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第86話 挿話:点滅


 あの日から、どれ程の月日が流れただろうか。

 世界が奈落の底へと落ちた、あの日から。


 世界の至るところで、突如として人間同士の共食いが始まった。

 母はわが子の腹に食らいつき、臓物をあばき、まだ生温かな血をすすった。

 隣家で悲鳴が上がる頃には、変わり果てた姿の幼子が父の首筋に牙を立てた。


 B級映画さながらのその光景には、一つのテーマがあった。

 『人類の昇華』。

 狂った一人の人間が、人類存続のために悪魔と交わした契約の結果が、これだった。

 

 絶望、破壊、阿鼻叫喚。

 人間が地上に築いた楽園は、音を立てて崩れていった。 


 対ダンジョン協会は、同時に行われた瀬戸基地への魔導核攻撃に意識の大半を注いでいたため、どこか事態を甘く見ていた。ゾンビ化した人モドキを逐次射殺していけば、なんとかなるだろうと。

 

 甘かった。

 人モドキは人を食らって、力をつけた。

 そしてより多くの人を食った。

 加護者は神の祝福によりゾンビ化することはなかったので、多くの人モドキを殺した。

 だが、百体の人を食った人モドキは加護者をも食らった。

 そしてその血肉を更に糧としていった。

 

 完全な奉魔教徒の締め出しを行っていたブラジル本部基地、瀬戸基地と、人モドキに狙われない強力なモンスター軍団を擁するアフリカ基地とその支部を除き、殆どのダン協の基地が内側から食い荒らされた。


 『壁が魔物の侵入を防いでくれる』。

 ダン協は、それに慣れ過ぎていた。


 世界の終わりは、外からもたらされるものだと誰もが思っていた。

 まさか、その前に自らの手で家族や隣人の首に手をかけることになろうとは…。


 人々は世を呪い、そして自らを呪った。

 これは人の業がもたらした結果なのではないか、と。

 むしろ、そうした加害者意識でも持たなければ、とても現実を直視できなかった。

 退廃的と言うにも生ぬるいこの地獄絵図を、人々はいつしか『世紀末』と呼んだ。


 ―しかし、あの日のことを、人々は忘れなかった。

 もう一つの破滅カタストロフィを、まるで無傷のうちに終わらせた、一人の人間のことを。

 

 あの日、共に空に上がった加護者たちは、暗い海の向こうに煌めく満点の星空のようなミサイルの流星雨を目の当たりにして、絶望した。

 そんな人の業の集大成ともいえる一万五千発の核ミサイルの雨に、一人の男が飛び込んでいったという。

 そのあまりにも荒唐無稽な物語は、映像には残されていない。

 

 だが、当時の目撃者たちは皆、口をそろえてこう言う。

 まるで、時が止まっていたかのようだった、と。




 ―そして今、日本は冬を迎えていた。

 ダンジョンマップが想定したタイムリミット。

 大いなる災いが次元の魔穴を巡ってその産声を上げるまで。

 地球はちょうど、臨月にさしかかっていた。

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