第89話 白と白
ポタ、ポタと、荒い岩肌のようなダンジョンの壁を、水滴が滴り落ちる音がする。
足元を見れば、靴の中まで完全に水浸し。
そしてざぶん、ざぶんとド座衛門のように流れ着くのは、弱小モンスター達の成れの果て。
「シェルさんの魔法、あんまりダンジョン向きじゃないね」
同じくずぶ濡れのエル君がぽつりと呟いた。
「あぁ、わたしも今、それを痛感しているところさ…」
かつて兄さんとアナスタシアさんが初めてパーティを組んだ時もこんな感じだったらしいけど、全員の能力を見せ合うことになった。
第一階層はシェルの番。
だから今フロアが水浸しになっているのは、シェルの極大魔法のせい。
まだ低層階だし、C級ダンジョンで極大魔法なんてものが必要になるのはせいぜい最下層のマスター戦くらいのはずなんだけど。
いきなりモンスターハウスに当たったのがよくなかった。
『さぁ、派手に狼煙を上げるとしようか!』
『よっリーダー』
テンションの上がったシェルが放ったものが、洪水を呼び起こす水系極大魔法。
フロア中のモンスターが全滅したけど、ついでに私達もずぶぬれ。
前髪からまた水滴が一滴、滴って落ちた。
「雪くん、す、すまない、女子である君までずぶぬれにしてしまって」
「別にいいよ。水を弾く素材だから」
少し寒いくらいでたいした害じゃない。
でも一応、これだけは警告しておく。
「分かってると思うけど…エル君は今、能力使わないでね?」
「勿論わかってるよ。僕ってほんと雷しか使えないからね」
そう、エル君は雷が出ないスキルは一つもないというくらい、雷に特化しているらしい。
だから水辺でのチーム戦は絶望的。
「もしかして僕とシェルさんって、相性わるいのかなぁ」
「だ、大丈夫さ!狭い空間ではわたしは水魔法は使わず闇の戦技を中心に戦えばいいだろう」
「僕の能力が不便でごめんね」
エル君がしょぼんとしたのを見て、シェルは慌てた。
「いいんだ。メンバーに合わせられないで、リーダーが務まるものか」
彼は、さわやかな笑顔でそう答えた。
即席パーティにそこまで責任感じなくてもいいのに。
かつーん、かつーん
そして二階層へと降り立った。
よりいっそう肌寒さを感じるが、それもそのはず。壁はショートケーキのように綺麗な白一面。
さくさくと歩く音が小気味よい感じだ。
南国のダンジョンしか潜ったことがない私には、雪国のダンジョンってのも、新鮮でいい。
そんな中で、さっそくモンスターに遭遇した。
おそらく雪で出来た丸々としたボディに、おまけみたいな手足がくっついたモンスターがひらひらと舞っている。
かわい…というか、どうみても弱そうね。
「おぉ、しめた!」
シェルがガッツポーズをとった。
「シェルさん、知ってるの?」
エル君が問いかけた。私も知らない。
「あぁ、ダンジョンマップ図鑑でしか見たことがなかったが、あれは寒冷地ダンジョンにしか出現しないというレアモンスター、スノーメンだ。基本的に攻撃力皆無の雑魚モンスターなのだが」
「見たまんまだね」とシェル君。
「あぁ。だがあの雪の精は、素早さだけが異様に早いのだ。ばかげたことに、SSクラスらしい。おまけに回避系のスキル持ちときた。だから放っておけばよいのだが、得られる経験値が異様に高いそうでな…。欲にまみれた多くの冒険者があれを追い回し続けて、道を見失い食糧尽きて、命を落としたという。…あぁ、なんて恐ろしい…」
「恐ろしい要素あったかな」
この二人、意外に息が合うのかも。
それはともかく、私も素早さ特化系として、やってみたいかも。スピード比べ。
「このフロアは僕の番だったね」
エル君が一歩前に出た。
「厳しそうなら手伝うよ?」
エル君はレベル70程しかないらしいから、敏捷はあってもA。
SSの動きを捉えるのは無理じゃないかな。
「まぁ見ててよ。なんたらとカミナリは使い様…ってね」
そう言い、スノーメンの群れへと歩いていくエル君の髪の毛が、わずかに逆立った。
チリッ
彼の背筋と両足に、微弱な電流が走ったのが見えた。
「はい、獲ったよ」
エル君の手の中でスノーメンがじたばたと暴れている。
「きゅー」
…速かった。
「エル凄いな、ありえないくらいものすごく早い動きだったぞ!」
「まぁ、ただのトリックみたいなものさ」
「そんな某格闘技世界チャンピオンの様な言い分では納得できない。どうやったんだ?」
シェルが何言ってるのかちょっと分からないけれど、スキルを使ったのは間違いない。
あれはレベル70の動きじゃなかった。
「初歩的なやつなんだ。身体に雷を纏うスキルで、それを移動に応用しただけさ」
「ふぅむ応用か。ううむ。うん。器用なんだな君は!」
それで納得しちゃうんだ。
…体に電気をまとって高速移動、か。
ありそうだけど、そんなことできるのかな?
雷属性を使える仲間は何人かいるけど、やってる人、見たことない。
「きゅきゅー!きゅーきゅー!」
「じゃそういうことで。逃げられそうだし、トドメさしちゃうね」
「きゅきゅきゅきゅーーーーぐぇ」
ぐ…と強く掌が閉ざされて、それでじたばたと暴れていた雪の精が大人しくなった。
指の隙間から飛び出ていたおもちゃみたいな手足が、だらりと弛緩した。
「おっ、レベルが上がった」
「わたしも、一気にだ。そうか、これが」
アナスタシアさんの『経験値等分配』の効果だ。
ダンジョンの入り口まで彼女と一緒だったパーティに、脱出までの間これが適応される。
しかも分配されても殆ど経験値が減らないというから、すごく便利だ。
今は命の消耗が早く、新人加護者が次々と生まれてくる。
私たちはこれを使って、世界各地のC~B級ダンジョンを攻略しながら、同時に未熟な加護者たちを戦士へと変えて、戦地に送り出してきた。
「はぁぁ、アナスタシアさんの加護を感じる。あぁ女神よ…」
「シェルさんも好きだねぇ」
その後、三階層へ降り立つまでの間に数匹のスノーメンと遭遇したことで、彼らは随分とレベルが上がったようだった。なんと私も1つだけ上がった。このC級が今まで攻略されずに残っていた理由はこれかもしれない。
でも今は、一つたりともダンジョンを長生きさせるわけにはいかない。
間に合うか、間に合わないか。その瀬戸際なのだから。
かつーん、かつーん
「さて、いよいよ雪ちゃんの実力を見られる時がきたってわけだね」
「私はパス」
「えぇ…」
エル君が露骨に残念がった。
「雪くんが手の内を見せない…。さてはミステリアス路線か…」
「私はボスをやるから。次はまたシェルの番」
「まぁわたし達には倍以上のレベル差があるんだから、敵が弱すぎて手を見せようもないか…」
「それもそっかぁ」
二人ともしゅんとなってしまって、少し申し訳ない。
でも平たく言えばそうなる。
三階層には中ボス格のグリズリーベアが出た。
長いかぎ爪と、大きな牙をもつ、純粋なパワータイプ。
魔力と筋力の乖離が大きいからコスパがいいと、兄さんが沢山捕まえてたっけ。
「さぁて気を取り直して、狩るとするか」
シェルが取り出したのは二振りの半円形の刃。
「チャクラムってやつさ。わたしはこれが扱えたからヴィシュヌに気に入られたのかもしれない」
「グォォォォ!」
襲ってきた3メートルを優に超える大熊の爪を、シェルは片腕で弾き返した。
何度頭上から爪が襲ってきても、すくい上げるように振るわれたチャクラムが攻撃を逸らしつつ、敵の鮮血を散らした。
「やるねぇリーダー」とエル君。
腕力でやや劣るシェルだが、それをものともしない確かな技量があった。
「そしてこれが戦技だ。闇は重力と侵食の力。わたしの投擲技はその両方を併せもつ」
彼は両腕をクロスさせた状態でチャクラムに闇を纏わせると…。
「ふん!」
鋭い踏み込みとともに二つの刃が宙へと放たれた。
挟み込むように両側で綺麗に円を描いて飛翔するそれらは、二つの小さな黒い太陽となってグリズリーベアを左右から吸い寄せた。
「グゥゥ!?」
巨体のグリズリーベアは左右に強力に引き寄せられた結果、十字架につるされたように両手足を開いたまま宙に浮きあがり…。
「断・罪ッ」
瞬時に交差した両の刃によって四の肉片へと姿を変えた。
回転する双刃は綺麗に血をとばしてから、緩やかに主の元へと戻ってきた。
「うわぁえっぐ」
容赦ない殺しっぷりに、エル君が若干引いていた。
「許せ、来世ではまっとうな熊になれよ」
殺伐とした技の実際とは裏腹に、ぱしっと的確にチャクラムをつかみ取ったその挙動は、見事という一言に尽きた。
「まっとうな熊ってなに」
「化身というものの考えがあってな…」
「ふぅん、シェルさんって面白いね」
楽しそうに話す二人。
この二人はレベルのわりに結構…いや、かなり強い。
今じゃレベル100を超える加護者も珍しくないけど、そんな過酷な世界を生き残ってきたベテラン勢でも、彼らに勝てる者は殆どいないんじゃないだろうか。
相当な逸材。
さては兄さん、知ってたな。
強力な加護者が二人同時にやってきたっていう情報を。
なにがスカウトよ。
要は最終決戦で使い物になるよう、二週間でとことんレベル上げてこいってこと。
つまり私は兄にいい様に使われている。
とりあえず帰ったら隠し持ってるコンビニチョコ全部没収してやる。
そして続く第四階層。
今回はまたエル君の出番。
敵はイビルプラントやらジャイアントバットやら、オーソドックスなのがうじゃうじゃと湧いていた。
驚異的な移動術は見たが、肝心の攻撃スキルが気になるところだった。
「『ハイライトニング』っと」
パチンと彼が指をならすと、細い稲妻のような電流がひとすじ、空気中を走った。
そしてそれはフロア内で拡散する。
あっという間にフロア中の敵が感電していった。
そのままショック死したものも、生き残ったものもいた。
…魔力はそこそこか。
「ガアゥ!」
生き残ったレッサ―ウルフが二体、私の方めがけて飛び掛かってきた。
「はぁ」
彼に倣って中級の風魔法を唱える。
小さなつむじ風がはじけて、私の左右それぞれの方向にレッサ―ウルフを吹き飛ばした。
二匹とも、壁にめりこんで動かなくなった。
シェルも同じように、範囲を絞った中級程度の水魔法で一体にとどめを刺したところだった。
「二人ともごめんごめん。僕の魔法って、決め手に欠けるんだよねぇ」
ばつの悪そうな顔で戻ってきたエル君。
「気にしないで。まぁ、私もそうだし」
「そうなの?僕達って、ちょっと似てるかもね」
彼はそう言った。なんだか嬉しそうに。
…まぁ、あながち間違いでもないか。
二人ともスピードタイプで魔力はそこそこだ。
少しだけ、同い年だという彼に、親近感のようなものがわいた…ような気がした。
そして彼らの戦い方を確認しながら、ダンジョン探索はとてもスムーズに進んでいった。
「おっ、ここの階段は金ぴかだな!」
「ほんとだね」
派手なあつらえの階段が現れたので、シェルとエル君は物珍しそうにしていた。
いつものように、最終層へと続く階段だと一目でわかったので、説明する。
「おお、ついにか!」とシェル。
「初ダンジョンといえば、普通はもっと苦労するものなんだろうけどね」
私も初ダンジョンは規格外達と潜ったので、攻略はあっさりとしたものだった。
「こういう趣味なのかな」とエル君。
「どこのダンジョンもこんなもんだよ」
「へぇ…」
補足しておいたが、その返事は間の抜けたものだった。
第十階層にして、私達三人は最深部へと辿り着いた。
ブリキのような軽い踏み心地で、長い階段をとんとんと降りて行った先には、大きな扉があった。
それを見て、先ほどと同じようにはしゃぐ二人。
私も、初めてブラジルでダンジョンを攻略したときは、同じようにどきどきしたっけ。
なんだか懐かしいな。
「さぁ、行くぞ!」
シェルが勢いよく重厚な扉を開いた。
広いフロアの奥に牛の頭をしたモンスターが見える。
「ふしゅるるるるる」
筋肉質な半人半牛で、斧をもっている。いかにもパワータイプか。
「最後は私がやるわ」
「おぉ、ついに不動の雪くんが動くか!」
「ずっと動いてるよ?」
「あ、うん」
またしょぼんとさせてしまった。私の返しが悪かったのか?まぁどうでもいいけど。
私が一歩前に出ると、牛人はにやにやとあざ笑うかのような表情を浮かべた。
…C級のボス程度なら、こんなものか。
―スゥ。
少し深く、息を吸い込む。
そしていつものように、両足に柔らかく風を纏わせた。
『僕達って、ちょっと似ているかもね』
…どうなんだろう。私の風や兄さんの念動力と同じように、簡単に応用できるものなんだろうか。
気にはなったが、ひとまず保留だ。
地上に出てから兄や玉藻に聞いてみるとしよう。
肺の空気を少しだけ外へと押しやると同時に、踏み込む。
牛人は、簡単に私に背後を許した。
まだ私が移動したことにも気づいていないらしい。
大鎌を展開すると、踏み込みの勢いそのままにくるりと一回転する。
鎌は形状からして、切るという意識よりも削ぐように振るった方が上手に切れる。
できるだけ、まっすぐに。
苦しむ時間が、少しでも長引かないように。
線を引く。
「終わったよ」
武器を収納し、ゆっくりと彼らの元へと戻ってきた。
「え?」
シェルはよく分かってないらしい。
「驚いた。殆ど動きが見えなかったよ。本当に強いんだね、きみ」
エル君は一応私の動きが追えていたらしい。
さすが同系統というべきか。
「え?終わったの?もう?」
「終わったわ」
シェルは奥のほうで立ち往生している死体と、私の姿を何度も見比べた。
そして次第とずるりとずれて地面に落下した頭部を見るなり、シェルはぺたんと座り込んだ。
「…雪くんに至っては…動きが全く見えなかった。わたしはなんて未熟で弱いのだろう…あぁ女神よ…」
どこの女神に祈っているのやら。
地に手をついて、わかりやすく落ち込んでいる。
…面倒くさい性格だなぁ。
どこからか、低い地鳴りの音が聞こえ始めた。
ダンジョンが崩落を始めたんだ。
「弱くないよ」
シェルに対して、私は率直に事実を伝えた。
「ただレベルが足りないだけ。そしてそれはエル君も。大丈夫、私があなた達を鍛える」
私は改めて二人に向き合った。
「渡瀬大尉じゃなくて、君が?」
「そう。私が、あの人に代わって」
「雪くん…君は…」
シェルがのそのそと立ち上がり、何かぼそぼそと喋っている。
何か気にでも障ったのだろうか?
すると、エル君が代弁するかのように言った。
「シェルさんが気になっているのは、スペシャルギフト持ちでもない雪ちゃんが、どうやってその若さで圧倒的な強さを身に着けられたのかってことだよね?」
あぁ…そういうこと。
加護者の強さに年齢は関係ないけど、確かに特異に映るのかもしれない。
その問いには答えなかった。
私は王座へと歩く。
いつものように戦利品の宝箱を開けると、琥珀色がかった宝石をあつらえた、綺麗なネックレスが入っていた。
「これはエル君が使って。あなたと相性がいいみたいだから」
「ありがとう。女の子からプレゼントなんて初めてさ。なんだか照れるね」
こっちは照れないから問題ない。
すぐ横の転移陣へと二人を誘導した。
対象が人間でも自然と起動する分だけ、こっちのはS級よりも良心的だったんだな。
ふとそんなことを思った。
気が付くと、いつの間にかシェルが立ち上がっていた。
「雪くん、エルの言ったことは気にしないでくれ。このご時世、能力のことについてとやかく聞くつもりはない。君が特別な存在なのは、よくわかった」
なんとなく上を仰ぎ見た。
もうじきダンジョンは崩れる。
神様を媒介として地球から提供されていた存在エネルギーを失って、ガラガラと音をたてて崩壊している。
「私は別に、特別な存在なんかじゃないよ」
チクリと機械の左腕が痛んだ気がして、手でさすった。
固くて冷たい金属の塊。
ただそこには、確かに感覚があった。
「左腕の部分、大きな包帯だね。怪我でもしたのかい?」とシェル。
とやかく聞くつもりはないとか言ったそばから核心をついてくるあたり、天性なのかな。
勘が良いと言うべきか、間が悪いと言うべきか。
「はぁ…そんなとこ。そろそろ崩れるから、出よう」
こうして私達三人の初のC級ダンジョン攻略は終わった。
そしてこの日から、私達三人は正式にパーティ結成を通達された。
養成所一日目にして異例だが、どうせ決定事項だったのだろう。
そうして私達の、世界各地のダンジョンへと転戦を繰り返す日々が始まったのだった。
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予定は未定。
そんな言葉がついぞ無縁だったシフト制のフリーター時代も遠い昔。
大尉なんて肩書がついてしまった今日この頃は、予定が予定通りに動いたためしがない。
なぜなら今俺は、韓国B級ダンジョンの単独攻略を中止して、ナーシャと二人でドイツのダン協基地へと向かっているからだ。
それも、たった一時間前に連絡が途絶えたという―。
ヨーロッパではイギリスに次ぐ大拠点なだけに本部も相当焦っているのだろう。
俺達二人に直接依頼が来るってことは、そういうことだ。
ナーシャのテレポートは想像が明確であれば未踏の地へも飛べるようになったが、さすがにどこも似たり寄ったりな軍基地へは厳しかった。
俺達はフランクフルトの空港から陸路で進んだ。
そして今俺たちは、長い旅路を飲み込む、大きな都市の入り口を仰ぎ見ている。
出来る限り人が沢山住んでいそうな場所は避けてきたが、ここだけは避けて通れなかった。
(…雪はうまいことやってるかなぁ)
現実逃避でもしたくなったのか、そんなひとの心配なんぞしてみる。
ダンジョンのことじゃない。仲間とうまくやれているか、ということだ。
でも、才能豊かな彼らが、彼女にとって貴重な友人となってくれることを期待している。
「ここは、教徒が多かったんでしょうね…」
辺りを見回して、ナーシャはそう呟いた。
静かに車のエンジンを走らせ、ゆっくりと道路を進む。
予想をはるかに超えて、それは悲惨な光景だった。少なくとも、俺の目にはそう映った。
道路の上には、埋葬もしてもらえずに放置された死体が、山のように折り重なっていた。
その横では、ゾンビたちが元気そうに歩き回っている。
ゾンビ化が完成する前に死んでしまった死体は、ゾンビにならないことが分かっている。
だからあのゾンビたちは、生前、生きたまま食われてからああ成ったということだ。
商店は殆どがガラスを割られて、まだ変色の見られない食料品が地面に点在していた。都市単位で見捨てられ、ライフラインを絶たれた市民たちがつい最近までサバイバルしていた証拠だろう。
だが今となっては、周囲に人の気配は、全く感じられなかった。
俺は比較的ダンジョンの方に駆り出されることが多かったから、この人類史最悪のバイオテロに対処する機会は、少ない。それに反してナーシャはその殆どが地上任務だ。
テレポートの輸送任務もあるが、理由の大半は彼女が『とあるスキル』に目覚めたものによる。
だから俺が見てこなかった悲劇を、彼女は沢山目にしてきたことになる。
太一カーは静音なのだが…。
生き物の匂いでも嗅ぎつけたのだろうか。
ゾンビたちの視線が次第にこちらへと集まってきていた。
そしてそれは連鎖的に広がっていき、なにかをきっかけに、弾けた。
グゥアアアアアアアア!!!!
悲鳴のような叫び声が、山鳴りのように辺りに響き渡った。
エウゴアのクソ野郎の宣言通り、新鮮な人肉が大好きらしいゾンビたちが、草陰やビルの中から湧き出して、あれよあれよという内に、大群となって押し寄せてきた。
「ちっ…鬱陶しいな」
神の庇護を受けた俺達は、ズルいことに噛まれてもゾンビにはならない。この事でも当初は一悶着あった。
しかし問題はそこではない。
俺やナーシャのような力ある人間の肉を僅かでも食ったゾンビは、一気に上位ゾンビへと生まれ変わるのだ。
―それが、人をゾンビに変える事に勝るとも劣らない、こいつらの最悪な特性だった。
ゾンビ化はあくまで副産物で、『主』とやらの強大な力は、この他者の強さを取り込むという特性に関係しているのではないか―。
ダン協本部では、専ら『主』に備えたその手の研究が急ピッチで進められている。
あと五年もあれば何らかの結果が出せそうらしいが、残念ながらそのような時間はない。
そして俺達も目下の問題として、ゾンビの大群をどうしたものか。
「私がやるね」
助手席から道路に降り立って、ナーシャが杖を地面に突き立てた。
地面には、彼女を中心として、淡く白い文字の紋様が浮かび上がっていた。
「こんなところで使って大丈夫か?このあと本番が控えている可能性があるわけだが」
「うん。生存者がいないとも限らないし、建物も壊したくないし。だから―」
少し言いよどんで。
「この方法が、いちばん、誰も傷つかないから」
ナーシャの言葉とともに、辺りは眩い光に包まれた。
彼女の極大魔法『ホーリーソーン』は、広範囲をすべて標的とする魔法、結界魔法だ。
店長や、俺の最終スキルもそうだ。
結界魔法は強力なのだが、その分消耗は激しい。
まぁ以前なら浴びるようにエーテルを飲めば済む話だったのだが、ダンジョン討伐の進行とともにモンスターの頭数も減り、この頃魔素核はますます貴重品となっているから、そうもいかない。
次第に白光は粒子へと変わっていった。
空へ空へと昇っていく。
この光景にはいつも魅入られる。
そしていつものように、気が付くと消えていた。
この突然現実に引き戻される感じも、結界魔法特有な感じだ。
―『創造神の理に叛いた』生物に対してのみ働く強力な浄化作用。
その結果が今眼前に広がっている光景そのものだ。
万を超えるゾンビの群れが、骨一つ残さず、完全に消滅していた。
「どうか安らかに」
光の粒子に包まれて祈る彼女の姿を見て、抱く感想は誰しもが同じだろう。
マジ聖女。
こんな光景を見れば誰しもが『聖女様!』と叫びたくもなる。
でも彼女は明らかにその言葉を嫌がるので、身内では冗談でも言わないようにしている。
俺も彼女と精神世界で繋がって、彼女の過去と共に、よく分かったことが一つある。
彼女は自分の人格性のある一部に対して、すごくネガティブというか、否定的だ。
水神と繋がった今も、それは変わらない。
変わったことと言えば…。
「太一、なにか考えごとかな?」
近寄ってきた彼女はそう言った。
ぼーっと彼女を見ていたので、少し怪訝がられたらしい。
「いんや。おつかれさん。行こうか」
「うん、こんな嫌な仕事、早く終わらせて帰ろう」
「まったくだ」
変わったことと言えば、彼女は、とても強くなった。
少なくとも、表面上は。
たとえ恋人であっても、分からないことだらけだ。
色んな事があっただけに、心配じゃないとはとても言えない。
彼女が彼女の戦いを終えたとき、少しでも重荷が軽くなっていればいいなと、切に思う。
ようやく真の静寂を取り戻したこの街を背にして、俺たちは目的の基地へと続く道を急いだ。




