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明治爾今帖  作者:
5/6

弥千子 ―無限―

「弥千子さん、此方ですよ」

 危なげな足取りで歩く弥千子が両手を大きく上に持ち上げた瞬間に、ふわりと手の平が抱き留めた。

 弥千子を抱き上げた先生が、零れそうなほどに相好を崩す。とうとう抱き上げてしまった。千紗は腰に手を当てて小さくため息を付いた。この人は本当に過保護で困ってしまう。何度言っても転ぶ前に手を出す癖は抜けないのだ。

 転んだら痛いでしょう、そう先生は言う。

「……先生、弥千子はそろそろあんよも覚える時期なんですよ。転ぶのも勉強ですよ」

「人は嫌でも歩かなくてはいけない時期はいつしか来るのですから、傍に居る時くらいは手を伸ばすことを赦して下さい」

「もう……参商さんと同じこと言って」

 千紗の言葉に、奥の座敷で茶を飲んでいた桐野が大きく咳き込んだ。

「僕がか」

「そうですよ、過保護なお父さん」

「……」

 畳に零れた茶を袖で拭き取って、動揺を消し去るのに失敗した桐野は口を閉ざし、庭で先生の腕に抱かれた弥千子を見遣った。

 弥千子は八か月。歯も生えて日々愛嬌が増す丸い顔を見て浮かぶ桐野の表情は既に父親のそれだ。守るものが増えた桐野の顔はどことなく充足感に満ちて、出会った時の様な尖った錐の先が丸くなった気がする。

 桐野の長かった髪は弥千子に引っ張られるのも多くなり、弥千子が八カ月になったのをいい機会に短くしてしまった。長くだらしない髪型に慣れた千紗にとって、短く切った精悍な桐野は四か月たってもまだ慣れない。たまに違う人といるような気がしてしまう。

 あの日から一年過ぎ、二年過ぎ、三年目に入った頃には桐野も千紗を探すこともしなくなり、穏やかな日々が続いていた。たまに幻の様に遠い未来の夢を見ることもある。高校生活を送る友人の姿、精力的に仕事に勤しむ両親の姿。部屋に飾られた千紗の写真。

 懐かしくないと言えば嘘になる。まだ戦火止まぬ明治の世では、沢山の問題を抱えそれでもまだ皆元気に暮らしている。どうでもいいことに胸を痛め、妙な事件に首を突っ込み、気付くともう三年目に入っていた。

 文字に現すのも難しい声を弥千子が上げた。

「痛」

 先生の頬を抓り上げたのだろう。小さな悲鳴が先生の口から洩れてくる。

「痛、痛いですよ。弥千子さん」

「先生。弥千子は捕まって居るのを好かないですよ。さっさと離さなければ、鼻の穴に指を突っ込まれますよ」

 桐野が苦笑しながら先生に進言した。

 勿論、経験の上の忠告だ。穴という穴に指を突っ込みたがるのが最近の弥千子のブームなのだ。鼻の穴に耳穴、下手をすると穴ではないのに目潰しを掛けてくることもある。子供やることは本当に分からない。

 流石にそれは、と思ったのだろう。何か仕掛けられる前に先生は弥千子を桜の花弁散る庭の真ん中におろした。

 弥千子は危なげな足取りが嘘の様に、弾かれたように縁側へと飛び乗った。歩くのはどうも上手くないというのに、高い所に登るのは妙に早いのだ。気づくとテーブルに乗っていることもある。何とかと偉い人は高い所が好き、そういう言葉が脳裏をよぎる。

 千紗はしゃがみ込んだ。

「おいで、弥千子」

 桐野の元へ行こうとする弥千子に声を掛けた。

 てっきり弥千子が来るものだと思って湯呑を置き腕を広げた桐野に、弥千子はあっさり背を向けてしまう。

 肩を落とす桐野に背を向けて、弥千子は縁側から下りた。よちよち、と危なげな足取りで唇を尖がらせ歩きながら手を伸ばした千紗の腕に収まるのだと思いきや、そのまま千紗の横を擦り抜けて板壁の方まで歩いて行ってしまう。

 庭木を囲むように並んだ石に向かって歩く弥千子の手は、格子戸を抜けて庭に顔を出した訪問者の方へ甘えるように伸ばされた。

「おや」

 金田は足元に突進する弥千子に驚き、急に足を止める。

 珍しく和服を着ている金田は裾が汚れるのも構わず片膝を付くと、解読不可能な言葉を話す弥千子を抱き留めた。

「嬉しい出迎えではないか。荒んだ心が洗われる様だよ」

「金田さん」

 訪問者を出迎えるために立ち上がった千紗の手の平に、金田は弥千子を抱き上げたまま包みを落とす。まだ温かい紙の包みだ。日本橋の和菓子店の名が書いてある。

「つきたての餅だよ。皆で食べようと持って来たのだ」

「お茶淹れないとですね」

「弥千子嬢には此れを」

「うわあ」

 苺が入ったざるがある。この時代の果物は効果で特に苺は口にするのも難しい。久し振りに見た赤い粒に千紗は感嘆の声を上げる。ショートケーキに苺が乗っている記憶がほんの少し脳裏をよぎった。

「静岡に行って来た父が買って来たのだよ。男どもの口には入れずに、女性陣で食べ給え」

「金田君、君は本当に千紗さんと弥千子さんには弱いのですね」

 先生が苦笑しながらまだ痛むらしい頬を撫でた。

 その後ろで桐野が腰を上げる。千紗は金田の腕からまだ渋る弥千子を受け取りながら、声を上げた。桐野が茶を淹れようとしているのに気づいたのだ。

「参商さん」

「良い。少し話しておいで」

「悪いね、細君と娘御を借り受けるよ」

「返して呉れるなら」

「……善処しよう」

 金田の軽口に、桐野は鼻で笑った風だった。一度弥千子の姿を見て、そのまま桐野は奥の障子向こうに消える。

 先生はというと縁側で本を開きながら大きく欠伸をした。どこからかやって来た猫が先生の足の横で立ち止まり小さな抗議の声を上げる。先生の座っている場所は一番日当たりが良い。猫のお気に入りの場所なのだ。

「おっとすいません」

 そう謝ると先生は猫に場所を譲った。先生の家に来ていた頃は随分体も軽く見えた猫は、年老いた体をのんびりと縁側に横たわらせる。尾をゆらゆら揺らし、静かに目を閉じた。

「何とも穏やかだ」

 金田がほうと息を吐いた。

 千紗ははしゃぎ過ぎてうとうとしだした弥千子の背を優しく叩きながら、唇を持ち上げる。

「疲れているんですか?」

「まあね、君の夫は僕をこき使う天才だよ」

 軽口を叩いて金田は目を細めた。千紗もまた随分と久し振りに金田の顔を見たような気がした。父親の仕事を手伝いつつ物書きの仕事も始めたのだという金田の毎日は忙しさを極め、今や日本全土を回っているのだという。

 ごくたまにこうやってふらり桐野の元を訪れるのだ。何を探しているのかは千紗にも分からない。聞こうとも思わない。きっと既に失われてしまった千紗の記憶に係ることだろうと思っている。

「最近は如何だい」

 弥千子は既に寝入ってしまったようだ。肩にかかる重みと、涎の温かさに千紗は小さく笑う。

「何も。幸せですよ。参商さんも優しいし」

「其れは良かった。独り身には耳が痛いことを聞いて仕舞った。ねえ、先生」

 突然話題を振られて、先生は頁を捲る指をびくりと持ち上げた。猫がその振動で耳を立て、先生の謝罪に尾を揺らす。どうやら許して貰えたようだ。

 本を閉じて、先生は顔を上げた。

「然うですね。金田君はそろそろ所帯を持った方が良い。君は風来坊だから」

「僕は定まって居ますがね」

「心が、ですよ」

 どうやら思い当るところがあったらしい。金田は肩を竦め、苦笑すると千紗の横を擦り抜けていった。丁度茶が入ったらしく、盆を持って桐野が部屋に戻ってくる。何も言わずとも二枚の座布団を卓の横に引いた。

 金田はその一枚に腰掛ける。

「弥千子は金田さんが来るとすぐに眠ってしまいますね」

 桐野と金田の間に挟まれるように眠った弥千子を寝かせる。千紗は弥千子の頬に触れる桐野を表情で諌めると、桐野が触れた所為で少し目を覚ましかかった弥千子の体に丹前を掛けた。まだ眠りが浅い、浮いた桐野の手首をやんわりと掴み、体の方へ誘導する。

 ゆっくりゆっくりと桐野の手が弥千子の体を叩く。

「君たちは本当に家族なのだなあ」

 金田が見て、言った。嬉しそうでもあり、少し奥に違う感情が混ざり合っている。

 いつもそうだ。千紗は金田の表情を見ると思う。遠く何か向こう側をものを見ているような表情をするのだ。それは桐野に向けられることもあり、弥千子に向く時もあり、千紗に向けられることもあった。

(何か重いものを背負っている)

 そしてそれを背負わせたのは他でもない。記憶を失う前の自分なのだ、と何となく分かっていた。そして背負ったものを、金田は誰の背にも背負わせる気が無いと云うことも分かっていた。 

「また御父上に縁談でも勧められたのですか」

「いや、最近は諦めて居るようだよ。何せ姉上が嫁に行く気が無いからなあ。」

 那美子はこのご時世に職業婦人として生きるのだと先日父親に断言したばかりなのだ。男の傀儡になって生きるのは好かないのだといった。金田の父親はそれで一週間も寝込んだようだ。余程の心労が嵩んだのだろう。

「本当、那美子さんらしいですね」

 金田から貰った包みを開きながら、千紗は噴き出した。

「然うかね。僕も勝手にしろと云われたのだ。父上はもう子供たちに振り回されるのは好かないらしい。死のうが生きようが放って置くのだそうだ」

「いや、実に金田君の御父上は豪胆です。なかなか嫡子に然うは云えませんよ」

 先生は湯呑の茶を一口飲んで、言った。金田はそんな先生を振り返り口端を持ち上げる。

「僕もいつか新聞社に勤めようと思って居るのですよ。記者でも遣りながら、世相に触れて行こうと思って居るのです」

「君がか」

「何だ、桐野君。僕が居ては邪魔なのか」

「金田君の文は至極攻撃だからな」

「僕が攻撃的なのではない。此の時代が人に攻撃的なのだよ」

 千紗はため息をついた。三人で話を始めるとどうしても千紗には付いて行くことが出来なくなる。三人の話題は酒もないのに熱を帯び、このまま夜になだれ込むことも多いのだ。

(何かつまみはあったかな)

 在庫少ない台所を思う。レンジでチン、でもできたらいいのにと千紗は懐かしいジャンクフードのことを思い出して無意識に小さく噴き出した。

「千紗」

 桐野の声が噴き出した千紗を気遣ってくる。顔を上げれば、三人三様の顔をしてこちらを見ていた。皆、考えることは同じだ。千紗の考えることを気遣っている。

 おずおずと千紗は口を開いた。

「あの……酒のつまみは花沢庵でも良いですか?」

 今の用意ではそんな立派なものを用意できそうもない。鰊の煮物でも出来たら良かったけれど、どうも酒には間に合いそうもなかった。

 眉を下げた千紗を見て、三人は揃って噴き出した。次いで誰からともなく大きく笑う声に弥千子が身動きをして、次は慌てて四人で口元を押さえた。

「金田君と僕で天麩羅蕎麦でも買って来ようか」

 たまにやって来る屋台のことを言いだした桐野に、千紗は「じゃあ、お酒を用意して置きますね」と腰を上げる。先生はというと「大根はありますか」と聞いて来た。

「大根なら確かありますよ」

「じゃあ、僕は揚げ出し大根でも作りましょう。是非、磨いた料理の腕を堪能して貰わなくてはね」

 一斉に立ち上がる。

 金田と桐野が廊下へ出ていき、湯呑を下げる千紗と先生の視線が合った。穏やかな笑みで千紗を見る先生の視線は、千紗を通り過ぎて遠き過去の女性を見ている。

「後悔はして居ませんか」

 先生は優しげな声で聞いた。たまに聞かれることがある。その都度答えは一緒だった。

 千紗は大きく頷く。

「して居ませんよ。ここにいて良かったといつも思います。これからもそうですよ」

 眠る弥千子の頭を撫でる。柔らかく細い子供の髪の毛が指の間を辿り静かに過ぎていった。

 先生は湯呑の乗った盆を千紗の手から受け取る。弥千子の顔を見下ろして、小さく吐息ついた。

「怖い程だ」

「……え?」

 珍しく砕けた物言いの先生に、千紗は顔を上げる。泣きそうな顔を浮かべ、先生は弥千子の小さな手を取った。指で甲に触れゆっくりと離す。

「此の時間がずっと続いて欲しいと思い乍ら、続く筈もないと思う自分も居る。失ったら次こそ僕は、如何為って仕舞うのだろう」

「……先生」

 苦笑しながら先生は千紗の頭もまた優しく撫でた。

「だから、健勝に為さいと云うことですよ」

「……はい」

 応えた千紗に、先生は納得したように頷いた。

「台所を借ります。あなたは弥千子さんに付いていらっしゃい」

 先生が盆を持ち向こう側に消えて、千紗は卓の横に腰掛けて庭木を見遣る。何のことない庭である。小さな菜園は青々と茂り、来年はもう少し種類を増やそうかと思う。来年にもなれば弥千子も手伝ってくれるだろう。もしかしたら桐野も手伝ってくれるかもしれない。

「もうひとり、家族が増えたらなぁ」

 弥千子ひとりではきっと両親がいなくなったあと寂しいだろう。そう思い至って、千紗は弥千子の頭を撫でた手を止めた。

「……大丈夫」

 生きて往く。可能な限り、足掻いてこの時代で千紗は生きて往くのだ。

 巡り逢って恋をして、巡る時代を往き過ぎてまたいつかこの時代に帰って来るために、その未来の礎を築いていく。

「ここで私が折れたら、次の出会いは無いんだから」

 運命というものは一体どういうものだろう。云わば繋がった糸のようなものだ。一本一本は短いのに、繋がって長い糸になる。その糸が寄り集まり太い糸になり、布にも為るのだろう。

 糸が切れたら布には穴が開き、その布は使い物にならなくなるのだ。

「伊沙子さん。……ありがとう」

 空を仰ぎ、千紗は呟いた。

 遠くで桐野と金田の言い合う声が聞こえて来て、千紗は慌てて眠る弥千子を振り返る。ふたりの声にも反応せず弥千子はぐっすりと眠っているようだった。

「……もう」

 千紗は頬を膨らませ、桐野と金田に声を抑えるように言おうと縁側の草履を引っ掛けた。一度、振り返った先でひとり弥千子が眠っている。向こう側に大きな桐箪笥が見えた。まだ隠し扉の無い金田から贈られた結婚祝いの箪笥、いつか真ん中の引き出しに遠い未来の千紗へ送る手紙が仕舞われる時が来る。

「千紗」

 縁側で片足を草履に入れたまま立ち止まる千紗を、桐野が呼んだ。

 丼は先に台所へ運ばれ、金田は先生の手伝いに回ったらしい。もしかしたらかけの蕎麦しかなくて野菜の天麩羅でも乗せる気なのかもしれない。

(先生で大丈夫かな)

 台所を気遣って見る千紗に、桐野は「放っておいて」と言った。

「長く共に居るが、金田君の好みは良く分からない」

「……先生に任せて大丈夫ですか?」

「ああ、先生なら大丈夫だよ。弥千子は」

「良く眠っていますよ。もう、参商さんも金田さんも声が大きいんですもん。いつ起きるか冷や冷やします」

 怒る千紗に、悪いと桐野は肩を竦めた。この二年半ですっかり大きく育った庭木を桐野は見上げ、横に立った千紗も桐野に倣い高く育った木を見上げた。

「随分と大きく為ったな。そろそろ枝を落とすか」

「大きくなった弥千子が木登りでもしそうですもんね」

「……切るか。危ないから」

「……過保護」

 呟いた千紗の指を桐野の指がやんわりと包む。

 そういえば初めて桐野に触れられた時も、こんな触れ方だった。千紗は握られた指を見下ろす。

(胸が痛い)

 先生が怖いと言った気持ちも良く分かった。この時間が優し過ぎて、嬉しくて嬉しくて逆に哀しくなる。ほろりと落ちた千紗の涙に気付いた桐野が見下ろして笑う。

「如何して泣く」

「どうしてでしょうかね」

「僕が知るか」

「ですよね」

 桐野は流れる千紗の涙を拭おうとはせずに、木を見上げた。

 風で葉が揺れる。青々とした葉は茂り、それくらいの風で落ちることなどないのだ。そよそよと爽やかな音を立てる。鼻に土の匂いが衝いた。混ざり合って来るのは強い出汁の匂いだ。どうやら揚げ出し大根も出来上がったらしい。

「蕎麦、伸びてしまいますね」

「ああ」

 そう言いながら、繋いだ指を離さずに桐野は木から目を離すと眠る弥千子を見た。

「何も持って居ないと僕はあの頃思って居たのに。僕は生きて、此の手に守るものをやっと手に入れたのだな」

 騒がしい声が聞こえ、金田と先生の足音が聞こえてきた。

 弥千子が片手をあげ、寝起きにぐずり始める。足が丹前を吹き飛ばし、咽喉の奥から母親を呼ぶ声が漏れた。桐野の指がゆっくりと離れ、消えた熱に千紗が桐野を振り返る。

 桐野は穏やかな顔をしていた。

「有難う、千紗」

 やっと止まった涙がまた零れて、次こそ桐野は千紗の頬に手を伸ばした。優しい手が濡れた瞼から涙を拭って行った。

これで「明治逢戀帖」「明治爾今帖」終わりです。

ありがとうございました。


 参考文献

〇ニュースで追う明治日本発掘7 鈴木幸一(編)河出書房新社

〇ニュースで追う明治日本発掘8 鈴木幸一(編)河出書房新社

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