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明治爾今帖  作者:
6/6

金田 ―星仰―

し運命と呼ばれる道筋が存在して居ると云う成らば、幸と不を別つ分岐点は何処に在るのだろうね」 

 聞けば、友は原稿用紙に落としていた視線を僅かに上げ「知るか」と素っ気なく言った。

 筆を置く音は一向に聞こえない。

 肘を付いている。指先を不機嫌そうに小突く音が聞こえてくるのをみると、今の問いの所為で彼の集中を削いでしまった様である。これ迄筆の走りが流暢だっただけに執筆を促す役目である自分が集中を阻害するとは失敗した。しかし如何にも黙ってこの部屋にいつまでも居座っているのは退屈過ぎる。

 今や著名な小説家、桐野 参商。どことなく鋭利な硝子細工を思わせる繊細な文の割に、滲み出る毒舌で世情を風刺する滑稽さが混ざり合う。彼の書く主人公は特に破滅する事が多かった。破滅は因果応報の時も不条理な理由の時もある。それが今の風潮に合ったのだろうか。

「此の男は又自死するのかい」

「いや、朽ちて行くのですよ」

 本人は念願の妻も得、子供も生まれたばかりだ。幸せの絶頂にある筈なのにその満ち足りた感覚は決して文に滲み出してくることはない。書き終えた初稿では、髑髏から見も知れぬ花が芽吹き誰にも知られぬまま死んで往く。

 実に物騒な話である。

「つまり結局は自分で死ぬのだろうよ」

「金田君、少し黙って貰えますかね」

 とうとう叱られた。

 金田はごろり寝転ぶと読み終えた原稿用紙を顔に乗せる。紙の束はざらりと顔の上を滑り、床へと落ちて行く。

「じゃあ、全部終えたら起こして呉れ給えよ」

「……あんた、邪魔しに来たんですか。手伝いに来たんじゃあなかったんですか」

「手伝う積りだったんだが、君の所為でやる気が失せた。少し寝る」

いびき掻かないで下さいよ」

 小さな嘆息の後、間もなく筆先が紙を滑る音が聞こえて来た。

 紙束の下で探るように開いていた目を金田はやっと閉じる。紙を透けて来た瓦斯燈の光がやっと瞼の向こうへと消えた。

 今夜は随分と静かだ。いつもは忙しなく窓枠を揺らす風は珍しく止んでいる。

 気分転換に外を出た時は漆黒の闇にごろりと月が転がっていた。染みにも見える月の模様がはっきりと見え瞬く星も線で簡単に繋げそうな程だ。空気が澄み切っているお蔭かオリオンの三ツ星もいつもより一層輝いて見えた。

 筆が走る。

 原稿用紙の上で桐野の描く登場人物は悩み苦しみ、這い蹲って生きて往く。最後の数頁で破滅し、もがいた甲斐も無く崩れて行くというのに最後の最後まで足掻いている。それは滑稽な程、むしろ此処まで足掻いても破滅の結末しかないのならば総てやり切ったのだから仕方がないと思ってしまう程。

「金田君」桐野が呼んだ。

 眠ったふりをして金田は聞き流す。紙を捲る音がして、直ぐに筆は動き始めたようだ。

 ただ眠ったかどうか確認しただけなのだろう。酒を飲んでいる訳では無いのだからそれ程深く眠る筈はない。それなのに桐野には顔の上の原稿を避けてまで確認しようとまではしない。

 金田は強く瞼を閉じた。長過ぎる睫毛が原稿の端に引っかかり何枚かが微かに動いた。しかし除ける程では無い。

「桐野君」

 くぐもった声で呼び掛けると、桐野は鼻で笑ったようだった。

「何ですか。酒ですか」そう言って来る。

「…何だい。僕は此処に来たら酒を飲まなくちゃいけないのかい」

 顔上の原稿を退けて、金田が体を起こす。肩から腹に掛けて紙束が滑り落ちた。

「あんたね、其れを並べ直す手間を考えて下さいよ」

 嘆息は桐野の癖とも云えるだろう。桐野は筆を置き身を此方へと向けている。

 結婚してから随分と身綺麗になったとは思っていたけれど、流石に締切間近ともあれば色々な部分に無精は出て来る。彼の愛妻と愛娘は執筆の邪魔にならない様知り合いの家に揃って泊まりだ。食事の世話は近所の家が勝手に玄関先に置いて行ってくれるらしい。

 執筆三日目ともなれば髭は伸び、手櫛もしない髪は自分勝手な方を向いている。

「酒、付き合いますか。眠れないんでしょう」

 気遣う言葉に目の奥が熱くなった。

「心配して呉れるのかね」

「心配位は。ですから」

 素直じゃない返しに口端が上がる。腹上に留まった紙束を一応は纏め床に置くと、膝を立てた。

 瓦斯燈が揺らいでいる。


 一体、あとどれ位斯う遣って居られるのだろう。


 こっくりとした酒が杯に注がれると、縁ぎりぎりで止まった。今にも零れそうな量は芸術的だ。風船が如く杯の縁を揺らぐ。

「君ね、善い加減そこら辺にある器を何でも酒器にするのは止め給えよ。飯碗でも湯呑でも、蕎麦の入ってた丼でも良いのだからね。第一、情緒が無い」

「戸を閉め切った書斎で男ふたり酒を飲むのに情緒も糞も在りますか。障子でも開けますか、月は見える筈ですよ。……寒いですけど」

 火鉢の中で火が爆ぜた。

「月に情緒を求めるなら金田さんひとりでどうぞ」

「……寒いのは厭だな」

「は」

 息を吐き出し乍ら桐野は笑う。

 酒を煽るように飲み切ると、空になった杯を此方へと突き出した。まるで当たり前のようなその仕草に、わざと不本意な表情を作って見せる。

「僕が注ぐのかい」

「瓶はそっちに在るでしょう。嫌なら瓶を寄越して下さいよ」

「君はまだ執筆活動があるだろう。瓶を渡せば執筆出来ない程前後不覚になるまで飲むじゃあないか。それじゃあ僕が此処に居る意味が無い。元職場に顔向け出来ないよ」

 新聞社に就職したのは短い期間だけのことだ。元職場と言えるほどのことでは無い。

 執筆活動をしていたのも短い期間だけだ。直ぐに自らの才能の思い知り筆を折った。天賦の才と云うものが在るのならば、桐野や先生にこそ当て嵌るのだろう。彼等はまるで自らの命を削り取るが如く物語を生み出して往く。

 その存在もまた、遠く先へと伝わって往く。

 杯は突き出されたままだ。結局根負けして瓶を傾けた。半透明な酒が流れて行く。金田の表情を見て、桐野は珍しく屈託のない笑みを浮かべた。

「全く、なんて顔してるんですか。ほら、金田君」杯を出せと促して来る。目の奥はじんわり熱を帯びたままだ。

 先程の酒は奇跡的に縁ぎりぎりだったのだろう。大雑把な桐野らしく次は激しく絨毯へと零れ落ちた。

「金田君が動かした所為ですよ」

「……僕の所為かね。千紗君に叱られるのは御免だよ」

 妻君の名を出せば、桐野は先程の屈託ない笑みとも違い柔和な笑みを浮かべた。

 ともすれば叫んで仕舞いそうになって、金田は奥歯を噛み締めた。


 一体、あとどれ位斯う遣って居られるのだろう。


 時空を越えて出会う。まるで物語の様な奇跡の巡り逢いは最終頁迄書き終えて有るのだ。その最終章の幕引きは金田の筆によるものだ。

 残酷な懇願だ。日々、未来の記憶を失っていく千紗の為に金田はそれを承諾した。未来は斯くあらなくてはいけない。この穏やかな時間が遅かれ早かれ終わりが来ることを千紗は示唆していた。有限の時間、残された幸せな時は短く開いた手の平から零れ落ちて行く。


 先を知る。其れがどれだけ苦しいことか。


 酒を一気に煽る。立てた片膝に額を付けると強く瞼を閉じた。

「眠くなったんですか。寝るんなら奥の部屋で寝て下さいよ」

「眠くなってなんか無いよ」苛立ち紛れに吐き捨てる。

「然うですか。僕は続きをしてますよ」

「桐野君」


 未来を変えたの為らば君は僕を恨むだろうか。


「何ですか」


 責て君だけでも残って呉れないかと言ったら。


「金田君」

「……何でも無いよ。僕は寝る」

 桐野は嘆息し、瓦斯燈の光が金田へと届かないように移動させた。金田が書斎の壁に背中を預けたことでどうやら部屋を移動させるのを諦めたらしい。

 風が出て来たようだ。窓枠が軋み、隙間風が僅かに入って来た。火鉢だけでは暖取りは心許無い。足元にあった綿入れを引き寄せる。煙草の匂いがした。


 一体誰が信じる。


 この倖せは長く続かない。強固にも思える数々の絆は千紗の死で以て解けそれぞれの道を歩んで往くのだ。それこそ桐野の小説が如く破滅への途へ。

 病んでいく千紗の為に医者を探し廻る。見付けた最高の医師に治療されるのを記憶を持った過去の千紗は由とするだろうか。聞いた総ての事を包み隠さず話し、まだ幼い弥千子を護る為に出兵しないで欲しいと訴えればあの頑固な男でも聞き入れるだろうか。

 金田は綿入れを強く握り締めた。答えは出ない。答えが出ないからこそ思い悩むのだ。

 未来が変われば、明治の地に降り立つ先がまた巡り来るとは限らない。精神的に少々厄介なこの友を時を超えてまで愛す存在を、安易な選択は奪い兼ねない。時は輪形に巡る。何時しかどこが始めだったかわからないほどに何度も何度も同じ運命を。


 だからこそ、これ程に懐かしく愛おしく思うのだろう。


 桜の散る中、桐野と千紗が微笑みあう。夏の強い照り付ける日差しの中で庭先に水を撒く。紅葉を指で抓み、染まる夕暮れの中を歩く。伸びる長い影は何時しかふたりから三人になって居た。

 雪が降る。肩に乗った柔らかな雪片はあっという間に融けて行く。桜の花弁が如く視界を覆ってありとあらゆるものを白く染めて行く。いつもより温かな格好をして雪を喜ぶ顔を思えば、無意識に顔が綻んでしまう。

 そうしていつも思い出す。思い知らされる――――あと少しなのだと。

 目を閉じていると聞こえて来る。慣れ親しんだ筆が滑る音。残酷だと思い乍らも、先を託す先に千紗が金田を選んでくれたのが嬉しかった。いつか別れ逝く存在に欠かすことの出来ない人間で在ると思えることが、存在意義に為る程だった。


 僕は君等が倖せそうにして居るのを見るのが好きだった。


 千紗を、桐野をと云う訳では無い。千紗が強い意志で桐野を選び、先生と桂木 伊沙子を救った。それでいて桂木 史郎の妄執を命を賭けて解き放ったのだ。その強い心故に生まれた結び付きを金田は愛して居る。

 目頭が熱くなる。酒の所為だろうか。

「金田君」桐野が呼んだ。

「そんな処で眠ると風邪を引きますよ。とっとと奥の布団に入って下さいよ」

 金田は今やっと桐野の声で起きた風を装ってのろのろと顔を起こした。ずっと綿入れに顔を埋めて居た所為で瓦斯燈でも眩しく感じてしまう。この家は電気が通って居るというのに、書斎で執筆活動をする時に限り電灯を使用しないのだ。

「……寝てないよ、僕は」

「寝てる人は皆然う云うんですよ」

「然うかね」

「然うですよ。あれが布団を敷いて行って呉れましたから、ほらさっさと行った行った」

「君ね。僕は犬じゃあ無いのだから」

「犬はもっと云うことを聞きますよ。本当にあんたは手間が掛かる。体を壊したら後々が面倒だ」


 寂しい。


「何を言って居るのかね。面倒なのは桐野君の方だよ。僕に感けてないでさっさと原稿を書き給えよ」

「書いてますよ」

「遅いのだよ。話して居る時間で一行でも書ける筈だろう」

「僕の遅筆はあんたも了承済みでしょうに」

「知って居るが千紗君の手前、急かさざるを得ないのだ。君が書き終わらなければ彼女と弥千子が帰って来れない」

「人の娘を呼び捨てにしないで下さいよ」

「善いじゃあないか、僕が名付け親なのだからね」

「……書きますよ。書けばいいんでしょう。善いですか、もう邪魔しないで下さいよ」


 苦しい。


「理解して居るとも」

 桐野は聞えよがしに溜息を付くと金田に背を向けた。愛用の文机に向き直り同じく愛用の筆を持つ。時間を待たずに紙を滑る音が聞こえて来ると金田は床に積まれた紙束に手を伸ばした。

 開いた頁では女が嘆く男を抱き締める。不義理を促した身で在るというのに、土壇場になって怖気づいたのは男だ。女は男の訴えを聞き入れて総てを捨てる覚悟で居ると云うのに。意思の強い女に千紗の影が重なった。

 強いのはいつも女なのかも知れない。決断に迷うのは強い筈の男の方だ。

 人生相見えざること、参商の如し。決して空で共に見える事の無いオリオンそりを引用した杜甫の漢詩だ。何度も巡り逢うのは離れる星が出会う程に奇跡にも近い。


 奇跡にも近いのだ。


 為らば此の出会いを護る為に苦しみに耐えよう。紙束から視線を背中へと移す。

「桐野君」

「……次は何ですか」厭々乍ら一応は返事をして呉れる。

 金田は胸を締める痛みに耐えながら口を開く。出て来たのは本心だった。

「僕は君を大切に思って居るよ」

「……何気持ち悪い事を言って居るんですか」

 寝惚けてないでとっとと寝ろと桐野は口汚く言った。

 それ以降は一度もこちらを振り返ろうとはしなかった。 

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