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ワールドエンド・レメゲトン 2  作者: 五十鈴 りく


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32/80

*31

 フルーエティが歪めた空間を潜り、ルーノは薄暗くなった空の下に出た。空は薄暗い――はずであった。

 ただ、どういうわけか暗さを感じなかった。明るく辺りが照らされている。この感覚は、幾度か経験したものであった。火災の炎だ。


 殺風景な岩場で、炎が生き物のようにしてうねっている。もしかすると、あの火の塊は人なのだろうか。肌は少しも見えない。炎に全身が覆い尽くされている。炎から逃れようともがいているのだろうけれど、むしろ踊らされているように見えた。

 ルーノがギクリとした時、今度は別の炎の塊が宙を飛んだ。


「っ!」


 振り返ると、背後のフルーエティが嘆息した。

 フルーエティは炎と氷を操る。


「お前の仕業じゃねぇよな?」

「違うが――マルティ!」


 フルーエティが呼んだ途端、真上から人影が降ってくる。細身のマルティがルーノたちの眼前に降り立った。あまりに唐突で、ルーノも完全に反応できなかった。マルティはフードも被らず、鮮烈な赤い髪と尖った耳を露出させている。フルーエティにひざまずいたかと思うと、茶目っ気たっぷりに舌を見せた。


「申し訳ございません、フルーエティ様。少々緊急事態でして」

「緊急事態というわりには楽しそうだな」


 主君の皮肉にもマルティはハハ、と軽く笑っていた。


「でも、本当に危なかったんですよ。あの子、攫われそうになってたんです」

「チェスは無事なんだな?」


 ルーノが訊ねると、マルティは何度もうなずいた。


「無事無事。今、ピュルサーがついてるよ」

「経緯をかいつまんで話せ」


 フルーエティが目を細めて言うと、マルティは姿勢を正して畏まった。


「あ、はい。その、町をふらついていたら、あの子が数人の男たちに大きな袋に押し込まれてて、そのまま馬に乗せられて運ばれるところだったので、僕とリゴールがついてきました。町中で焼くと騒ぎになるので、人目につかないところまで泳がせてから男たちの口を割らせたところ、人に頼まれてやったと言うので、その頼んだ相手を確保しにリゴールは町に戻りました」

「その男たちは一人も生かしてねぇのかよ?」

「えっとぉ、どうだったかなぁ……」


 マルティはとぼけてみせるけれど、多分誰も生きてはいないのだろう。玩具を壊すようにして人を焼く、マルティにはそうした無邪気な残忍さがある。

 フルーエティは眉間に皺を寄せた。


「生かしておけば、情報を読み取りやすかったものを」


 フルーエティが冷ややかな声を出したせいか、マルティは少しばかり焦りつつ岩場の一角を指さした。


「あ、そこに転がってるヤツ、まだ生きてるかもしれません」


 ルーノは警戒しつつもその方角へ駆け寄った。そこに転がっていた男は、炎で焼かれたのとは違い、火傷は見当たらなかった。けれど、肌はまだらに変色していた。紫とも緑ともつかない色の肌、口元からは泡を噴いて、最早虫の息である。ルーノはぎょっとしてそれ以上近づかなかった。

 すると、いつの間にかその背後に立っていたフルーエティが言った。


「ピュルサーの仕業だ」

「これ、毒だよな?」

「そうだ。あいつは毒を操る」


 チェスに懐いた猫のように見えていたこの頃だったけれど、やはり獰猛な獣だった。その獣を怒らせた男の末路だ。フルーエティも毒に侵された男を一瞥しただけですぐに興味を失った。意識がなければ心を読むこともできないのだろう。

 そう思ったけれど、僅かには読み取れたらしい。


「この男たちは敬虔なシエルラ教徒のようだ」

「は?」

「信仰篤く、死の間際までもそれは変わらぬらしい」

「……それがなんか関係あんのかよ」

「あるのだろうな。信仰心を利用されたのではないか?」


 フルーエティが言わんとすることがルーノにはわからなかった。フルーエティはルーノの返答など待たずに言う。


「こうした妄信の輩は扱いやすい。フランチェスカがのちに信仰を妨げる存在となり得るという信託が下った、シエルラの光を翳らせる、など信仰に絡めて吹き込んでやれば、喜んで攫って始末するからな」

「人から言われてやったんだろ? そいつって――」

「まあいい、リゴールが捕まえるだろう。会えば真相もわかる。予測はつくがな」


 フルーエティが言うように、ルーノにもリゴールが誰を連れて戻るのかわかる気がした。チェスを邪魔だと感じていた上、男たちにあっさりと信じ込ませる手腕があるのはララだろう。

 しかし、肝心のチェスはどこにいるのだ。マルティが楽しげに浮遊させている炎のおかげで辺りは明るく照らされている。男たちが何人いたのかは知らないが、ほとんどは炭と灰に成り下がっている。


 ルーノは駆け出した。人間に襲われ、それを悪魔が助けてくれたのだとして、それでもこの状況をチェスが怖がらないはずがない。少なくとも、ただの人間であるルーノの方が幾分かは安心感を与えられるのではないか。


 けれど、どうやらチェスは意識を失っていたようだ。大岩の上でチェスが入れられていたらしき麻の大袋を抱えているピュルサーが座り込んでいた。その岩場には獅子の爪跡が残り、周囲には切り裂かれた上に毒を受けて悶絶の末に果てた男たちの遺体が三体散らばっていた。


 魔界に似た生ぬるい風が吹く中、死臭がルーノにもまとわりつくように感じられた。それを振り払いつつ、ルーノは岩の上のピュルサーを見上げた。フードは被らず、ただ一点を見つめている。


 主君のフルーエティに気づく様子もなく、毛を逆立てた獣のように見えた。

 その時、ようやくチェスが起きた。袋の口は開いていて、上半身は出ている。その状況で、チェスは金髪金眼のピュルサーを認め、ただ瞬きを繰り返していた。


「何が、あったの? 私……急に袋に押し込まれて、運ばれて……レオが助けてくれたの?」


 弱々しいその声に、ピュルサーはうなずかなかった。


「俺の本当の名は、レオじゃない」

「え?」

「ピュルサーという」

「……そう、なの」


 困惑しつつ、チェスが袋から抜け出る。ピュルサーは、グッと拳を強く握りしめ、そうして真剣な面持ちで口を開いた。


「俺の名は、ザムエル・ピュルサー。フランチェスカ・ウルタード、汝と契約を望む」


 悪魔には『真名』と呼ばれる秘された名があるのだと、ハウレスが言っていた。もしや、あれがそうなのだとしたら、ピュルサーは本気でチェスと契約を結び、チェスを主とするつもりなのか。

 ピュルサーがチェスに害を加えないことはわかる。護りもするだろう。けれど、悪魔との契約がこの先のチェスの人生を豊かに導いてくれるとは到底思えなかった。


「あいつ……っ」


 ゾッとした。ルーノの体が震えた。止めようと思うのに、どうしてだか体が動かない。

 この空間が異様な空気に包まれている。ルーノ自身、自分が今ここに存在しているのか疑わしく感じられたほど、現実味がない。この場では、ルーノの方が異物のようだった。


「あ、あなたは……誰? ううん、何者なの?」


 ピュルサーの金の瞳を呆然と眺め、チェスはうわ言のようにつぶやいた。ピュルサーは目を少し細める。


「俺は悪魔だ。だから、人にはない力を持つ。どんな危険からもお前を護ろう」


 チェスの唇が、あくま、とかすかに動いた。無理もない。ルーノでさえ受け入れがたかったのだ。


「ど、どうして、私を? なんで……」


 戸惑うチェスの手をピュルサーはつかんだ。


「わからない。でも、死んでほしくない。護りたいと思った。――チェス、俺に続いて唱えて」

「え?」


 ひどく震えているのに、チェスはピュルサーに嫌悪感は抱いていなかったのだろうか。まだ、ピュルサーが悪魔だということを信じていないのかもしれない。


「汝、ザムエル・ピュルサー、我と契約せん」


 あの金色の瞳を覗き込むと、誰もが吸い込まれそうになる。抗うこともできず、チェスは唱える。


「汝、ザムエル・ピュルサー、我と契約せん」


 ルーノはハッとしてフルーエティの方を振り返る。そこにいたフルーエティは人の装いを解き、本来の姿であった。その表情は厳しく、ピュルサーたちを見つめているものの、止めに入る気配はない。


「おい、契約って……チェスはどうなるんだよ?」


 ピュルサーの主君であるフルーエティならば、ピュルサーを止めることもできるだろう。あれだけ構いすぎるなと言っていたのだ。

 けれど、止める気があればすでに止めているだろう。フルーエティは動かない。静かに佇み、そうしてルーノにだけ向けてつぶやく。


「ピュルサーがフランチェスカに害をなす者から護るだろう。引き換えに何かを要求するつもりもない。ただ、契約という繋がりによって優先して力を貸す、それだけのことだ」


 チェスに不利益はないと言うのか。


「いや、まったくないわけではない。悪魔との契約は人知を超えた力を得るということ。人の世には禁忌だ。この先、フランチェスカがどう生きるのかまでは俺にもわからん。ただ、戦乱の中で生き永らえるにはピュルサーがついていた方がいいとも言える」


 フルーエティにも正解など見えぬのだ。人の心が読めたところで、間違えぬわけではない。

 このまま契約など結ばずとも、ピュルサーにとってチェスは特別で、終始気にしてしまうのならば同じことだ。止めるよりも、いっそ身近で護れと判断したと、そういうことなのだろうか。


 フルーエティがそう思うのなら、ルーノに何かを言えたものではない。けれど、父親のウルタードには申し訳ないような気にもなる。


「我をあるじとし、我が命尽きるまで我を護り、我が力となれ」

「我をあるじとし、我が命尽きるまで我を護り、我が力となれ」


「我が名は、フランチェスカ・ウルタード」

「我が名は、フランチェスカ・ウルタード――」


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