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「あいつらの相手が面倒になったんだろ」
ルーノはからかうようにして早足のピュルサーに言った。しかし、ピュルサーはルーノの方を振り向きもしない。
「違う」
「違うのか?」
思えば、彼らは悪魔なのだから、それこそルーノには想像もつかないような歳月のつき合いがある。今さら面倒も何もないのかもしれない。それにしてはピュルサーが急いている気がした。
ルーノが横に並ぶと、ピュルサーは牙を見せて唸った。
「チェスのことが心配だから戻りたい」
「またそれかよ」
しかし、ルーノも気にはなる。チェスのこともだが、それ以上にフルーエティが何を考えているのかがわからないから気味が悪い。
前は偽者を排除しておかねば今後の禍根となるといった意味合いのことを言っていたというのに、ラウルと会ってからフルーエティはラウルを排除するのではなく取り込もうとしているようだった。
けれどそれは、冷静に考えて無理なことではないのか。
ルシアノと名乗りを上げた以上、ラウルは王家の名を騙る極悪人である。ルーノが素性を明らかにした時点でラウルの命運は尽きる。それを庇えと言うのか。
優しい優しいルシアノ殿下は、自分の名を騙った偽者にも慈悲を垂れ、家臣に迎え入れる――そういう筋書きをフルーエティは用意しようというのだろうか。
そんな三文芝居をルーノに演じろと。正直、反吐が出る。
ルーノはひと目見た瞬間から、ラウルとは相容れないと感じ取った。何から何まで合わない。それはきっと、求めるものが同じなのだ。ルーノがそばに置ける数少ない人間、チェスとエリサルデ、それからフルーエティ。ラウルはそのすべてをそばに寄せようとする。
それは結局のところ、似ているということなのかもしれない。認めたくはないけれど。
食堂に戻ると、昼間の騒がしさが嘘のように静かだった。夜になると酒場として営業するのだろうか。だとすると、その準備時間であり、今は客を入れていないのだろう。
扉に鍵はかかっておらず、中に入ると従業員たちが客席に座って休んでいた。その中にエリサルデが混ざっている。ルーノが外をふらついていたから気になって待っていたのだろうか。
「あら、おかえりなさい」
食堂の女将らしき女がにこやかに迎えてくれた。恰幅がよく、懐も広そうな笑みを浮かべている。
「……アンタたちもレジスタンスなのか?」
ルーノがそう訊ねると、女将は分厚い胸をドンと叩いた。
「そうさ。たまたま王都まで買い出しに出ていた時、殿下がソラール兵を相手に名乗りを上げられていて、いても立ってもいられず、何かお役に立てることはないかって考えていた時にこの町で殿下と再会することが叶ったのさ。それ以来、ずっとだね」
愛国心からの行動だ。この女将は少なくとも真剣に祖国を想っている。ルーノにもそれがまっすぐに響き、柄にもなく戸惑った。眩しいものを見たような気分でとっさに目を逸らし、エリサルデを見た。
けれど、エリサルデは人目のある場所でどうルーノに接していいのかわからず、困惑顔で固まっていた。その時、女将が言った。
「アンタたち、今晩は泊っていくんだろ? 二階に部屋を用意してあるから、そこを使いなよ。あっちは襲撃されて怪我人だらけだって言うし、早く戻らなくちゃいけないのはわかるけど、計画はちゃんと練ってから動かないとね」
「あ、ああ……」
どうにも勢いに押されてしまう。そんなルーノと無言のピュルサーに女将は畳みかける。
「アンタたちの連れの黒い人、すごく頭がいいんだってね。さっそく殿下がお気に召したみたいで色々話してるから、きっといい作戦が浮かぶよ。殿下が王座に就かれて、早くこの国が平穏になったらいいねぇ」
「ん……」
ルーノは曖昧に答え、そうして食堂の奥へ向かった。フルーエティとラウルがいると思われる部屋を通り過ぎ、そうして二階へ続く階段を上った。いくつか部屋があったけれど、扉を開けてある部屋がひとつあり、多分そこを使えというのだろうと思い、ルーノはその部屋へ入った。ピュルサーも特に行き場もないようでついてくる。
「チェスの気配がない」
ポツリ、とつぶやく。
ルーノは剣を下すとベッドではなく床に転がってため息をついた。
「知るかよ。あいつだって息抜きに買い物くらい行くだろ」
「……」
マルティとリゴールは帰っただろうか。しつこく残っていたら、チェスに不審者じみたつきまとい方をしているかもしれない。
そう思ったけれど、後でフルーエティに叱られるかと、チェスの前に姿は見せない気がする。それならば害はなく、むしろピュルサーのようにチェスの護衛になっているだろう。
彼らがいたらいたで、チェスはかえって安心だ。ルーノはそう思って床で目を伏せた。
そうしていても、下の階のフルーエティとラウルの会話など聞こえてこないけれど。フルーエティは何を考えているのだろう。
悪魔だから、人の心を読むばかりか、操るようなこともできるのだろうか。ラウルはすっかりフルーエティを信用したというのか。その正体も知らずに。
することもなくこうして横になっていると、ルーノも次第に眠くなってきた。今後何があるかわからないのだから、体を休められる時は素直に休もうと、そのまま床に転がって眠った。
闘技場で生活していた時もレジェスが同じ部屋にいて、誰かの足音が近づくとルーノよりも敏感に起きて知らせてくれた。ピュルサーはルーノにさほど興味もなく、チェスのことばかり気にしているけれど、いないのであれば仕方がないとばかりに壁際に座り込んでいる。
そこからルーノの意識は曖昧である。フルーエティが一度くらいはこの部屋にやってきたのかどうかも知らない。ただ、ピュルサーが足を踏み鳴らすようにして勢いよく立ち上がった音でルーノは目を覚ました。窓の外は薄暗い。
「……なんだよ?」
眠りを妨げられたルーノがピュルサーを軽く睨んでも、彼はルーノなど見ていなかった。自らの頭に手を添え、震え出した。そのただならぬ様子に、ルーノは横に置いていた剣を手に立ち上がる。
「お、おい」
すると、ピュルサーはつぶやいた。
「リゴールから、チェスが男たちに連れていかれるところを見たと――」
悪魔同士、思念でやり取りをしている。リゴールとマルティはまだ魔界に帰らず町にいて、そこでチェスが連れ去られるところに遭遇したというのか。
ピュルサーはすでに冷静さを失っていた。獣のような俊敏さで部屋を飛び出す。
「あ、おい!」
あの速度ではルーノが追いつくことも難しい。それでも、さすがに放ってもおけず、廊下に出た。その時、すでにピュルサーの姿は跡形もなかった。速いというより、消えたと言った方が適切だ。それと入れ替わるようにしてフルーエティがルーノの前に姿を見せた。
「なあ、チェスが連れ去られたって。ピュルサーが行けばゴロツキくらいは蹴散らすだろうけど……」
それでも、色々と心配はある。フルーエティは嘆息した。
「あのララという女もまだ戻ってきていないな」
「ん?」
「まあいい。マルティとリゴールまで出張ってきたようだが、念のためにお前も連れていってやろう」
フルーエティはその場の空間を一部歪め、そこにルーノを誘った。魔界から地上へも自由に行き来する上級悪魔が人と同じように汗水流して走るはずもないのである。




