*33
チェスは多少落ち着いてから改めてルーノを見上げた。ルーノはその青い瞳の底に吸い込まれそうな気分になった。
「あの、これまでのご無礼をどうかお許しください。それから、父の最期を伝えてくださって、ありがとうございます」
赤くなった目元が痛々しいながらに、チェスはそう言った。フルーエティの言葉を信じることにしたらしい。それは、ルーノの口からウルタードの最期が語られたせいでもあっただろうか。
ただ――。
「おい、そういうの、やめろ。オレはお前に対して偉ぶりたいわけじゃねぇ。今まで通り『ルーノ』でいいし、普通にしてろ。それから、このことを知ってるのは今のところエリサルデだけだからな、他のヤツに言うなよ。……ラウルにもな」
一気にまくし立てたルーノに、チェスは目を瞬かせる。
「え……いいの?」
「ああ」
短く答えると、チェスはほっとした様子だった。ラウルを本物と信じた罪悪感でもあったのだろうか。
「殿下……ううん、ラウルさんのあれが全部嘘だったなんて、とてもじゃないけど見抜けなかったよ。ごめんね、ルーノ……」
「まあ、死人に化けてるつもりだからな。本人がいるとは思ってねぇから堂々とやれるんだろうよ」
事実、いい度胸はしている。
チェスは戸惑いつつも、うん、とつぶやいて立ち上がろうとした。けれど、ここが崖の上で、目が眩むほどの高所であったせいか、疲れのためか、足元がふらついた。ただし、ルーノが手を差し伸べるよりも先にピュルサーがチェスを支えた。いつもは軽口を叩いてばかりのマルティも嫌に静かにチェスを見守っている。
「……リゴールも今に戻るだろうが、しばらく屋敷で休ませてやろう」
不意にフルーエティがそんなことを言った。
「連れてこい」
ピュルサーにそう告げ、自らの屋敷へ向かって歩み出す。チェスは不安げにピュルサーを見上げた。ピュルサーはそんなチェスを優しく導く。ルーノの存在はまるで意識されずに放置されていたが、仕方がないので悪魔たちの後に続いた。
フルーエティの屋敷の門は、重厚な音を立てて主を迎え入れる。いつものごとく、主の帰還に僕たちがエントランスに集まり、出迎える。その背後には三将のうち二人と、ルーノと、そうして見知らぬ人間の少女がいるのだ。僕たちが驚いたとしても致し方のないことである。
いつもはほとんど表情を変えないハウレスでさえ、青い顔をさらに青くしたように見えた。
「フルーエティ様……」
挨拶さえも忘れ、ハウレスの唇が動きを止めた。まるで人のように唖然と口を開いている。人間嫌いの主が二人目の人間の客人を連れてきた、その衝撃だけにしては立ち直りが遅い。
けれど、フルーエティは彼らのその反応をある程度は予測していたのかもしれない。淡々と言う。
「客間を用意しろ。この娘を休ませる」
そのひと言に、ハウレスはハッと息を呑んだ。
「あの、どのお部屋をご用意いたしましょう?」
「お前が通したい部屋でいい。この屋敷の部屋ならばどこを使おうと構わん」
「はっ」
ルーノは思わず、自分との扱いの差をフルーエティにぶつけたくなったが、そんなものは躱されるに決まっている。それにしても、他の僕たちもまたチェスに見入っていた。
これは、三将たちがチェスを見て冷静ではいられないという、それと同じ現象なのかもしれない。ハウレスは緊張した面持ちでチェスを案内する。
「では、こちらへ」
「は、はい、ありがとうございます」
チェスは困惑しつつ、一度ルーノを振り返った。けれど、そばにはピュルサーがしっかりとついている上、僕たちの様子から、チェスに危害を加える者もいないように思われる。
それでもルーノは、まるで喉に何かが詰まったままのような、そんな不快感が拭えない。
呆然としていたルーノのすぐそばでマルティが大きく伸びをした。
「さてさて、リゴールが連れてくるヤツをどう料理しましょうかねぇ。楽しみだなぁ」
「連れてくるって、魔界にか?」
「うーん、どうせ生かして帰す気もないのなら、どこに連れてきても一緒だけど」
マルティの目が残忍に光る。舌なめずりをする獣のように見えた。
ルーノはフルーエティを見遣った。屋敷の主は僕たちが仕事に戻った後も彫像のようにしてそこに立っている。
「おい、チェスを狙ったヤツって、あれか? ララのヤツか?」
「恐らくはな」
ラウルのそばに寄る女は邪魔だと、それだけで残忍になれるのだ。ならば、人の皮を被っただけの獣と変わりない。この魔界に埋めてもいいだろうか。
ただ、その程度の嫉妬心で命まで落とすというのも憐れではある。心を入れ替えてというのなら、生きる道も残してやるべきだろうか。
そんなことを考えていると、フルーエティが小さく笑った。癪に障る笑みである。
「女には甘いな」
また心を読む。苛立ちつつもルーノは吐き捨てた。
「うるせぇな。言っとくが、オレは女を殺したことはねぇんだよ」
闘技場の闘士は男ばかりであり、ここ最近戦ったソラール兵も男であった。女は男に比べて弱い。相手取るには物足りず、弱者をいたぶるようで気分が悪い。
それから――。
そう、これはルーノの幼い心に刻まれたものでもある。ルーノを庇って死んだ姉、目の前で逝った妹、優しく美しかった母。ルーノを取り巻いていた女たちは誰一人残らず死に、ルーノにとって神聖な存在となってしまった。だからこそ、女の死はあまり目にしたくないのかもしれない。
すると、フルーエティはどこか呆れたような目をした。
「……それならば、止めに行かねば今回に限り、リゴールとて冷静ではないからな」
「えー、止めるんですか?」
不満を口にするマルティに、ルーノは顔をしかめた。
「簡単に殺すな。お前らにとって人間なんて無価値かもしれねぇけど、一回間違って殺されてりゃ、人間なんて誰も残らねぇんだよ」
簡単に人を殺してきたルーノがそれを言うのかと、自分でも馬鹿だと思った。マルティは案の定、鼻で笑う。
「おやおや、慈悲深いルシアノ殿下はきっといい王様になられますなぁ」
ケケケ、と腹の立つ笑い方をしてマルティは去っていった。開いた扉から、フルーエティも外へ出る。
「地上へ行く。お前はここで待て」
振り向きざまにフルーエティが言った。リゴールを止めてきてくれるらしい。
「了解」
二人の悪魔が去った後、僕たちは扉を閉めようとした。角のあるその僕に、ルーノは言う。
「ちょっと外で素振りでもしてくる」
「次にこの扉が開かれますのは、フルーエティ様がご帰還なさった時でございますが、よろしいでしょうか?」
ルーノのためにわざわざ開けてやらないと言うのである。今さらだが、扱いは相変わらずだ。
「それでいい」
素っ気なく言って、ルーノは外へ出た。そこにはすでにマルティもフルーエティもいない。
ルーノはまっすぐな崖の道を歩み、そうして崖の先へ到達した。素振りをするつもりであったのは、雑念を追い払いたかったからだ。
考えることが多すぎて、頭が混乱しそうだからこそ、体を動かすつもりだった。しかし、ここに立つとそういう気力も失せて、風が吹く中にルーノは座り込んだ。遠く、暗い森が見えるばかりの魔界だが、もっと遠くに行けば違う景色もあるのだろうか。
そこに座りながらルーノは考えた。
チェスは一体何者なのだろうか。
何故、悪魔たちはチェスに対し、あのような礼節を保つのか。
ただの人間の娘のはずだ。王族のルーノにさえ従わない悪魔たちが何故――。
取り留めなく考える。答えなど得られるはずもなかった。
ところが、その答えはルーノのもとへ運ばれてきたのである。それは不吉な悪魔と共に。
「彼は語らないだろうから、私が代わって教えてあげよう」
聞き覚えのない声にハッとして振り向く。そこにいたのは、悪魔にしては優しげな風貌をした青年であった。




