第127話 意思疎通 遂
アインはひとしきり泣いた後、何かを思い出し、ハッと顔を上げた。
「独りになってしまったのなら、みんなを生き返らせればいい。そうだよ、蘇らせる……。魂を保持している私ならきっと出来る筈……」
熱にうなされたように、彼女は宇宙船の中へ戻って行った。
俺はその後を追った。
「…………」
ダン!
「ゼル、リシェル!蘇生できない!なんで!?」
船の大きな格納庫に蹲り、彼女は悔しそうに床を叩いていた。
「……私と魂の融合が進みすぎているせいだ。――じゃあマルコは!?」
「……なんとかなりそう…よし」
そして彼女は魔力を練り始めた。
バチ、バチ、バチ――。
辺り一体の時空が歪むほどの膨大な魔力量だった。周囲を黒く禍々しい稲妻が迸るが、彼女は気付いていなかった。
「古の神の御業よ。彷徨える魂に祝福を――『創生』」
何もない場所に、みるみる粒子が集まっていく。骨、神経、血管、結合組織、内臓、筋肉、心臓、皮膚――人を形作るものが折り重なる。
最後に脳が生み出されていく。
――とてつもない事が行われていた。
これは、無から生命を作り出しているに等しい。
こんなことが出来るのは――許されるのは、神だけだろう。
これは、つまり――。
出来上がったマルコは、以前の彼とは大きく異なっていた。元から巨漢ではあったが、今は3メートルは裕に超えるだろう。
――その目は虚で、おおよそ知性の光は感じられなかった。
「ま…マルコ?」
呼びかけても反応はなく、彼はただ黙ったままその場に立ち尽くしていた。
「……わ、わたし、私は、ひょっとして、とんでもないことをしているんじゃ……」
アインは焦点の合わない目でぶつぶつと独語を続けた。
「いや、アドルフなら大丈夫。魂も新しいし、この矛に含まれる彼の遺伝子情報を使えば、完全な複製体が出来上がる筈だ。大丈夫、彼はきっと帰ってきてくれる。そして私を――」
彼女は再び魔力を練り始めた。
先ほどよりも更に莫大な力が渦巻く。
バリバリバリッ――
肉芽が蠢き、人体が錬成されていく。
「わぁ…」
そして完成した。
今度こそ完全なる人体、いや、アドルフそのものが横たわっているように見える。
「アドルフ!私だよ!アインだよ。わかる?」
アドルフはゆっくりと目を開けた。
そして上半身を起こし、アインの方を向くと、ゆっくりと口を開いた。
「あなたは――」
「うん、私だよ、アインだよ。あなたと一緒に戦った仲間。あなたの――」
「アイン――?」
「うん!」
「あなたは――――誰ですか?」
「…………え?」
「……私は誰でしょうか。ここは……わからない……」
アインはしばし呆然とその姿を見つめると、
「あは。は、はははは」
堰を切ったかのように、笑い始めた。
「あははははははははははははははは!」
ザザ
ザザ――――。
ザザ――――――。
ブツンと、何かが途切れたような音がした。
視界がブラックアウトする。
「ちがうちがうちがう、こんなのはアドルフじゃない、嘘、嘘、嘘、嘘ばかりだ!!!!」
そして何も見えない世界に響き渡る慟哭――。
「わああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
それはアインの声のようで、別の誰かの声のようでもあった。
叫び声はいつまでも止むことがなかった。
そしてその陰で、ぽつりと誰かの声が聞こえた。
『これにて支配完成――と。これからはずっと、僕の手足となって働いてもらうよ。なぁに僕は優しいからね、全ての知的生命体を滅ぼした暁には特別に解放してあげよう、愛しの彼ともどもね。――さしあたり、創造主たる僕を載せた器として、【主】とでも名乗るがいいさ』
それは生命神の声だった。
――その時からアインは、別のなにかへと変わった。
舟に乗り、次々と知的生命体の住まう星々を滅ぼして回った。
奪った命と魂は際限なく取り込まれ、彼女は人間としての心と身体を保てなくなり、失っていった。
反対に、生み出されたホムンクルスたち――。
【主】にルシファー、オメガと名付けられた彼らは、次第に知性と力を取り戻していく。
それでもなお、まるでなにかの欲にでも突き動かされているかのように――。
舟は朽ち、宇宙空間を彷徨いながら、彼女は数えきれない程の殺戮を重ねた。
いつしか【主】が、完全に自我と言葉を失った頃――。
――ルシファーは培った魔導技術を駆使し、彼女の記憶を垣間見た。
そして知ってしまった。アドルフの存在と、最期。
つまり、彼女が己のせいで自我を失ったことを。
アインの孤独を癒したい。
自我を与えられた従者の願いは、ただそれだけだった。
それゆえに、ルシファーはアインとの出会いの瞬間を後悔しない日はなかった。
そして長い時を経て――。
過去から未来へと、一億年の月日が巡る。
【主】は全ての星を滅ぼし終えて、自らの足で神域へと戻った。
だがそこで、イグニスはある事に気づいた。
地球にしかけておいた時限爆弾。
すでに作動させた後、ただのエネルギー体として残った巨大魔素核。それを通じて、また人間たちの生きた気配を感じる事に。
『――ぼくが地球に戻った時、地球と陸上生命は何百万もの擬人たちごと破壊され尽くしていた。生存者を探したけど、人類は死に絶えていた。でもぼくは諦めきれなかった。生き延びた人造神たちの魂を使って、海生哺乳類をベースに、長い長い年月をかけて僕を生み出した旧人類を再生させた。そしてアインから流れてきた力を世界各地に分散させた結果として自然発生した無数の神々の内々へと、その力を少しずつ蓄えていった。いずれ必ず再びやってくるであろう彼女との邂逅と……そして、地球を滅ぼした災厄に打ち勝つため。ぼくは力を一つに纏めるための魂の器を探し続けた』
俺の目の前に、八百万神の姿があった。
『随分久しぶり。……いろいろあって、立派になったんだな、神様』
俺は手を振った。
『まぁね、人の身から神にまで成った君ほどじゃないけどね』
八百万神は笑った。
『あんたの執念には恐れ入ったよ。――救いたかったんだな、アインを。ずっと』
神は、寂しそうに、また小さく笑った。
『さぁ太一、ぼくの新たな宿主。今こそ、決着をつける時だ。ぼくたちの力は【主】には及ばないけど、この彼女の精神世界でなら……彼女に巣食う生命神を彼女から引き剥がすことが出来る。……そう信じている。そうすれば、僕達はきっと一億年の牢獄から彼女を救い、生命神を倒せる』
なんとも末恐ろしい神様だ。
ナーシャや雪との出会いも、皆の頑張りも、怒りも、愛情も、別れも。
全部この神様の計算通りだったんじゃないかとすら思える。
『誤解だ。それは違うよ太一。時間は一方通行で、有限だ。ぼくには創造神たちのように運命を操る力も時間を遡る力もない。ただただ、一億年分のぼくの執念と、君と仲間達との出会い、君が死に物狂いで勝ち取ってきた未来、みんなの力。それら全てが、このか細い糸を紡いで、君をここまで連れてきたんだ』
そうか。
じゃあここから先は俺の仕事だ。
アインの表層意識を覆い尽くしている闇を晴らすために、彼女の地獄を変えなければならない。
『頑張ってみるよ、八百万神』
『うん……太一。どうか、アインの魂を救ってあげて』
俺は今一度強く、スキルを行使した。
彼女の深層心理へアクセスするためには、この暗闇を晴らす必要がある。雪の時よりも、ナーシャの時よりも、防御規制は桁違いに強く広く表層意識を塗りつぶしている。
ただの傍観者から干渉者へと変わる時、俺の精神にもかなりの負荷がかかる。心してかかろう。
亜神に成ったこの身ですら、きっと挑戦できるのは一度だけだ。
長い長い記憶を見てきた。
でもその永遠に近い時間の中で、俺が運命を変えられる分岐点は、やっぱりただの一つだと思う。
ならアクセスするポイントは――。
アインとルシファーが出会ったあの時。
そこだけに、集中するんだ。
――。
――。
「――」
「――!」
誰かの声がする。
「アドルフ!私だよ!アインだよ。わかる?」
「――ぁ」
気づけば、俺の目の前にアインの顔があった。
――必死な表情をしたその顔に、僅かに見入ってしまった。
まだ人間だった頃――目の前の彼女は、それは美しい少女だった。
どこかナーシャと似ている気がするのは、俺がアドルフに感情移入しているせいだろうか。
もう二度と戻れない日々。
生を受けたばかりだったとはいえ、ルシファーの後悔は如何ほどだっただろう。
――俺は、俺ではないことに固執するべきではなかった。
心が壊れる寸前の最愛の人を、ただただ支えるべきだった。
(痛…)
言葉にするのは簡単だが、なかなか相当に難しい。
――脳が爆散するんじゃないかってくらい、頭が痛い。
事実を捻じ曲げるわけではないのに、ただ彼女の精神世界を少し改変するというだけで、膨大な生命力が消耗されるのが分かる。一応こちとら亜神なんだが…。これが一億年分のループの重みってやつなんだろう。
「アドルフ…?」
ルシファー。
お前、目の前にいる愛しい人が不安がってるぞ。
起きろよ。
自分が出来なかったからって、雪を身代わりにしやがって。親和性?そんなものでこのアインの孤独が癒せるわけがないだろう。
それが出来るのはお前だけだ。
彼女に伸ばそうとする腕はぴくりとも動かない。
だから俺は、縛りつけている過去を、全精神力を持って引き剥がしにかかった。
おい、ルシファー!!
頭を吹き飛ばされた恨みは消えてないが、力を貸してやる。
あの矛に。
生命神に精神を犯され尽くしてもなお、決して彼女が手放さなかったあの矛に。
お前の力が僅かにでも残っているのなら、頑張ってみせろよ。
禁呪法で産まれたアドルフの複製体。
確かに記憶をもたずに産まれてしまったことは可哀そうだ。
それでも、事実を知った時。
イグニスと共に地球を滅ぼす以外に、もっとお前には他に出来ることがあったはずだ。
――今、自分が何に干渉しようとしているのか、よくわからなくなってくる。
ここはただのアインの記憶の世界。
そこに可塑性はない。ただの事実を俺がなぞらえるだけの世界。
でも俺はここに確かに、彼女に寄り添う誰かの魂の存在を感じている。
『起きろ!!』
ドクンと。
何かが目覚めたような鼓動を感じた。
ドクン、ドクン――。
弱弱しい拍動なのに、強い意思を感じるような。
『くそ、イレギュラーめ、余計な真似を……』
どこからか、そんな憎たらしい声が聞こえた気がした。
ーーーーーーーーーー
私は、彼女を思い切り抱きしめた。
なぜこのような行動に出たのか、自分でも分からない。
言葉はいらない。
というより、出しようもない。私は彼女のいう、アドルフではないのだから。
でも、何故か分からないが、この気持ちだけは本物だ。
この……魂が突き動かすような。
彼女を愛しいと思う、この気持ちは。
『あ……』
その瞬間そこには、彼女が求めていたもの全てがあった。
アインの頬を、静かに涙が伝い落ちた。
私は、よりいっそう両腕に力を込めた。
そうしているうちに。
とても緊張していたのだろう。
徐々に彼女の身体から力が抜けてきたのが分かった。
そしてすすり泣く声が聞こえ始める。
彼女の顔をみると、美しい少女の顔は、涙やら何やらでぐずぐずになっていた。
『アドルフ…会いたかったよぉ。勝手に死んじゃうんだから、私、一人で頑張ったんだから。褒めてよ。いっぱい褒めて』
その顔をみて、私は――。
記憶にないはずだが。
これはなんの映像だろう。
幼少期からずっと見守ってきた愛しい女の子の姿を、そこに見た気がした。
『あぁ。頑張ったね。アイン。よく頑張った』
そしてまるでひとりでに口は言葉を発した。
だが違和感はない。
きっと――。
私があやうく口にしそうになった、誰ですか?などという冷たい言葉よりはよっぽど。
これで良かったに違いない。
よく分からないが、どこかの神にでも感謝するとしよう。
今この瞬間を、こうして彼女と過ごせる幸運に――。
二人は強く抱き合った。
お互いの存在だけを感じ合いながら。
――互いの魂は補完され。
ループが閉じる。
ーーーーーーーーーー
バリン、と音がした。
闇が晴れていく。
防衛機構による表層意識の汚染を突破できたらしい。
俺の両の鼻の穴からは高貴な亜神の鼻血がどばどば出ているが、亜神なので大丈夫だろう。
ふんっ!
鼻血は止まった。
表層を抜け、奥へ奥へと潜る。
――記憶の中で、ルシファーはよくやった。
奴の助けがなければ、表層を突破できなかったかもしれない。視界のあちこちにノイズが走っている。それだけ消耗は大きかった。
だが俺の仕事はまだ、ここからが本番だ。
彼女の深層世界は、魂の牢獄と化していた。
牢に囚われた無数の知的生命体たち。人型のものもあれば、そうでないものも、多数。
地獄を再現したようなその場所で、無限に近い数の魂の叫びを浴びながら、長い長い廻廊を歩く。
歩き続けた。
時折山のように盛り上がった強い怨霊が俺を飲み込もうとしてくるが、全て蹴散らして歩き続けた。
どれくらい進んだろう。
視界のあちこちに精神を侵食された歪みが現れている。
まだだろうか。
長い――。
長い――。
長きに耐えて耐えて、ようやく景色が変わり始めてきた頃――。
俺は、懐かしい声を聞いた。
「イカナイデ」
懐かしいのもその筈だ。
俺の中の、一番古い記憶にある声だから。
「イカナイデ、タイチィ」
『……母……さん』
もう顔も思い出せないが、声だけは覚えている。
目の前の骸が発するのはひどく汚れた声だったが、確かにその音は、母のものだ。
ダンジョンの到来に巻き込まれて、俺と一緒に飲み込まれて死んだ母。俺の目の前で、モンスターに食い殺された、俺の自慢の母。
母は、最期まで俺を助けようとしてくれていた。
姿形は無惨に崩れ去っている。
ゾンビ以下だ。肉は腐り、ところどころで骨が覗いている。
よく見れば、牢獄の一つの扉が開いていた。
解放されたのだろう、何者かによって。
『こんなところに、ずっと閉じ込められていたんだね……』
「イカナイデ、イカナイデ、タイチ」
かつて母だったであろう骸を、そっと抱き留める。据えたような酷い臭いがした。
八百万神に救われなければ、俺もここで母と永遠を彷徨っていたのだろう。
首筋に生暖かい感触を覚える。
噛みつかれたらしい。
だが、それが俺を傷つけることは到底敵わない。
「イッショニココデクラソウ、タイチ。ココハアンゼンダヨ、タイチ」
だから、その願いは叶わない。
昔、ダンジョンを攻略していた頃、シェルの昔語りを聞いたことを思い出した。
彼は、ゾンビになって自分に嚙みついた母と妹を手にかけたと言っていた。
今なら、その時の気持ちが、よくわかる。
母を解放したのはイグニスだろう。
目的は足止めと――
きっと、純粋な悪意によって。
――でも。
俺は、ここで母と再会できたことに感謝する。
『母さん、俺ね、信じられないと思うけど、今世界を救うために戦っているんだ。色んなことがあった。本当に色んなことがあったけど、貴方の息子は、誰よりも元気でやってるよ。だから、安心してね』
「タイチ、エレベーター、ノッテ、アガッテ、ニゲテ」
首筋に嚙みつきながら、母は俺の身を案じ続けた。
『うん、そうだね。一緒に行こうね。これからは、ずっと一緒だ』
俺は母を強く抱きしめて、
「ヤッタァ、ズット、イッショ、タイチ、イ――」
その亡骸を、完全に消滅させた。
灰すら残さずに。
ただただ、母の声をもう一度、胸の奥にしっかりとしまい込んでおいた。
――思い出した、あの時の感情と共に。
だからこれでもう二度と、俺がそれを失くすことはないだろう。
『ありがとう、母さん。俺……絶対に最後までやり遂げるよ』
そして廻廊は終わりを迎えようとしていた。
いつの間にか、なぜか視界を埋めるノイズは消えていた。
【主】と、創生したダンジョンに食い殺された数多の魂たち。
かつて雪が囚われた広大な牢獄を、一直線に突き進む。
そして唐突に、足元でパシャンと、水音がした。
途端に開ける視界。
一面に広がったのは、海。赤い海――。
わかる。
ここが、エスの領域だ。
何人たりとも、他者の欲求を犯すことは許されない。
なぜならここが、人を人たらしめる場所だからだ。
だが今回だけは、俺はそこに足を踏み入れる必要がある。
海は次第に深く深くなり、俺は海底へと身を沈めていく。
次第に光、つまり意識の及ばない深海へと潜っていく。
そしてついに、脚は地を踏んだ。
ここが終着地点だ。
――あれが。
この世界の核となる大きな水晶体。
アインの心の中枢――。
本来は眩く輝かんばかりだったはずのその核は、渦巻く根により侵食され、光は既に途絶えかけていた。
『憎きイレギュラーめ』
その声は、頭上から聞こえた。
見上げると、根は高く連なり、収束し、その大きな身体を構成していた。
――イグニス。
記憶で見た創造神、その一柱。
偉大なる神の姿、そしてその声は、生理的嫌悪感をおよぼすグロテスク極まりないものだった。
『ひどいもんだ、こんなのが俺たちの祖先かよ』
『母殺しは楽しかったか?無礼者め。ああ忌々しいしぶとい、生き汚い人類!きみにいたっては、あろうことかその身まで神に近づかんとする強欲の化身だ。神として到底看過することはできない。きみはぼく自ら滅ぼしてくれよう』
『――借り物の身体でよく言う』
その瞬間、根が鞭のように一斉に打ち付けられた。俺は動かなかった。
掠めた頬から血が一筋流れ伝う。
『お前たちを作ったのは僕だ。作品を扱うのも、失敗作を処分するのも、当然の僕の権利だろう?』
『あぁ、そうかもな』
『おや、意外と理解があるじゃないか』
『まぁだからこそ――トチ狂った祖先を正しく罰するのも、俺たち末裔の義務だろうな』
『思い上がるなよ半端者め!ここまで来られたことは賞賛に値するが墓穴を掘ったね。この精神世界はぼくの絶対的テリトリー。片やきみは吹けば飛ぶような存在だ。現実世界で勝てないからと焦って蟻地獄に飛び込んだ蟻粒だァー』
よく喋るな。
確かに埋め難い力の差は感じる。
だが、追い詰められているのは向こうも同じなのだろう。
一応奥の手はあるが……あれをやっちゃうと理性が飛ぶからな、精神世界ではリスクがでかすぎる。
『――』
その時俺は、声を聞いた。
ほんの僅かだが、助けを求めるような声だった。
アインのコアを見る。灯る僅かな光が、かすかに点滅しているように見える。
『どうした、こないのならこちらから行くぞ半人半神。そうら――』
そして無数の根が宙に浮かび上がった。
一瞬でいい。あのコアを取り巻く根を解放できれば、彼女は出てこられるのかもしれない。
未来視が発動し、一本一本が俺を細切れにするのに十分な威力で、コンマ1秒の間に1000もの鞭が俺の四方から殺到する。もう間も無く。
極大魔法を唱える時間はないが、ミンチになる前に対策する。
並列思考が超級風魔法を発動し、圧縮空気を含む風刃を1000用意させた。
俺は界絶を張り、槍を構える。
ズドドドドドド!!!!
洪水のような勢いで殺到する根の鞭を、破裂の勢いで斬撃をもたらす風の罠が相殺していく。が、大半は勢いを殺しきれずに俺まで到達してくる。金剛で受けてたんじゃコアまで至るのは不可能だ。界絶は最初の100程で砕け散った。死ぬのも悪手だというよりナーシャの時に精神世界での死は全回蘇生が発動する類のものではないただの脳損傷でしかないことが分かっている右手に槍を左手に炎を纏って、いなすいなすいなすいなすいなすいなすいなす――。
ドドドドドドドドドド!!!
手数が多すぎる。気がつけば左手が吹き飛んでいる。痛覚はβエンドルフィンで遮断できるので継戦に支障はないがそんなことはどうでもいい。このままじゃジリ貧だ。
並列思考、0.01秒だけ保たせろ!
(うそやんそんな無理)
無理と言いつつヤケクソのようにあらゆる超級魔法が乱発され、ほんの僅かに隙ができた。
俺はすかさず特大の天★照を練り上げて、背を低くして俺の頭上で炸裂させた。
ヂカッ!!
ドォォォーーーン!!
『うわ、追い込まれて自爆しやがった』
――その憎たらしい声が聞こえてくるということは自爆じゃないんだな。残念、金剛だ。
俺に殺到していたことで、根は先端だけだがその全てが爆散し胆汁みたいな汚い緑の血を噴射させる。それと黒の爆煙に紛れ、俺は頭を低くして右手に槍をきつく握り疾走し――
――コアへと到達した。
『しまっ』
銀極閃でコアにまとわりついた根を両断した。
『ぎゃぁぁぁぁぁ!!!』
断末魔の叫びが上がった。
本当に痛いのだろう。一億年かけて伸ばした神経をぶち切られたようなものだから。
その隙に念法力で根の断端を吹き飛ばし、俺は水晶体をかかえてその場を離脱した。
ーーーーーーーーーー
深海の世界から這い上がり牢獄を抜けて、俺は全力疾走で表層世界まで帰ってきた。
持ってきて良かったのか分からないが、あそこに置いておくよりはマシだろう。
俺はコアを手放した。すると、浮遊するコアは形を変え、次第に人の姿へと形成されていった。
『アイン、か』
現れた秀美麗しい少女は、人間だった頃のアインだった。
「――どなたかは存じませんが、助け出して下さったのですね。本当にありがとうございます」
そう言ってアインは深々と頭を下げた。
時間もないので、覚醒早々で申し訳ないが、俺は思念伝来の力で凡その事情と経緯を送りつけた。
『ということで、俺はあんたが一億年封じ込まれた間に再生した新人類で、今は八百万神と名乗る和神の後継者だ』
彼女は封じられている間も外界の情報は入ってきていたみたいで、殺戮者となった事実への動揺はなかった。
記憶の中の活発な彼女と違い、永き封印を経て、彼女の瞳は僧侶のように静かだった。
「そうでしたか、和神が……。なんと言えばいいのか、礼の言葉は到底尽くせませんが……ありがとうございます、太一様。……あの憎き生命神は倒す事はできませんが、封じる方法は一つだけあります」
『どうやるんだ?』
「現実世界に戻り、神無矛で私の身体を貫いてください。それでイグニスを封じることができます」
『……簡単にはいかないし、そうすればあんたは……』
「構いません。私の魂は殆ど吸収されてしまった。この私は長くは保たない燃え滓です。それに、私が犯してしまった大罪を償わなければなりません」
『悪いのは――』
言いかけて、静かに俺を見つめる彼女と目が合った。俺は、彼女の気持ちを尊重することにした。
『――あなたは、優しいのですね。私は必ず、コアを守ってみせます。表層までコアを連れ出したのは正解です。これで奴は深海に居られない。現実世界の【主】は大幅に弱体化している筈です』
そして、アインは矛を取り出し、手渡してきた。
赤と黒の矛。
「あれに意識を奪われてもなお、これの所有権だけが唯一私に残りました。身勝手なのは承知の上で、どうか、お願い致します」
アインはまた、深々と頭を下げた。
なんだか、いたたまれない気持ちになった。
俺は、矛を受け取った。
銀極穂と違い、それはずしりと重く感じた。
『分かった、恩に切る』
「太一様。優しい未来の後継者様。これでもうお会いする事はないかもしれません。貴方に至上の感謝と――どうか、ご武運を」
そしてアインは小さく一礼した後、背に白い翼を生やし、血の鞭剣を手に、遠い空の向こうから迫り来る暗闇へと自ら飛び込んで行った。
――彼女の期待に応えよう。
闇に飲まれて脱出できなくなる前に、俺はアインの精神世界を発った。




