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悪魔は人間ほど眠ったり、体を休めることをしなくてもよいのかもしれない。人よりもずっと頑強である。
それよりは遥かに軟弱なルーノには部屋が与えられた。そこは客間などではなく、物置として使っていたような部屋であった。部屋は余っているように見えるが、王族とはいえただの人間であるルーノにそこまでの好待遇をしてやる義理もないらしい。
それでも、闘技場で惨めな生活を送っていたルーノにしてみれば、寝台まで運び込んでくれたのだから、それほど不満もなかった。ただ、フルーエティが後に言うには――。
「今からお前にいい部屋を与えようものなら、王座なぞにますます興味を示さなくなるだろう。いい暮らしは王座に就いてからしろ」
とのことである。
ただ、ルーノはいい暮らしなどさして興味もない。国の奪還も、フルーエティが退屈しのぎにさせようとするだけで、それがルーノの意志かといえば、そうではない。
そんな欲は湧かなかった。
いろんなものを失って、それで今に至る。ふと、どうして今、生きているのかと思う瞬間さえある。
執着は、未だどこにも持てないのだ。
それは、もしかすると――。
あのまま王太子として育ったとしても同じであったのではないか。もとより、ルーノは何かに固執することが苦手なたちであったのかもしれない。顔も知れぬ民草の健やかなる暮らしを願う、そんな王にはなれない。
ルーノが王になること。それは民にとって幸か不幸か。
それはルーノ自身にもわからない。
与えられた部屋でひと晩休むと、ハウレスが食事を運んでくれた。どうやらルーノの世話はこのハウレスの担当になってしまったようだ。迷惑な話だと思っているかもしれないところだが、主の酔狂から始まったことなのだから仕方がない。
朝食は、昨日食べたものとほとんど同じだった。そこに茹でた卵がついたくらいである。
「食べ終わったら応接間に来るようにとフルーエティ様が仰っておいでです」
「ん……」
口の中のものを飲み込むと、ルーノはうなずいた。ハウレスはルーノが食べ終えるのを待つと、食器をトレイに載せ、それを手にルーノを案内した。ルーノが借りている部屋から応接間までは廊下を三度ほど曲がり、直線をひたすら歩く。つまり、わりと遠かった。
重厚な暗色の扉をハウレスがノックする。
「フルーエティ様、お客人をお連れしました」
ハウレスは三将たちとは違い、ルーノに少しばかりは敬意を払ってくれている。けれどそれはルーノ自身のせいではなく、フルーエティの手前であるのだろう。
「入れ」
フルーエティの声がする。
ハウレスはルーノに目礼すると去った。ルーノは応接間の扉を開く。
「……朝なんだか夜なんだかわかりゃしねぇところだよな。ここにいると時間の感覚がわかんねぇ」
艶やかなソファーの上でふんぞり返っているフルーエティにルーノはぼやいた。フルーエティは表情ひとつ変えずに言う。
「ここは地上とは時の流れが違う。そんなことを気にするだけ無駄だ」
「なんだそれ……」
「では、出かけるぞ。レジスタンスどもと合流するのだろう?」
ニヤリ、と嫌な笑みを見せた。ルーノは思わず顔をしかめる。
「なあ、んなまどろっこしいことしなくてもいいんじゃねぇのか? オレの偽者の居場所もお前はもうわかってんだろ?」
さすがにルーノでも、自分の名前を騙る偽者が、それを信じきっている連中を相手に偉そうに振る舞っているのは気分がいいものではない。とりあえず化けの皮は剥いでやろうと思う。
けれど、それをするのにフルーエティがわざわざ手間をかけようとするのが面倒だった。
「そうだが、手順を踏んだ方が面白くなる」
「面白くってなんだよ」
「あのレジスタンスは皆、ティエラ王国の者だからな。その忠誠をお前が受け取らねばならない」
忠誠――。
そういえば、本来ならばそういうものを向けられる立場だった。遠い昔のこと過ぎて、少し忘れていたような感覚だった。ただ、今となっては血塗れのルーノが崇め奉られるのも馬鹿らしくはある。
「約束は明日だよな?」
ため息交じりに言う。昨日、明後日と言われたのだから、一日経って明日のはずだ。
それをフルーエティは嗤った。
「地上と時の流れが違うと言っただろう? 時間軸は歪める。今から行くのは、地上での予定の時刻だ」
意味はわからないが、フルーエティがそういうのなら、反論などせずともその時刻に着くのだろう。
もう、言い返す気もなかった。へいへい、と適当に返事をした。
すると、フルーエティはそんなルーノにポツリと言った。
「あのチェスという者、お前に縁の存在でもあるぞ」
「へ?」
そう言われても、心当たりはない。大体、あの若さならば国が侵略された時にはまだ幼かったはずだ。あの子供の何がレジスタンス活動に身を投じるほどの熱を持たせるのか、それもわからない。
「名を聞けばわかるだろう」
「本人に聞けとか言うんだろ?」
「そうだな」
やはり、簡単には教えてくれないらしい。
しかし、気になることがある。
「なあ、フルーエティ。お前、あそこにいて殺したくならないのか?」
フルーエティは答えなかった。ただ静かに座っている。ルーノは続けた。
「お前の嫌いな人間がひしめいていて、殺したい衝動はないのかよ?」
もし、ルーノの目の前で蛆が這い回っていたなら、ルーノは躊躇いなく踏み潰す。見るのも不愉快で、動いているだけで汚らわしく思う。
フルーエティにとっての人とはそうしたものではないのだろうか。それは極論だろうか。
嘆息する音が聞こえた。
「ただ殺してはつまらん」
戦で、向かってくる人間をなぎ倒す方がいいとでも言うのか。
武器などあろうと、悪魔にはそうそう通用しないだろう。その歴然とした力の差を愉しむと。
「どっちみち悪趣味だよな」
思わず言ったルーノの言葉を、フルーエティは完全に無視した。その横顔が気に入らなくて、ルーノは続けた。
「なあ、誰に似てんだか知らねぇけど、ピュルサーが引っかかる程度には、お前だってあのチェスってガキのことが気になってんじゃねぇのか?」
顔を背けたまま、フルーエティは目だけをルーノに向けた。小馬鹿にしたような、冷めた目である。
「まさか。顔が似ているだけの人間に思うところなどない」
触れられたくないことだと、そう口に出さずとも伝わる。フルーエティの機嫌を損ねて得になることなど、ルーノには何ひとつないのだ。
わかってはいるけれど、未だよくわからぬままの存在であるフルーエティたちのことを知る取っかかりのように思えて気になる。それはごく自然な感情ではあった。
「さあ、行くぞ」
フルーエティは立ち上がるとルーノの横を通り過ぎて応接間を出た。ルーノも渋々それに続く。




