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躓き

「思考は異なるだろう。理解できないだろう。まずはそれを知るしかない。エンは『帰るために帰らない』ことを選んだ。それはきっと恐ろしく苦痛を伴うだろう。今、理解する必要はない。そういうものだと知っておくといい。生きるものの多くは妥協と慣れで生きていく。できなければそこで終わる。それでも、譲ってはならない一線は大事なものだ。エン、自分にとってのそれが何か、そこはちゃんと持つように」

 ゆっくりと流れるような師匠の言葉。

 武骨な印象の強い師匠がここまで滔々と語るとは思わなかった。

「譲れないものは言え。言わなければ伝わらん。伝わらんものの対応などできん」

 がしがしと撫でられる。大事なコトは『伝える』コト。

「師は強く優れた方だから。弱者を理解されるは難しい」

「だから問われる。はじまりはできずともできるようになればできないが解し難くなる。なぜ、呼吸する? なぜ歩ける? エンは説明しようと思えるか?」

 ケトムに魔力を使って織りあげる地図用図布の織り方を教わりながらそんな言葉を聞く。

 あの時飲み込んだ虫の核が図布を織り上げる助けになり、その図布の上に地図を透写できる。そしてそれを複写して固定すると、販売できる地図となるという説明を受けた。

 ただ、販売しても職人から離れた地図は数ヵ月から数年で維持できなくなり消滅するらしい。

 その間におこった地殻変動ももちろん、反映されない。街で地図を管理している場合、流れの地図職人(基本地図職人は旅人らしい)に報酬を払って更新させるのが通例だとか。

 師匠でなく、ケトムが説明してくれるのは師匠にはこの図布の織り方がわからないかららしい。

 織れないではなく、織り方がわからない。

 師匠にとって地図を展開する基礎布は地図を描くときに共に生じるものだからだと。つまり地図を構築する時にはすでにあたりまえにあるがためにわざわざ別に織り上げる理由も手法も想像がつかないらしい。

『どうして砂糖水は甘いの?』と問われて『砂糖だから』『どうして砂糖は甘いの?』と連鎖的に問われて答えられなくなるような状況に近いらしい。俺とケトムの会話がちょっとこんな感じだった。

 感覚的にできてしまうようになっているとわからないことへの理解が難しいといういい例なんだろうと思う。

 ケトムは他の地図職人に図布の織り方を習っていた。その最初の師の死でゼンラウ師匠の元へ来たという。そのおかげで俺は地図用図布の織り方を教えてもらえるのだ。

 ありがとうケトム!

 ゆっくり意識を集中して地図を作りたいと、地図を描くべき紙をイメージする。

 白い、白い紙の上に広がっていく立体地図。できれば、しっかりした強いモノがいい。頑丈さなら和紙だろうか?

 障子や襖を思い浮かべた。

 ズキンと頭痛が走る。

 視線を落とせば手の上にのる小さな紙片がゆらり溶けるように消えていく。

「不思議な光沢の図布だったな」

 ケトムの声が真っ白に近い思考に滑り込んでくる。

 ぎりぎりと締め付けられるような頭痛。息を吐いてようやく自分が歯を噛みしめていたことに気がつく。

 耳鳴りがしてるような気がしてぐりっと耳の下を指でねじるように押さえ込む。

「エン?」

 ケトムの声が薄い膜越しに聞こえてくる。

「ケトム、魔力枯渇だ。休ませろ」

「はい」

 師匠の言葉にケトムが答え、俺は体を休める。

 自分の魔力の少なさが突き付けられた瞬間だったんだと思う。

 それでもその時の俺はそんなことに意識を向けていられる余裕はなく、そのまま意識を遠のかせた。



「飲め」

 ケトムに差し出されたカップは街で買った専用カップ。たっぷりと注がれた液体は不吉な沼色。

「これは?」

 躊躇に気がついているのかいないのか、ケトムはじっとしている。

「魔力補填用の薬湯だ」

 素材は聞くことなく受け取り一気飲みすることにした。

「はじめで躓くの早すぎだよなぁ」

 図布を造る段階で躓いて、これから先、何度躓くんだろう。

「やめるのか?」

 ケトムの言葉を聞きながらカップに口をつける。青臭い匂い。グッと一気に流し込む。舌に粘つくような甘いエグさが残る。

「やめねぇ。なぁ、ケトム」

「ん?」

「魔力総量って増えるのか?」

 それは俺にとって重要な問題だった。




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