*15
僕たちに見送られ、開いた門の外へ出る。そこから続く崖の先に、人型をしたピュルサーがポツリと立っていた。
マルティとリゴールはいない。フルーエティはピュルサーだけを呼んだのだろう。ピュルサーはあれから多少は気持ちを落ち着けた様子だった。ただ、どこか以前とは違うようにも見える。
フルーエティにひざまずき、礼を取った。そんなピュルサーを見下ろすフルーエティの瞳がどこか柔らかく感じられるなどと言ったらどうだろう。フルーエティであっても、配下である悪魔には情もあるのか。その情のひと欠片も人間には持たないのかもしれないけれど。
余計なことを考えると、また心を読まれる。ルーノは気を引き締め直した。
そんなルーノを、フルーエティは振り返る。
「ついてこい」
短く言って、黒い爪先が崖を蹴った。ふわり、と花弁のごとく軽やかに風に乗る。そのフルーエティの背を追い、ルーノは崖から跳んだ。空を飛べるはずもないルーノの体は真っ逆さまに落ちていく。
恐怖心はない。赤い光が見えた時、ルーノは目を閉じた。
浮遊感が消え、大地をひっくり返されたようなわけのわからない感覚の後、ルーノはまた地上にいた。まだ意識がぼやける。これに慣れるのには、まだしばらくかかりそうだ。
それでも、立っていることはできる。最初よりはいくらかマシだろう。
頭を軽く振って気を取り直すと、ルーノはひとつ息をついて前を見据えた。そこは汚い路地裏である。
傍らには、人間に化けたフルーエティとフードを被ったピュルサー。
前回来た時と同じようにルーノたちは横手の扉に近づいた。扉を叩くと、中から緊張した気配を感じた。
「……名乗れ」
「ルーノだ。他二名、この間と同じ面子で約束通りに来たぞ」
扉の覗き穴からこちらを見ている目があった。カチリ、と鍵が外される。
「入れ」
開いた隙間から中に入り込む。そこにいた人数は、前回の半数ほどでしかなかった。そのことに拍子抜けする。
「今日は随分少ないんだな」
思わず言うと、一番年嵩らしき男がうなずいた。体が大きく、年齢は五十を超えているように見えるが、弱々しさはない。何らかの肉体労働をこなしてきたように思う。
「ああ、いろいろと準備があるからな」
なんらかの活動の準備ということだ。
ソラール王国に盾突く、偽王子を旗印にするレジスタンス――。
なかなかに滑稽であるが、それを当人たちが知るわけではない。滑稽なのは、悪魔の手を借りるルーノも同じかもしれないが。
「チェスはいないのか?」
フードを被ったピュルサーがそう問うた。
わざわざ人間に話しかけるとは、意外だった。それほどにチェスのことが気にかかるのだろう。
男は一瞬怪訝そうにしたけれど、すぐにニヤニヤと笑った。
「なんだ、坊主、チェスに会いたかったのか? あの子は準備班にいるから、まあそのうち合流できる」
「そのうちって、いつだ?」
前のめりになるピュルサーをフルーエティが肩で遮る。そこでようやくピュルサーは冷静になって下を向いた。
男はまた笑った。
「ひと目惚れか? 若ぇなぁ」
「は? あいつ、男だろ?」
ルーノが思わず言うと、男は苦笑する。
「髪も短くして、男の格好してるだけだ。男にしちゃ綺麗すぎる顔だと思わんか?」
言われてみれば、華奢だ。まだ子供だからと思ったが、女だとするなら、そこまで子供でもないのかもしれない。
フルーエティを振り返ると、特別な感情は浮かべていない。最初からわかっていたのだろう。
誰かに顔が似ているという。本当に、それだけの話なのだ。
チェスがその誰かではない。
ただし、チェスはルーノにも多少縁のある存在だとフルーエティは言った。男であれ女であれ、ルーノに思い当たる節はない。
「――と、まあ、あの子の話は置いといて。今回の作戦だ。あんたら強そうだが、見かけ倒しじゃないことを祈るよ」
この組織がどこまでのことをするつもりなのかは知らない。けれど、それほど血腥いことを選んで行うようには思えなかった。向かってくる兵士を斬り殺せと言われても、フルーエティばかりでなく、ルーノも淡々とそれをこなすけれど。
男はカミロと名乗った。レジスタンス結成当時からのメンバーだという。
カミロは机の上に折り畳んであった紙を広げた。文字は一切なく、図面だけである。その図面の一角を指さした。
「王都から南下したこのバディア平野では、毎月一日にソラール軍第一と第二部隊の模擬戦を行っている。まあ、武装した軍人に俺たち民間人が正面から勝てるとは言わねぇけどよ、少しばかり難癖つけてやろうぜって話だ」
この前、その作戦を詳しく教えなかったのは、新参者に教えて漏洩する心配をしたからだろう。
それにしても、地道なことをする。レジスタンスがソラール王国を追い出すなど、夢のまた夢だと少し可笑しくなった。
それを感じたのか、カミロは言った。
「王都の動向を把握しつつ、それでたまにはこうして動きを見せて牽制しておかねぇと」
牽制というが、ソラール軍が民間のレジスタンスなど脅威とは認識していないだろう。
そこでふと、ルーノは訊ねた。
「ソラールのヤツらは、こっちにティエラの王太子がいるって知ってるのか?」
すると、カミロはフン、と鼻で息をした。
「知ってるさ。殿下が名乗りを上げられたからな。ただ、信じちゃいねぇ。そりゃあな、認めるわけにはいかねぇんだろうよ」
そこで黙っていたフルーエティが口を挟んだ。
「当時、御年十歳であったルシアノ殿下の亡骸は、一度民衆に晒された。だが、それが替え玉であったという噂が立った。その子供の亡骸は、ルシアノ殿下のご尊顔を知る者からすれば似ても似つかぬ容貌であったと」
カミロはうなずく。
「殿下がお話くださったことなんだが、替え玉を立ててご自分は落ち延びるようにと城から出されなさったそうだ。そりゃあ、王太子だもんな。何があっても逃がしたかったはずだ。屈辱に耐え、泥水を啜って生きながらえたと、声を震わせて仰られたよ」
その言葉に、ルーノはスッと目を細めた。騙る者も馬鹿だが、そんな三文芝居に騙される方も大概だと。
「ソラール軍は今、南のサテーリテ王国に侵略すべく力を蓄えている。ソラール本土とサテーリテ王国の中間にあるこの地があれば補給もできる。ソラール軍は負けるつもりはないだろう。ただ、ソラール軍がサテーリテ侵略に集中している間、ティエラの残党がこの地を取り戻す機会であるのは間違いない」
もし、ソラール軍をこの地から追い出すことができれば、サテーリテ王国は命拾いをすることになる。そうなれば、ティエラ復興の際、多少恩を着せることもできる。少なくとも、サテーリテ王国がソラール軍を追い出して疲弊したところを襲ってくる可能性は低くなる。
そんなものは人の倫理に頼ったことであるから、もしルーノがサテーリテ王であったら義理を通したかどうかは知らないけれど。
ソラール王も欲を出さずにいればいいものを、大陸制覇が大望なのだろうか。
実に愚かだと、ルーノは冷めた心で思った。




