先生 ―秋湿―
「寒いでしょう。火を入れましょうか」
そう先生は云うと、火鉢に火を入れた。ぱちぱちと爆ぜる音が聞こえた後、直ぐに聞こえなくなる。一気に部屋が暖まるわけではないのに、小さな爆ぜる音だけでほんのり風が和らいだ気がした。
茶を淹れると腰を上げた千紗に、先生は「自分で出来ますよ」と笑った。ちょっと前の先生を知る千紗にはそれが不思議で思わず首を傾げてしまった。先生は僅かに胸を張って言う。
「今では簡単な一品も作るのですよ。なかなかの味だと自負して居る訳です」
今度桐野君と食べにいらっしゃい、と先生は玄関横にある台所へと消えた。
千紗は紫檀の文机の前に腰掛け、ぎっしり詰まった本棚を見遣る。沢山の本は山積みになり、相変わらずの本の虫のようだ。文箱の上に原稿用紙が束になっていた。桐野の物かと覗き込んでみたものの、見慣れた夫の文字ではなかった。
千紗は弛む原稿用紙から目を離す。
「誰のかな」
「金田君ですよ」
すいと障子が開き、器用に盆と菓子皿を持った先生が書斎に戻ってきた。千紗の前に盆を置き、そこから自分の湯呑を取り上げると先生はいつもの場所に腰掛ける。
上に置いていた眼鏡を鼻に引っ掛け、首を傾げる千紗を見遣った。湯呑を両手に包んでいる。茶は少し濃過ぎるようだった。後で淹れ直そうと微笑ましく見ながらも、つい思う。
「金田さんですか? 元々書いていたのでしょうか」
「最近書いて居る様なのです。何処か女性らしさを持つ参商君とは趣を異にして、金田君の文は実に生々しく攻撃的だ」
「ちょっと雰囲気に合わない感じがしますね」
千紗は銘々の姿を思い浮かべた。
今でこそ何とか見られるほどになったとはいえ、桐野こそ明治書生そのものだ。綺麗という言葉からそれこそ遠ざかり、男性的なイメージが合う。対して金田は人の気遣いを忘れず、その佇まいも洗練されどこか女性らしさが漂う気がする。女性らしさと云うよりも、女性に好ましく思われる空気とでもいうのか。
「参商さんの文は確かに……あの人とはちょっと似合わない感じもします」
ふ、と先生は千紗の言葉に唇を緩めた。
写実的技法に拘る桐野の文は美しく、話に寄っては絢爛さも持ち得る。静かに内部を抉る手法は無意識に自らの胃臓を苦しめるのだろう。時に筆を疲労を訴える繊細さも桐野はまた持ち得ているのだ。
(まるで先生みたい)
桐野に筆を託し、先生は筆を置いた。何処となく先生の持ち得る思想と感情を引き継いでいる桐野の文は、人の愛情や苦しみ哀切を綴っていく。文に疎い千紗には何も分からないまでも、生み出す苦しみだけはその背中を見ているだけで分かった。
庭先で雨が庭石を叩いている。葉を濡らす雨粒の重さで、枝は撓りだらけている。空はどんよりした雲が覆い、しとしとと降り続く雨はまだ止むつもりがないようだった。濡れた外套を掛けて来たか気遣いながら、千紗は濃過ぎる茶を一口飲み込んだ。
覚悟していたからか、想像していたよりも意外と飲みやすかった。
「羊羹もお食べなさい」
「そんなに食い意地は張ってませんよ、私」
「女子供は甘いものが好きだと云うのは通説ですよ。好いから遠慮せずに」
ほらほらと手を払う先生を見て、千紗は思わず噴き出した。
(きっと先生は私が来るからって買って来たんだ)
ならばその好意には応えなくてはいけない。千紗は手を伸ばし、羊羹を口に放り入れた。甘い砂糖の味が広がって、思わず顔が綻んでしまう。お茶を直ぐ飲むのが勿体無くて、口を付けずに「おいしいです」と先生に笑いかけた。
「然うでしょう、僕のお薦めなのですよ。喜んで貰えて良かった」
嬉しそうに先生は笑う。千紗の想像は当たっていたようだ。最近、先生は下谷にもよく顔を出し、青白かった顔には随分血気を取り戻したように見える。喪失感を埋めるためとはいえ、遠くへ足を伸ばすことがきっと気晴らしになっているのだろうと思う。
千紗はふいと文箱の上に視線を向けた。
「先生は今、金田さんのお話を読んでいるんですか?」
先生は千紗の問いに、緩んだ顔を引き締めた。
文箱の上に置かれた束を持ち、僅かに考え込んだ素振りを見せる。千紗はその姿に持った湯呑を静かに置くと、黙って先生の言葉を待った。
先生と話している時はいつもその姿が桐野の姿に被る。桐野もまた頭の中で整理し、それを外に出すまでは時間を要するのだ。組立て、それを聞かせるまでには心の準備が必要なのだろう。
(この時代の言葉はひとつひとつが濃くて重い)
千紗も現代のことを総て忘れてしまったわけではない。それでも記憶の懐かしい殆どが風化し、遠い何処かへ消えて行った。今はもう、微かに感じる違和感に時たま胸を騒がせるだけだ。
それでも漫然と思うのだ。過去に生きていた「未来」という場所では、これほどに思想や生き様を重要視していただろうか。ただ生きて、なすがままに流れてはいなかっただろうか。この時代では思想が人を殺す。
「金田君は反軍的な思想に偏りつつあるのでしょう。今の風潮では其れは実に……危険なのです」
「難しいことは分からないんですけど、金田さんのお話は面白いんでしょうか」
千紗の困惑した問いに、先生は強張った顔をいつものように戻した。茶を咽喉に流し込み、顔を顰める。
(やっぱり苦かったみたい)
先生は眼鏡を外し強く目の間を押した。小さく嘆息し、肩を落とす。
「素晴らしいのです。然し手放しで絶賛する僕の片隅で、金田君の行く末を案じて居る」
千紗は何も言わずに立ち上がった。千紗の動向を不思議そうに見遣る先生の後ろに回り、先生の肩を揉むと驚くほどに強張っていた。素っ頓狂な声を上げて、先生は身を捩った。
「人妻が夫ではない男の体に触れては行けませんよ。僕が参商君に叱られて仕舞う」
「肩を揉むだけですよ。大体、参商さんはそんなことで怒りません」
凝っているじゃないですか、と逃げる先生の肩を千紗は掴んだ。軽く叩き、首筋の下を揉む。指にしっかりとした感触が有り、随分と肩を強張らせて先生は金田の文を読んだことが知れた。
何とか逃れようとした先生も千紗の頑固さに呆れたのか、困惑したような声を上げて力を抜く。
「参商君が来るまでですよ」
それでもまだ言い募っている。ふう、と千紗はため息をついた。
どうしてこの時代の男の人はこうぎこちない生き方しかできないのだろうか。もう少し力を抜けば、きっと楽に生きることが出来るのだろうに、プラスにしろマイナスにしろ総て振り切ってしまうのだ。意思を強く持ち、踏み出す足に迷いは有れど勝手に前を向き、勝手に行ってしまう。
(ついて行く方は必死なのに)
良妻賢母、女は家を守るもの、と明治の評論家は訴える。確かに女性が守らねば、顧みない男たちはたったひとり路頭に迷うのだろう。偶にしか後ろを顧みない男を、女は黙って支え泣き言を言った時は包み込み時には尻を叩くのだ。
好きなら結ばれ、言いたいことを勝手に訴え、やりたいことをする。そんな時代は遠く、ずっと未来まで有り得ない。
強張った肩を渾身の力を込め解すと、先生がくつくつと笑っていた。千紗は力を込める指を離さず訝しんだ声を上げる。
「何ですか、いきなり笑って」
「いや、女性は実に強いと思って居ました。参商君も金田君も、其れに僕もまた其れに魅せられて甘えて仕舞うのでしょうね」
「金田さん……もですか?」
あの人にいつか好きな人でも出来るのかしら、千紗は肘で肩のつぼを押して首を傾げた。胸の前で先生が痛みに小さな悲鳴を上げて、伸びた手が文机の上を叩いている。勿論、見ないふりをした。
しとしとと雨が降っている。秋を湿らす雨は冷たく、今頃足早にこちらへ向かう桐野の傘を濡らしているのだろう。早く来て、深く考え込む先生を強い腕で引っ張り上げて欲しいと思う。千紗の細い腕では、お道化てしまわなければ先生と共に深い泥の中へ沈んでいきそうになる。
「金田君は、実は参商君よりももっと不器用な男なのですよ」
意外でしょう、と先生は笑った。千紗は素直に頷く。
「意外です。確かに女の人は苦手みたいだけど、好きな人でも出来たら上手く遣り込めそうっていうか……」
ちょっと言い過ぎたか、神出鬼没な金田を気にして千紗は口元を両手で覆った。障子の向こうに誰の影も見えないことに安堵して、千紗は覆った両手をまた先生の肩へと戻す。先生はそんな千紗を見て、珍しく呵々と陽気に笑った。
「千紗さんは相変わらず金田君には辛辣ですね」
「……鵺とか言われましたからね」
女性を妖怪扱いした男に言葉を選ぶことはないですよ、と千紗は苦笑交じりに言った。勿論本意ではなく、気づくと澱む空気を打ち払うための冗談だ。先生が笑っていてくれるのなら、こんな扱け落としは金田は何も文句は言わないだろう。多分。
「確りとした信念を持てば持つほど、口には出さないものなのです。金田君はいつしか時代に殉じるのでしょう」
その呪いのような言葉に千紗は思わず口を噤んだ。
「強い思想は現実と離れるほどに身を苦しめる。芽生えたものを最早摘むことは出来ず、花と成り枯れるまで後は育って逝くだけなのです。願わくば、其の背を見守る人がいつしか現れるように僕も師として願って居るのですよ」
「そうやってしか……生きられないんですか?」
馬鹿みたい、現代に生きていた身としてはどうしてもそう思ってしまうのだ。金田は財産家の家の人間で、何もそこまで困難な道を選ばずとも安穏な生活が送れるのだろう。それならばいつしか金田の前に現れる女性を悲しませることなく、共に生きて往くことが出来る。
これから起きる何かを共に越えて行くことが出来る。
「止めては駄目ですか」
「其れが男ですから」
そう先生は身も蓋もないことを言った。不貞腐れる千紗の顔を下から見上げると、ずれた眼鏡を元の位置に戻す。先生は苦笑し、肩に乗った千紗の指をやんわりと下した。
「馬鹿げたことかとお思いでしょうが、男とは其んなものなのです。参商君も又、然う云う所が在るのですよ」
文机の上の原稿用紙に先生は手を乗せた。
「彼も信念の元で筆を持って居る。千紗さんがどんなに懇願しようとも、参商君の手から筆を取り上げることは出来ないでしょう」
「……はい。苦しんでいても見守る、のだと思います」
「だから女性は強いのですよ。僕ら男性は、貴女がた女性に支えられ生きて居るのです」
我が儘を言った時は子供だと思いなさい、と先生は笑った。
玄関の開く音の後に、桐野の声が聞こえた。
千紗は僅かに胸に締め付けるものを感じながら着物の裾を引き、その大きな子供を迎えるために立ち上がった。




