史郎 ―覚悟―
千紗ははらりと新聞の端を揺らした。
十二月九日の新聞を畳に押し付け、縋る様にして読み進める。
のっぺりとした二〇三高地の写真が掲載されている。伸びる木々も草もまばらにしか見えない。いっそ清々しいほどの禿山だ。東京の空の下で暮らす千紗には、傍に桐野の姿もある所為か戦争と言われても今一現実感がなかった。それを知る術は、人のくちか新聞かに限られている。
新聞の紙面を飾る旅順の文字。つい先日までは遼陽や沙河の文字が躍っていた。露軍の文字をロシア軍と考えず読めるようになったのはいつ頃からだろうか。別に読めても、嬉しくも何もない。
旅順要塞の守りは固く、幾つもの前哨戦、八月の第一次総攻撃に十月の第二次総攻撃もまた日本軍は機関銃や砲撃の標的と化し失敗している。そして十一月の第三次総攻撃もまた、失敗に終わったのだ。
目に入る死屍累々や死闘、白兵戦という見慣れない言葉。数日前の新聞では、その旅順攻略で司令官の息子も又ふたり戦死した報が載った。記事は司令官の悲痛を書きつつも、この旅順で死傷した遺族家族の悲痛も記事にしている。
震える指がひとつの記事に触れ、堪えられなくなった涙が瞼から零れると紙面にぽたりと落ちた。支えるものを失った千紗の涙は、ひとつふたつと抜刀決死隊の記事の上に落ちて水玉模様を作る。
「………っ」
新聞には、千紗には何と読めばいいかも分からない場所での、壮絶無残な突撃隊の出来事が逐一書かれていた。各師団から選抜された約三千数名の白兵戦だ。血染めになり抜刀し驀進した姿を淡々と記事にしてあった。その文の中に嘆きも苦しみも見えない。
一体この一文字の中に何人の人が命を失っているというのか、命はたった四文字の「死傷続出」のみで片付けられている。参加者を募ったと言われるこの抜刀決死隊には千紗も良く知る名前があった筈なのに、死体の山に隠れどこにいるやもしれなかった。
十一月の第三次総攻撃を終え、これだけの血と命が失われたというのに未だ旅順は開城していないのだ。大きく開けた口の中から、小さな声と吐息が漏れた。
「覚悟を決めて居ただろうよ。旅順ならばまず帰るのは叶わない」
桐野が泣き崩れる千紗に背を向けて言った。
文机に置かれた原稿用紙には珍しくまだ一文字も書かれていない。筆は机の上に置かれ、桐野はらしくなく先日金田が持ってきた煙草の煙をぷかりと宙に漂わせた。着流しから股引に包まれた足を出し、だらしない恰好でまた腰掛けている。
外は昨夜軽く降った雪で白く染まっていた。部屋の中で火鉢の火が爆ぜたものの、指先は冷たく凍り絶えず零れる涙が頬を濡らしていく。心までも寒く凍えて、千紗は自分が深く悲しんでいることを知った。
(見たのはいつだっただろう)
偶然、千紗が門前を掃除しようと箒を持って出た時に、史郎が立っていたのだ。
庭木は既に芽吹き、眩い緑の若葉を広げていた。射し込む陽光の中、静かに佇む史郎は既に千紗の中から消え去った伊沙子を知らなかったのだ。ただ最後に顔を見ようと覚悟を決めて来ていたのかもしれない。
黙ったまま史郎を見遣る千紗に、史郎は静かに敬礼を返した。その姿はまだ鮮明だというのに。史郎は妹としても女としても愛しい人の姿を目に焼き付けて、戻れない戦地に赴き、散ったのだ
「……でも」
その後の言葉を言うことは出来なくて唇を噛んだ。先日、先生に言われた言葉が千紗の胸を締め付ける。
それでもやっぱり分からないのだ。戦争のない時代に生まれ、戦争を経験せずに育っている千紗には自ら挙って手を上げ、抜刀する男たちの気持ちが分からない。死んで戻れば家族は泣くだろう。無事を信じ待ってくれる大切な人も心に深い傷を負う。
震える指が新聞を握り締めた。強く握り締めると、あっという間に史郎の影が垣間見える記事は手の平の中に消えていく。千紗は緩慢な仕草で水滴が夥しく付いた窓を見遣った。
何事もない普通の白昼だ。
空は残り雪がちらついているとはいえ、蒼く何処までも澄んでいる。きりりと冷えた空気は硝子戸の向こうで区切られて、部屋の中はほんのり温かさえあるのだ。昼ドンの時間にも為ればもっと気温は高くなり、きっと積もった雪も幻の様に消え去るのだろう。
「戦争が長引き、召集がかかれば僕も行く」
煙を燻らせ、桐野が何のことはない様に言った。
千紗の中にさあと胸に冷たいものが走り、思わず奥歯を噛み締める。行くと言ったら、この人は屹度行くのだろうと思った。目の前にあった筈の足場が消え、脆くも崩れ去る気がしてしまう。
「でも……参商さんが行かなくても」
「自分の妻子を他人の背で守れと云うのか」
煙草を置き、冷えた湯呑を桐野は煽った。乾いた唇を残った茶で潤したのか、つい先ほどまで閉ざしていた口を流暢に動かす。
「僕は正直、國など如何でも良いんだ。金田君が最近言って居る様に、戦などは無くても良いと思って居る」
然し、と涙で濡れた千紗の目を桐野は見遣る。ふ、と柔らかい笑みを浮かべ強張った肩を下した。
膝を寄せ、動けないままでいる千紗の体を桐野は両手で掴み覗き込んでくる。訴えかける真摯な目に胸が締め付けられて、唇が震えた。肩に食い込む桐野の指が強く、少し痛いほどだ。
「立たねば守ることが出来ないのならば、史郎君と同じように僕も抜刀し國の礎になるだろう。僕が守らずに誰がお前を守るんだ」
だったら傍にいて欲しい。そう思っているのに口に出すことは叶わなかった。
(それがこの時代なんだ)
望んで死にに行きたいわけではない。ただ後ろにいる人を守る為に男たちは立ち上がり戦地に赴いて行く。身を壁にして、列強犇めく中を銃剣ひとつで向かって逝くのだ。史郎もまた東京にいる伊沙子を想って立ったのだろうか。背中に守っていると思ったのだろうか。
ほろほろと零れる涙を見て、桐野が僅かに曇った顔を向けてきた。
この時代に戻ってきたことを後悔しているのでは、と懸念しているのだろう。口を噤み、ただ涙を流す千紗に優しい言葉ひとつかけずに桐野は黙って見詰め、千紗の言葉を待つ。
帰りたい。全く思わないと言ったらきっと嘘になってしまう。千紗は不安そうに覗き込む桐野の目を見つめ返し思った。
(じゃあ、何も言わずにおこう)
ことりと肩に額を預け、その広い背中に弱弱しく腕を回す。
「……絶対に帰って来ないといけない、って思うような家にしないと駄目ですね」
お道化た声が震えてしまった。誤魔化すために、千紗は僅かに笑ってみせると「頑張らなくちゃ」と声を張り上げて付け足した。
今行くのだと決まったわけではないのに、その頑なな覚悟が怖い。
沢山の礎の上で、何のことなく生活し安穏の生きているのは奇跡の様に思えた。
戻らない戦争の歴史を今更取り戻しても、屹度その時を恐れるだけで千紗は何も出来ない。静かに立ち上がる桐野を千紗は悲しみを堪えて見守るだけなのだろう。
(……史郎さん)
今はただ伊沙子の代わりに、彼のことを想い乍ら千紗はゆっくりと瞼を閉じた。
はらりと散る桜の花弁が、何故か心に思い浮かんだ。




