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第56話 地獄

更新できない時期があったにも関わらず、御覧いただいている皆様、ありがとうございます。

今回は32話ぶりの胸くそ展開ですので、何卒ご注意くださいm(_ _)m

「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ」


夜の帳が下りた後、辺りはひっそりと静まり返っている。

暗い。ここは、どこだろう。

誰かの息遣いだけが鮮明に響いてくる。


ドクン、ドクン、ドクン、ドクン

否、それに負けず劣らず、心臓の鼓動が、互いに高め合うかのように追随している。

逸る呼吸と、嘶く心臓。

そこに新たな音が加わった。


ガチ、ガチ、ガチ、ガチ

聞き覚えのあるこの音は、寒い時になる、あれだろうか。

対策法といえば、限られている。


「ハァ~」

一体、誰の吐息なんだろう。

寒さに凍える手を温めているのだろうか。


ガチガチガチガチガチガチ

それでも一向に音が鳴りやむ気配はない。

そうこうしているうちに、ようやく目が暗がりに慣れてきたのだろうか。

段々辺りの様子が映し出されてきた。


ここは、どこかの納屋の中であるようだ。

小さな窓が一つあり、先程まで不在にしていた満点のお月様が顔を覗かせていた。

いつも見惚れていたお月様。


―それが今はとてもとても、憎らしい。


ふと、その明かりを遮るものが窓の外を横切っていった。

それをきっかけに、ひとつの足音が、だんだんと大きくなっていく。

「ヒッ」

それは、おれの声ではない。

顔はよく見えないが、それは目の前で怯える少女の喉から出た、小さな小さな、悲鳴だった。


ギギィ

それから程なくして、納屋のドアはゆっくりと開かれた。

無遠慮に差し込む光とともに現れたのは、一人の男。


「探したよ、お嬢ちゃん」

彼は、にっこりと笑いかけてきた。


---------------------------------------------------------


場面は移り変わる。


少女は、男に手を引かれて、夜道を歩いている。


村の中は、静まり返っていた。

いつもは夕餉と共に、家々の窓からは灯りがこぼれて、家族の笑い声が聞こえてくる時間。

今は、二人の足音と、草木の間から届く虫の音だけ。


「おじさんは、エル・ゴラって言うんだ。巷で話題のモンスターがこの村を襲ったようだね。今君を、安全な場所へと連れていくからね」

にっこりと笑いかける男とは対照的に、少女はますます怯えきっていた。

背丈は十分大人に近いが、怯えて背を丸める少女は、殆ど幼い子供のようだった。

「あぁ、可哀そうに、よほど怖かったんだね。もうすぐだからね」


「ね…ねぇ、おじさん。わたし、納屋に、かえ…り…たい」

「うん?なんでだい?」

「お母さんは…その、村をお、襲ったのは、に、にんげ―」

「あぁ大丈夫、大丈夫だよ。今から、もっともっと安心できる場所に行くんだからね」


その後、彼女が言葉を発することはなかった。

二人はただ、『俺の』目の前で、黙々と歩き続けている。


後ろを振り返ると、そこに、世界はなかった。

ただ、満点の月明かりが照らせない程の、真の闇が広がっているだけだ。


ここにきて、俺はようやく、『自分』がどこにいるのかを認識した。

ここは、雪の過去の記憶の中であり、俺はここでは実体のない存在だ。

ここでは、雪が五感で感じたものと、彼女の記憶だけが、世界を形成しているのだろう。

そして今、エル・ゴラと名乗った男、こいつがエウゴアだろう。

顔は…よく分からない。こんな顔だったか…。


いや、エウゴアのことはいい。

今から彼女は、きっと村長の家に連れて行かれるのだろう。

そこには、秘密裏に建造されていた実験施設への入り口があったはずだ。

―村人全員が、人外バケモノに変えられたという。


「雪、待て。そいつに着いていくな。そいつは敵だ。今から行く場所は、安全な場所なんかじゃない!」

いくら声をあげても、全く彼女には届いていない。


おかしい。

俺は『意思疎通』の力を使ってここにやってきたんだ。俺の声は、この世界では誰よりも彼女に届くはずなのに。


「雪!おい!雪!」

二人を追い越し、彼女と正面から対峙して、ぎょっとした。


彼女の顔には、黒いモヤのようなものが渦巻いていた。

(なんだ、これは)

これが、俺の言葉を届かなくさせているのか。


どんっ

「いて」

彼女と身体がぶつかり、衝撃で俺の身体ははじかれて、地面に尻もちをついた。

彼女はまったくふらつく様子もなく、ただ淡々と男に連れられて歩いていく。

よく見ると、彼女の全身が、その黒いモヤで覆われていた。


ここに没入ダイブしてくる前に、クリスから言われた事を思い出した。

防衛機制、か。

それが彼女を覆うモヤの正体なんだろう。

つまりこれは、彼女自身の、拒絶の、結果だ。


ありとあらゆる接触を試みたのも虚しく、雪は、エウゴアに連れられて、家の中へと入っていった。

俺はただ、その後を追いかけることしかできなかった。


------------------------------------------------------


「な…に…これ」


地下施設へと降り立った彼女がまず見たものは、培養層に浮く、村人たちだった。

多くの培養層が並ぶ中を、彼に手を引かれて通り過ぎていく。

「ねぇ、いたいっ」

いつの間にか、手を握られる力が強くなっていた。

彼女の不満には耳も貸さず、エウゴアは歩き続けた。


「あの子…もしかして、林杏リンシン?うそ、足が…」


「あぁ、君の仲の良い子だったのかい。しかし悲しむことはない。彼女たちは名誉にも、人類で最初の被験者に選ばれたんだよ。偉大なる異界の神の細胞を受け入れる、ね。まぁ少々下半身が『ムカデみたいに』変わったくらいで、彼女のことを差別するのはやめなさい、ね?サベツはとてもとても、よくないことだよ」


「あ…え…?」

「もっともっと、奥へ行こう。そこはもっと、安全だからね」


…これが、アレクが見たっていう、地獄か。

これ以上彼女が見なくて済むように、先ほどから施設を破壊すべく色々やっているのだが、全くびくともしない。

「くそ!雪、雪!」


二人は更に奥へ奥へと進んでいった。


----------------------------------------------------


「お母…さん、お兄…ちゃん?」

「あぁ、君の一家は特別優秀な血筋だったみたいでね。残念ながらお父さんは平凡だったので通常の導入方法とさせていただいたんだけど、お母さんとお兄さんはほら、この通り。私が特別に設計した魔導機械で、新たな人類への第一歩を踏み出してもらっているところさ」

「あ…あん…たが?」

「そう、私は既に神の血を授かった身であるからにして―」

「これ、お兄ちゃんの…頭の中…なんで取り出しているの?」

「不要な部分だからさ。新たな人類に変わるためにはね。安心しなさい。変わりに、もっと優れたものを―」

「やめて!これ以上取り出さないで!お母さんはまだ何もされていないのよね?今すぐやめて!二人を解放してよ!ねぇお願いだから!」

「まだ何も?いやいや、私は元来仕事が早いほうだよ。お母さんは特に優秀だったからね、さすがは君達の母親というべきか。だから少しずつ少しずつ、丁寧に変態を促しているところさ」

「…」

雪は、会話の通じる相手ではないと悟ったようだ。

母親に近づいていき、恐る恐る、その顔に触れた。

「お母さん、お母さん、ねぇ私だよ、雪だよ」


彼女の母親は、ゆっくりと目を開けた。

眼球からは、よく分からない根のようなものが生えていた。


「いやああああああああああ!!!!!!!!」

「おいおい、あまり検体を刺激するんじゃない。この実験が上手くいけば、我々人類の遺伝子を神が取り入れてくださる可能性も―」


「おしゃべりはそれくらいにしておきなさい、エウゴア。他に誰が聞いているか分からないんですから、ね?」

暗がりから姿を現したのは、白髪の男。


「お、お前は…」

俺の喉が、思わず声を発していた。


『私はルドルフといいます』

『軍人さんたちは、私を逃がそうと戦ってくれましたが、あえなく…』

『ワタセさん。貴方は、今ここで―必ず始末します』


「ル、シファー…」

ロシアで味わった恐怖が蘇る。

頭を消し飛ばされた記憶は、まだ鮮明に残っている。


「ひっ…ひっ…。う、うぇ、うぇぇぇぇぇぇ」

そんな中、雪はついに胃の中身を破綻させ、床に崩れ落ちた。

もう限界…だ。

アレクから伝え聞いた話なんて、概要ですらなかった。

こんなところに居て、正気を保てる人間なんて、その方がどうかしてる。


(くそ、くそ、くそ!!!)

俺自身への恐怖なんてものは、すぐに消え去った。

どうしようもない怒りと、無力感が込み上げてくる。


認めるしかない。この地獄は、この地獄は…ただの、彼女の記憶だ。

俺がどう呼びかけても、どう暴れても、既に起きたことが変えられるわけじゃない。

俺に今出来ることは…彼女が受けた傷を、一つも見逃さないように、見届けることだ。


ルシファーが彼女に近づいていき、頭に手を置いた。

「やはり、この子は最上位の神をその身に宿しているようですね。実験体として申し分ないです。あなたは特別に私の『能力』を埋め込んでさしあげます。無事に耐えられるかどうか、見ものですね」

「…」

「ではエウゴア、あとはあなたに任せます」


「は、ルシファー様の御心のままに」


その声を最後に、世界は真っ暗になった。


全くの無音。

雪は、麻酔で眠らされたのだろう。

この後、ルシファーが生成した魔導機械につながれたはずだ。



しばらく…とは、どれくらいの間だろうか。



無、とは、こういうものを指すのか。



一瞬であった気もするし、永遠にも感じられた気もする。




「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ」


「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ」


再び、彼女の息遣いが聞こえてきた。


先程まで全くの暗闇だった場所に、次第に光が差し込んでくる。

月の光だ。


得てしてそこは、先ほどの納屋の中だった。

彼女は、ここに戻ってこられたのだろうか。


戻ってきたのだろう。

何度も、何度も。


彼女はこの光景シーンを繰り返していた。


―終わらない彼女の悪夢の正体が、これだった。

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