Gedächtnis ― 過去 ―
教会の祭壇の前で祈りを唱える神父に合わせて、クルトも手を組んで祈りを捧げた。教会に入った途端、クルトは肩の傷が燃えるように熱くなっていくのを感じた。本当にローゼマリアが悪魔なのだろうか。肩の傷が悪魔の痕跡だと証明されたとしても、クルトは決して認めたくなかった。
祈りが終わると神父はクルトに向き合う形で座りなおした。彼は責めるような表情はせず、むしろ穏やかに微笑んでクルトの心を解きほぐそうと努めているようだった。
「さてクルト、神の御前では嘘はすぐに見抜かれてしまいます。昨夜君の身の上に起きたことをすべて語ってもらいたい。それを聞いたうえで君が為すべきことを一緒に考えましょう」
初老の神父の物静かな口調がクルトの頑なな心を解きほぐす。心に秘めて苦しかった想いを打ち明ければ神父は救ってくれるのではないか。ほかに頼れるべきものが無いならすべてを委ねてみようと、クルトは昨夜に至るまでの長い長い経緯を神父に語った。
ときどきクルトの肩の傷が抉られるように痛んだ。ふたりの秘め事を暴いてほしくないとローゼマリアが叫んでいるように感じた。
クルトの話をすべて聞き終えて、神父はゆっくりと頷いた。
「よく打ち明けてくれました。君は彼女を想うがゆえに深淵に嵌っていってしまったのでしょう。彼女が本当に悪魔なのか、または悪魔と契約した人間なのか、それはまだ分かりません。ただわたしは君の話を聞いているうちに、あることを思い出しました。それが君の話と関わりがあるかどうかも分からないが、聞いてもらいましょう」
クルトが頷くと、神父は語り始めた。
「それはわたしがまだ小さかった頃の話なので、詳しいことを後に母から聞いたものなのです。その頃はこの辺りは大きな帝国の領土であり、これを治めていたのは皇帝でした。あるとき森の中に大きなお屋敷が建てられた。どなたのお屋敷かと村の者はたいへん興味を持ちました。噂では遠い都におられる皇帝陛下に仕えていた大変腕の良いお医者さまだというのです。そのような方が宮廷の職を辞してこのような辺境の森の中に隠居するとは、どういう理由なのだろうと誰もが思いました。
その方は森に越してきてから、われわれの村にも診察に来てくださるようになりました。まだとてもお若い方でしたが気さくで、村の者とすぐに親しくなりました。
先生には美しい奥様がいらっしゃいました。何でも元は都で歌手をなさっていたのだとか。皇帝陛下が奥様の歌をたいへん気に入られていて、陛下のお付でコンサートを訪れたさいに出会われたのだそうです。しかし、結婚されてすぐに奥様が不治の病に侵されていることが分かり、療養のために森へ越してこられたということでした。
森へ越してきてから二年ほどして、奥様は亡くなられてしまいました。奥様が亡くなられる数ヶ月前から、先生は村にまったく姿を見せなくなってしまいました。先生に診ていただいていた者たちは非常に困って、先生のことを悪く言うようになりました。
やがて大きな戦争が起こりました。国中の若者が戦争に駆り出され村からも多くの若者が出征していきました。徴兵に来た役人はこの辺りに医師が住んでいないかと訪ねました。先生は宮廷の医師を辞めたのではなく、逃げ出して来たのです。先生に不満を抱いていた村の者たちはすぐに先生のお屋敷の場所を教えてしまいました。
それから役人たちは先生に従軍医として戦地に行くよう命令を出したのです。しかし先生はそれを拒み続けていました。しかしとうとう先生は強制的に連れていかれてしまったのです。そしてそのお屋敷は無人となり、誰からも忘れられてしまったのです」
クルトは驚いた目で神父を見ていた。森の奥の屋敷、美しい歌手、夫の出征……ローゼマリアに重なる部分がある。しかし根本的なものが違っている。まず時代がまるで違う。その話の『医者の妻』がローゼマリアなら彼女はもう七十歳近くあるいはそれを越えているはずだ。さらに『医者の妻』は夫が出征した時点でもう亡くなっているはずなのだ。何故神父はローゼマリアの話から『医者』の話を思い出したのだろうか。彼女がヒトではない存在だとでも言いたいのだろうか。
「神父さま、それはつまりその『医者の妻』の魂が悪魔を呼び寄せてローゼマリアの幻影を作ったと言いたいのですか」
「いまのところ、その話に君の出会った女性が関わっているかどうかは分かりません。ただ、万一そうであったなら、君はいずれ悪魔から逃れられなくなってしまいます」
クルトは激しく首を振った。そんなことは決して信じたくない。そんなことがあるはずはない。
「でも彼女はぼくを餌食にしようとしているわけではない! 本当にそんな下心があるのなら分かります! 彼女は純粋にぼくの訪問を喜んでいた!」
神父はそう言って頭を抱えたクルトを憐れむように見た。そして言った。
「わかりました。クルト。次にその女性に会いに行くときにはわたしが悪魔祓いのまじないを施しましょう。彼女が本当に人間ならばそれは意味を為さない。しかし悪魔の息が掛かった者であった場合、彼女に君の姿を見ることはできない。それではっきりするでしょう」
クルトはそろそろと顔を上げて神父を見、すこし間を置いてゆっくり頷いた。
「では、ともかくその傷を何とかしましょう。その姿でお母さんに会えば、亡くなったばかりのお母さんの魂が悪魔に侵されてしまいます」
神父はそう言って祭壇の脇に置かれていた水盤を持ってきた。水盤に張った澄んだ水に少し指先を入れて濡らすと、祈りの言葉を呟きながらクルトの肩の上で払ってその水滴を傷に散らす。ほんの僅かな水滴が掛かっただけで、クルトは傷口が大きく開いて血が流れ出したのではないかと思うような激しい痛みを感じた。傷のある方の腕をもう片方の手で掴んで爪を立て、必死に堪える。我慢していても呻き声が漏れてしまう。そうやって痛みに耐えているうちに段々とそれが感じなくなってきた。
神父はクルトの痛みがほとんど消えたことを察すると水滴を垂らすのを止めた。そして最期に掌でクルトの傷口を優しく包んだ。クルトは傷口が温かくなっていくのを感じてほっとした。
「この水は神によって浄化された『聖水』です。この水にこれだけ反応するということは、君は間違いなく悪魔に徴を付けられたのでしょう。処置を施したからもう大丈夫ですが、そうでなければこの徴を辿って悪魔は君の魂を取りに来たことでしょう。しかし目を付けられていることは確かだ。十分に気をつけなさい」
神父は神妙な顔でクルトに警告した。
クルトの母親の葬儀がしめやかに行われた。母が亡くなった日に帰らなかっただけでなく、これまでローゼマリアのことばかりを考えて母の様子に気を配っていなかったことを激しく悔いた。母の世話をスザネに任せっきりにして自分は何をやっていたのだろうか。良い薬を買い与えるだけで十分世話をしているつもりでいたのだ。
スザネはあのあとは一切クルトを責めなかった。淡々と葬儀を取り仕切り、それが終わると母親の寝ていた部屋を黙々と片付けていた。
大方の事が片付いたとき、クルトはスザネに改めて謝った。
「スザネ、本当に済まなかった。ぼくは宮廷の演奏家になったことでいい気になっていた。悪魔はそんな傲慢な心に取り憑いたのだろう。母さんのこともスザネのことも忘れて自分のことばかりを考えていたぼくを戒めようとしているのかもしれない。もう母さんの面倒を見てやることはできないが、これからはスザネに寂しい思いをさせないように気をつけるよ」
スザネは繕い物に目を向けたまま答えた。
「もういいよ、クルト。クルトだって一所懸命やってきたんだ。母さんがこれだけもったのも、クルトが街でいい薬を手に入れてくれたからさ。母さんは最期に言っていた。クルトが立派な演奏家になって鼻が高いって。母さんのためにもこれからもいい演奏をするのがいちばんさ」
スザネはこちらを向かずに微笑んでいた。クルトはその姿を見てまた申し訳ないと思う気持ちが込み上げてきた。スザネにだけは森での出来事を話しておかなければならない。そう思ったクルトはローゼマリアのことや神父に言われたことをかいつまんで話した。
スザネはいつの間にかクルトのほうを向いて真剣な目をしていた。その目には僅かに怒りも篭っているようだ。全部聞き終えて大きな溜め息を吐き出したスザネは、呆れたように言った。
「クルトは馬鹿だ。どうして気づかないんだい。それは悪魔に決まっているじゃないか。悪魔はどんな人間にも動物にも化けることが出来るんだ。どうしてもその女が悪魔とは思えないって? そりゃそうさ、悪魔はずる賢いんだ。虜にしたいと思う相手の前でみすみす化けの皮を剝がす様なことをするもんか。村のみんなで協力すればそんな悪魔なんてやっつけられる。犠牲者を増やさないためにそいつを早く退治しなくちゃいけないよ。もう目を覚まして悪魔退治に協力するんだ、クルト!」
以前ならそんなことを言うスザネを怒鳴りつけていただろう。しかし悪魔の犠牲になった人たちや母親のことを考えるとスザネの言うことは正しいのかもしれないと思わざるを得なかった。
「スザネ。おまえの前でこんなことを言う僕は本当に愚かだと思うが、ぼくはそれでもまだローザを愛しているんだ。彼女が本当に悪魔だという証拠を見なければ彼女を殺すことなどできない。ぼくはもう一度ローザに会いに行く。神父さまがまじないを施してくださるそうだ。そしてローザが悪魔だと分かったときは諦めて逃げてくる。そのあと村の者たちにきちんと打ち明けて悪魔を退治しに行くよ」
クルトはスザネにそう言って頷いてみせた。スザネは怒りと憐れみの混じった複雑な表情でクルトを見つめていたが、何も返事を返さずにまた繕い物に目を落とし、そのまま黙って作業を続けていた。
母親の葬儀と後片付けを終えて、クルトはローゼマリアに会いに行くことにした。森に入る前に、神父は教会でクルトに悪魔祓いのまじないを施した。それは神父がまじないの言葉を唱えながら聖水に浸した指でクルトの全身に悪霊払いの言葉を書くことだった。裸になったクルトの体にびっしりと文字を書き込む。無色透明の水で書いた文字は人間の目には見えない。しかし悪魔にとってはそれが結界となり文字の書かれたその物自体の姿を隠してしまうという。神父はクルトの着る服や靴にもすべてそれを施した。爪の先や髪の毛は聖水を丁寧に塗る。
ひととおりの作業を終えたあと、神父はクルトに言った。
「目の中だけは、聖水を塗ることはできません。悪魔の前では決して目を開けてはいけませんよ。目の玉を抉り取られてしまいますから」
クルトに念を押したあと、神父はクルトに小さな剣を渡した。
「これは聖なる短剣です。小さな物なので護身用にしかならない。大きな剣では逃げるときの邪魔になってしまいますから。悪魔に襲われたら取り合えずこれで威嚇してすぐに逃げてくるのですよ」
クルトは神妙な顔で頷いた。そして神父に礼を言うと、いよいよ森へと入っていった。クルトが森に入って行くところを見届けたスザネは、急いで教会へと走った。
「神父さま、お願いです……」




