*35
ルーノが崖の上に佇んでいると、その上空に飛竜が飛来した。一瞬身構えたものの、思い出した。あれはリゴールの騎竜ではなかっただろうかと。
風圧に耐えながらルーノがそこにいると、飛竜は旋回しながら崖の上に降り立った。その背にはリゴールを乗せている。リゴールは甲冑に身を包み、いつもの毅然とした姿である。ただし、騎竜のライムントから軽やかに下りたその顔は憮然としていた。
「……あの女は生かしておきました。フルーエティ様の命とあらば従わぬわけには参りません。ただの人間の女に過ぎませんので、放っておいても大したことはできぬことでしょう。それはわかっておりますが、何故だか腸を掴みだしてやりたいような気になるのです」
三将の中では一番理知的だと思っていたリゴールだが、物騒なことを口にする。冷静さを欠いているのは、やはりチェスが絡んだからだろう。
あの謎めいた悪魔の言葉を信じるとしたら、それも無理からぬことなのだろうか。
「悪いな。でも、散々脅したんだろ? もう近づいてこねぇだろうし」
そう言葉をかけると、リゴールはため息とともに目を閉じた。その時、赤光の魔法円が宙に現れる。途端にリゴールはひれ伏した。
フルーエティの帰還だ。ルーノは腹に力を溜め込むようにして気を引き締める。
心を読まれてしまわぬように――。
青みがかった銀髪、彫像のように整った顔、すらりと伸びた手足。魔界の薄暗さの中にあると際立って見えた。そう、初めてフルーエティを見た時も、それまでに思い描いていた悪魔像とはまるで違った。醜悪さはなく、むしろ人に創り出せぬ美であるのは、それが人を惑わせる悪しき者故のことだろうか。
紫色の瞳がルーノを見据える。ルーノはそんなフルーエティを斜に見た。
「ララのことは追い出したんだろ? ラウルはあの女を探すか? ララ目当てで加入したってヤツもいるらしいから、そいつらはどうすんだろうな」
何か話している方が気が楽だ。それだけ言ったルーノに、フルーエティは崖の上に足をつくと軽く首を振った。
「いや、ラウルは探さないだろう。それほどララに固執している様子はなかった」
それだけを言うと、フルーエティは屋敷の方に首を向ける。
「お前も一度休め。しばらくしたら地上に戻るが、今度は本格的な戦になるだろう」
王座奪還に向けて動き出すつもりだというのだ。レジスタンスには負傷者も多いけれど、ただの民間人など、もとよりフルーエティが頼みとするはずもない。
ルーノは軽く息をついた。
「それじゃ、お言葉に甘えて」
皮肉っぽく言うと、フルーエティは応える代わりにそのまま歩き出した。リゴールはライムントのそばで控え、続く様子は見せない。ルーノは彼らに背を向け、フルーエティについて屋敷に戻った。
屋敷の僕たちが集う中、ピュルサーがいた。チェスの姿がないのは、部屋で休ませているからだろう。
ピュルサーは、フルーエティの前で膝を突いた。
「勝手を致しました。改めてお詫び申し上げます」
頭を垂れたせいで顔は見えない。勝手とは、チェスとの契約のことを言うのだろう。
フルーエティは感情の読めない声をピュルサーにかける。
「お前は覚悟を持って臨んだのだろう?」
「は、はい……」
悪魔の将であっても、フルーエティを前にしては叱られた子供のようだ。ルーノは面白いものを見たような心境だった。
ただ、次のフルーエティの言葉にギクリとする。
「悪魔が人の子を幸福になどできぬ。それは承知しておくことだ」
ピュルサーも弾かれたように顔を上げた。けれど、その顔に向け、フルーエティは冷淡に言い放つ。
「違うか?」
しょんぼりとピュルサーはまた頭を垂れた。
「いえ……」
消え入りそうな声だった。
ただ、ルーノも不安になる。ピュルサーがチェスを害することなどない。それでも、安らかには暮らせないというのだろうか。
現に、フルーエティの主もまた――。
ルーノは傾きかけた思考を慌てて止める。心を読まれてはならない。
フルーエティはひとつため息をついた。
「それでも、手を差し伸べた以上は護れ」
意外なひと言に思えた。
ただ、フルーエティも人の主がいた身であるから、ピュルサーの気持ちは少なからずわかるのだろうか。護りたいと思うからこそ、契約を望んだのだと。
ピュルサーは顔を上げないまま、
「はい、必ず」
と答えた。
フルーエティなりにこの配下の悪魔のことを気にかけている――なんてことがあるらしい。
ルーノはさっさと二人を置いて部屋に戻った。その途中ですれ違ったハウレスの顔に珍しい動揺を見る。
「……なあ、チェスはどの部屋だ?」
一応訊ねておく。すると、ハウレスはあからさまに嫌な顔をした。
「あなたはフルーエティ様のお客人でございますが、あちらはお客人であり、ピュルサー様の主であらせられます。どうぞ悪戯などなさいませんように」
「おい、扱いが違いすぎるだろ」
顔をしかめてみせても、ハウレスは澄ましている。そんなところだけ主に似なくてもいいものを。
その鉄面皮を崩してやりたくなって、ルーノは言った。
「お前もあいつの顔を見ていると気になって仕方ねぇんだろ? 三将ですらそうなんだから」
「……」
ハウレスは言葉に窮した様子だった。ただ、このやり取りをこれ以上ルーノと交わすつもりがないことだけはわかった。
「お食事をお持ち致します。しばしお待ちください」
そう言って去った。
あまり苛めるものではないか、とルーノも頭をガリガリとかいて部屋に戻った。それから、ハウレスは言葉の通り食事を持ってきてくれた。相変わらず硬いパンとワイン、チーズ、保存の利くものばかりで、地上にいた方が美味いものを食べられる。魔界に美食を求める方がどうかしているのだが。
ルーノはそれらをかっ込むと、湯殿へ向かった。ザッと湯を浴び、汗を洗い流すと、濡れ髪のまま中庭に出た。夜とも昼ともつかない色合いの空の下、ルーノはアーケードの下の短い階段に腰かけて涼む。とはいえ、涼しくはない。生あたたかい風が僅かに吹くばかりである。
ここの悪魔たちはほとんど肌を見せない服装であるが、人ほど気温には敏感でないのかもしれない。
しばらくそこでぼうっとしていた。考えることが山のようにあり、何から手をつけていいのかわからぬような有り様である。
まず、地上へ戻った時にどこから手を打つべきかと考えようとしたけれど、それをルーノが考えるよりもフルーエティに指図されそうな気もする。
それから、チェスのことも気にしなければならないだろう。契約の印が手に刻まれたのだから、あれを人目に触れさせないよう気を配らなければと思う。
すると、そんなルーノの背後から声がかかった。
「ルーノ、ここにいたの?」
当のチェスが一人、こちらに向けて歩いてきた。その顔にはかすかに笑みが貼りついているけれど、それは普段見せるものとはまるで違い、見ているルーノまで不安になる。




