下ろす。自分のどこにそんな力があったのだと思うほどに、男たちの肉を裂いた。男たちが剣を振り回すルーノから次第に離れていったその時、ギリギリとおかしな音がして振り向いた。馬上で短弓を番えた男が目の端に入る。けれど、その瞬間に矢は放たれた。
矢に射抜かれる覚悟をしたけれど、その矢を肉に埋めたのはルーノではなく、とっさに躍り出た姉であった。体をいっぱいに投げ出し、柔らかな胸に矢を受けた。最後に言葉を交わすこともなく、姉のあたたかな体はルーノに向けて倒れ込んだ。
剣の重みと、姉の重み。支え切れることもなく、ルーノは剣を投げ出して姉と共に倒れた。その後は、男たちに気が遠くなるほどに殴られた。
それなのに、殺されなかった。遠のく意識の中で最後に聞いた声――。
「このガキ、縊り殺してやりてぇところだが、この年でここまで使えるとはな。ほら、アソコに入れれば稼げるぜ?」
「ああ、あそこなら楽には死ねねぇしな。精々もがき苦しみゃあいい」
――そうして、ルーノが次に目覚めた先は、あの闘技場であった。




