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脅迫が言うには

 ──あのハンカチはどこへしまっただろうか。

 目を開けると知らない天井があって、フィオリーナは夢から醒めていった。

 懐かしい夢を見た。

 ここ最近の騒動で忘れかけていた、悪女の噂を初めて知ったときの記憶だ。

 そしてあの軍人はフィオリーナを二度も助けてくれた恩人だった。

 悪女の噂を知ってから半年以上は過ぎたが、まだ一年は経ってない。けれど、実家に居た頃は毎日のように思い悩んでいたというのに、悪評を思い出すこともすっかり稀になっていた。


(昨日あんな話を聞いたからだわ)


 フィオリーナにとっては、夢でよみがえった出来事のほうが大事件だった。

 乱暴しようとした男は警邏に引き渡されて、兄が正式に訴えて裁判で勝訴したと聞いている。

 けれど、助けてくれたあの軍人とはあれから一度も会っていない。

 彼と初めて会ったのは、十四歳のデビュタントのときだ。

 十四歳だったフィオリーナにとって、軍服姿の彼はすでに大人の男性だった。

 誰も寄せ付けないような冷たい雰囲気だったが、迷子になって泣きそうなフィオリーナを見捨てないで会場まで連れていってくれたのだ。

 それからというもの、夜会に出るたびにそれとなく彼を探していた。

 けれど、フィオリーナの婚約が決まってからは彼の影を探すことを半ばあきらめてしまっていたのだ。結局、再び彼に助けられるまで会えることはなく、それ以降は会える機会すら失くしてしまっていた。

 ひと目見れば誰の目も惹くほど、整った顔立ちで背の高い人だった。

 その印象深い容姿はどこに居ても目立ちそうだと思ったが、いっしょに彼と話した姉に尋ねても彼はどのシーズンでも見かけることはなかったという。デビュタントの舞踏会で出会ったのが本当に奇跡だったのだろう。

 探していたときの、甘いような痛いような焦燥をよく覚えている。

 あれが初恋だと言われれば、今では素直にうなずけそうだった。

 フィオリーナは恋など経験したこともないし、きっとこれからも無い。

 それでも、あの焦燥をただの憧れというにはとても甘い思い出だった。

 形のなかった甘い気持ちに初恋だと名前をつけると、フィオリーナの中で宝物のように輝いて、すんなりと心の宝箱に収まった。

 五年越しにようやく大切な思い出としてあるべきところに仕舞えた心地だった。

 十四歳のフィオリーナではきっと、梃子でも動かせないほど認めなかったにちがいない。

 ふふ、と思わず声が漏れた。


(本当に、五年は長いのね)


 フィオリーナはもうすっかり変わってしまった。きっと王城で迷っても泣いたりしないだろう。


「おはようございます。お嬢様」


 アクアの声で今度こそフィオリーナはベッドから起きあがった。



 どうやら昨晩は疲れてそのまま眠っていたようだ。

 朝食をとってから帰り支度を始める。ラーゴは少し眠そうだった。

 大丈夫かと尋ねると、平気だとラーゴは笑った。


「兵役中は三日寝ないこともありましたから」


 どうやらラーゴも北部戦線でネーヴェと共にいたらしい。

 使用人が従者として主人と共に従軍することもあるというから、彼もそういう職務についていたのかもしれない。

 クリストフたちが起き出すまで待つことにしたが、彼らが起きてきたのは昼前のことだった。

 昼食をとるかと使用人に尋ねられたところで、クリストフがベストとスラックス姿でフィオリーナたちが休憩していたサンルームに現れた。

「昨日はお疲れ」と一応ねぎらいの言葉を向けたが、クリストフはすぐに成果の話を口にした。


「昨日はなかなかいいデビュー戦だったと思うよ。これからもあの調子でがんばって」


 これもネーヴェのためだと思えばこそだが、ネーヴェの授けてくれた作戦ではおおかた敵ばかり作りそうだった。

 クリストフに続いてベロニカも起き出してきて、こちらは今日も完璧なドレス姿だった。昼にふさわしい淡いピンクのジャケットとスカートのスーツドレスだ。

 こちらもフィオリーナにねぎらいの言葉もそこそこに、


「悪女としてはなかなかいいスタートだったと思うわよ。これからもあの調子でいきましょ」


 誉め言葉なのか鼓舞なのかわからない言葉だ。

 今回の夜会はクリストフたちのいう通り、悪女としてはたしかに良いデビューだったかもしれない。けれど、ネーヴェとは一度話し合う必要がある。ネーヴェの言う通りにしていては、フィオリーナは正真正銘のとんでもない悪女となってしまいそうだからだ。

 過程と結果はともかく今は彼らなりの励ましなのだと思うことにして、フィオリーナはようやくランベルディを発った。

 

 オルミ領まで一時間と少しのことだったが、フィオリーナは馬車の中でぐっすりと眠ってしまっていた。自分でもそうとは気づけないほどやはり疲れていたのだ。



         ▽



 夕方前、オルミ領へ着く頃にはむしろすっきりとした気分で馬車を降りることができた。

 出迎えてくれたネーヴェにいつもの笑顔で「お疲れさまでした」と声をかけられて、フィオリーナはようやく肩の荷が降りた心地になった。


「手紙が届いていますよ」


 そろそろ夕食だが応接間でカリニがねぎらいのために入れてくれた紅茶を飲んでいると、ネーヴェが二通の手紙を渡してくれる。

 父と兄からだった。

 ようやく送金の話などがまとまったのかとこちらも少し胸をなで下ろす。兄が父を説得してくれたのだ。

 手紙はあとで読むことにして、フィオリーナといっしょに応接間で休憩しているネーヴェにランベルディでクリストフたちとの話を話すことにした。

 研究の話をしたこと、それをクリストフたちも期待していること、それからシーズン最後に王都へ行こうという話。これにはネーヴェは「考えておく」とだけ答えた。


「こちらの状況も彼らに伝えたほうがいいでしょうからね」


 続いてネーヴェの失敗談を聞いたと話すと、彼は苦いものを食べたような顔で笑った。


「私も若かったんですよ」


 ネーヴェはまだ二十六歳だ。フィオリーナもそうであったように、彼の五年間も長かったのだろう。

 それから夢で見たこともあってからか、フィオリーナは自分が十四歳のデビュタントのときと十八歳のときに見知らぬ軍人に助けられた話もした。

 ネーヴェは最後まで黙って静かに聞いてくれていたがフィオリーナが話し終えると、


「あなたが無事で本当に良かった」


 そう言って微笑んでくれた。


「あれからあの方とは一度も会えていないのです」


 残念でならない、とフィオリーナがこぼすと、ネーヴェは「そうですね」と曖昧にうなずく。


「軍人は祝賀会以外の夜会などに参加する義務はありませんから。どうしてまた会いたいと?」


 不思議そうな顔のネーヴェに言うのも少し恥ずかしい思いがしたが、フィオリーナはためらいながらも口にした。


「二回しかお会いできなかったのですが……あの方がたぶん、わたくしの初恋だったのかもしれないと思うのです」


 つっかえながら告白したのはフィオリーナのほうだというのに、紅茶を飲みかけていたネーヴェが何かを喉につまらせたようにむせた。

 よっぽど変なところに紅茶が入ってしまったのか、何事も落ち着いた彼には珍しく、ごほごほと咳き込んで肩で息をしている。


「大丈夫ですか、ネーヴェさん」


 心配になってハンカチを差し出したフィオリーナに手を振って「大丈夫」と断って、ネーヴェは残った紅茶を一息に飲み干した。


「……私は大丈夫ですよ」


 目が明後日のほうへ向いているが、本当に大丈夫だろうか。

 その横顔があの軍人がハンカチを返してくれた、すこし幼く見えた様子となぜか重なった。

 暴漢から助けられたとき、フィオリーナにはもう婚約者がいた。あの事件のときにはもう恋心はなかったのかもしれない。

 でも、十四歳のデビュタントのときに感じていた焦燥めいた気持ちは、たしかに初恋だったと今では素直に感じられる。

 五年という年月はフィオリーナが思っていたより長いのかもしれない。


「……あの方ともう一度会うにはどうしたらいいと思いますか、ネーヴェさん」


 未練がましく気持ちを伝えたいわけではなかったが、せめてもう一度彼に会ってみたかった。

 しかし、尋ねられたネーヴェは珍しく顔を盛大にひきつらせた。視線を泳がせてフィオリーナに目を合わせない。


「……夜会で見かけないのであれば貴族ではないのかもしれませんし、さすがに消息はつかめないのでは…」

「ネーヴェさんの思いつくことで良いのです」


 教えてください、と迫るフィオリーナに、今にも応接間から逃げ出しそうなネーヴェ。

 ふたりの姿はきっと世界一滑稽だった。

 さいわい見かねたカリニが夕食の用意ができたと告げにきて、滑稽な脅迫は終わった。

 夕食を食べているとフィオリーナもようやく冷静になって、名前すら知らない軍人を探したいなどと言って困らせてしまったのはあんまりだったと反省した。

 けれど、食事中や食後もネーヴェはなるべくフィオリーナと目を合わせないようにしていたのは、すこし悲しかった。


 


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