第124話 雪の心
報を受けてすぐに、私はテレポートで彼女の療養地へと飛んだ。
彼女が自らの最期に選んだ場所は、最新鋭の医療機器が揃う旧ブラジルにある本部基地ではなく、彼女のラボがあるネオ・ノヴォシビルスクでもなかった。
――生まれ故郷。険しい山間にある小さな農村跡地。彼女はそこに風通しの良い小さなログハウスを建ててもらい、紫電Mark.Ⅱと名付けられた護衛兼介助ロボットと共に、ひっそりと余生を過ごしてきた。
牧草を食べる山羊たちの間を抜けて、私は彼女の家の前へと歩を進めた。
そこに見覚えのある男性が立っていた。
「アナスタシアさん。よく来てくださいました」
シェル君だった。長きに渡り雪の研究の助手を務めたが、彼女の現役引退と共に数年前にラボを辞め、今は別のラボに所属している。
それでも、この様子を見るに、変わらずに彼女への献身を続けてきたのだろう。
本当に、一途な人だ。
顔にはひどく、疲れの色が見えた。
「シェル君。知らせてくれてありがとう。雪の容態は?」
「――残念ながら、もう長くはないでしょう。彼女は最期の時には、あなたと対話をしたいと言っていました。他の方々には外していただきました。彼女の望みをかなえてあげてください」
「そう――私との――。分かった。ありがとう。あなたも休んで、ね」
「――はい。痛み入ります」
私は家の中に足を踏み入れた。
1LDKのセンスの良いログハウスの中は、とても綺麗に整えられている。
同様に席を外しているアレクのとっておきが、常日頃から甲斐甲斐しく働いている証拠だろう。
唯一の部屋のドアをノックするが、返事はない。
ドアを開けて中に入ると、頬に風を感じた。
パタパタと、開かれた大きな窓に備え付けられたレースカーテンが小さく揺れている。
彼女はその傍のベッドの上で少し背もたれを起こしたまま、静かに身体を休めていた。
彼女を見る度に不思議な気持ちになる。
私やアレクのようなギフテッドでさえ、外見に現れる月日の移ろいは隠せないのだが。
――彼女の姿は、20年前の、まるで17歳の少女のままだった。
「雪」
私は声をかけた。
その青白く冷たい肌に触れて、私は彼女用に調整した治癒魔術を施す。
「雪、来たよ」
幾許かして、雪は薄く目を開けた。
そして光を映さない双眼をわずかに私のほうに向けて、彼女は口を開いた。
「あ――ナーシャ。……私、もうすぐだね」
「……うん。……怖い?」
「……いえ。死は、ずっと身近なところに居たから。むしろ……長かったくらい。エルには感謝してる」
「そう。……やり残したこととか、ある?」
「やり残したこと……か。ワープ装置は完成しなかったけど……いいんだ。例え片道通行だとしても、この星のためには完成してはいけないものだった」
その言葉に、私は驚いた。
ならば20年あまり、彼女が目指していた場所はどこだったのか。
「信じないかもしれないけど、あの日の兄さんからのメッセージ……聞く?」
「……私が聞いていいのなら、教えてほしいな」
「うん、ナーシャに、聞いてほしい。…………言うね。ごほん。『どれくらい永くかかるか見当もつかないが、雪は俺が必ず救ってやるからな』……だって」
「……それだけ?」
「うん、それだけ。これ、誰にも言ってなかったんだ」
私は先程以上に驚いた。
目の前の雪を見る。もう間もなく、確実に、その命は尽きるというのに。
彼女は、自分が死ぬことを分かっていながら、太一が救いに来てくれると信じている。
それはつまり……。
雪は話を続ける。
「いいんだ。もし兄さんがうっかりして間に合わなかっただけだとしても。そうなったらあの世で笑ってやるだけ。だから私は、兄さんが少しでも私を見つけやすいように……なにか目立つものを造りたかった。……ただそれだけなんだ」
私は繋ぐ言葉が見つからなかった。
かたや雪は、とても清々しい顔をしていた。
「ナーシャ、貴女がいてくれて良かった。今はただ感謝だけ。恨んでなんか、欠片もないからね」
「雪……」
「ふふ、顔に書いてあるよ。――見えないけど、ね」
雪はぽすっと、起こしていた身体をベッドに預けた。とても軽い音だった。
「雪、ありがとう」
「……うん」
あぁもっと早く、この話をしておけばよかった。
そうすれば――。
……いや、よそう。
今この瞬間起きていることこそが、私たちが走ってきた道そのものなんだ。
「シェルに、向き合うことができなくてごめんって、伝えておいてくれるかな。私も好きだったよって……手紙、机の上にあるから」
「……うん。渡しておくね。……シェル君、喜ぶよ」
雪の頬を涙が伝ったのをみて、私はそれ以上のことを言えなかった。
「……ありがとう――」
雪の声は一段とか細くなった。
もう、間も無くだ。
「私の研究……まとめた……ファイル。手紙の横……読んでみて」
「うん」
「これでもう……なにもないや。……………兄さん」
「雪」
もう、応える声は聞こえてこなかった。
レースカーテンが、一度だけふわりと小さく揺れた。
「……雪ちゃん。本当に頑張ったね。どうか、ゆっくり休んでね――」
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「『記述論文:敵性生命体にまつわる記憶解析によるコア・オリジナルおよび真実への考察』」
「著者……渡瀬雪」
盛大に執り行われた雪の葬儀が終わった後、私の心は大きな穴がぽっかりと空いてしまったように空虚だった。
雪の存在は私にとって思っていた以上に大きなものだったらしい。
――そのため、彼女の著書について思い出すまでに、ずいぶんと時間がかかってしまった。
岬の祠の掃除で冷えた両手を白い息で暖めながら神殿内に入り、暖炉の前の椅子に腰掛けた。
たらふく燃料を与えてある火の人工精霊が私の方をチラリと見ると、パチパチと身体を膨らませて部屋を暖めてくれる。
雪が残したファイル――魔導コートされた厚手の羊皮紙調の本を開くと中は箱型となっていて、銀の延べ棒のような魔導回路が一本だけ封じられていた。刻印された文字を見るに、簡易術式が組み込まれているようだ。
「思念記憶タイプの最新式だ。すごい」
私は記憶媒体に触れた。途端に流れ込んでくる膨大な情報。これは短かった雪の半生そのものだ。脳へ負担をかけないように自然な形で私の記憶へと変換されていく。
そして、まるで雪と同一化したような不思議な感覚の中、私の口は主文を語り始めた。
「――悠久に近い年月を生きる今世最強の魔人アイン・ツァラトゥストラだが、それでも出生時はただの強化人間だった。彼女が生命の輪廻から完全に外れた瞬間は疑うまでもなく、神域にて【生命神】を打ち倒した時だ。同時に、彼女が自身の強化以外を目的にあらゆる星々を滅ぼし始めた転換点でもあると考えられる。それはイグニスへの復讐を目的とした彼女の行動原理として、やや不可解である。私――渡瀬雪が第三者的視点から彼女の行動・感情を分析した結果から……これは突拍子もない話かもしれないが…………彼女は――イグニスを打ち倒し、彼女の特性により力を吸収した際に、その精神を乗っ取られてしまったのではないかと、推測した」
その内容は驚愕に値するものだった。
それでは――それでは、太一が戦い続けている相手は――。
口述は続いた。
「そもそも、今の【主】は強大に過ぎる。彼女がイグニスを倒した時、彼女はもっと弱かっただろう。それに人の身で自力で神域までたどり着くのは、どう考えても不可能だ。だから、今から話すことは完全に私の推測の域を過ぎないが――」
「アインは、月でアドルフを失い彼の力を得た後、擬人達の基地深部を襲撃し、それらを食いつくした。そして、ワープ装置を埋め込まれた特別な飛行船に乗った。行先は、神域に設定されていた。――つまりルシファーですら騙された捏造された記憶の裏で、彼女は独り、生命神に踊らされるまま、神域へと辿り着いた」
……。
「神は、自分の手で直接生命に干渉することが出来ない。だが唯一、神域でのみ、神は己を具現化することが出来るのだろう。確かにアインとイグニスは戦い、アインが勝った。――だが私には、その結果があらかじめ意図された過程に過ぎなかったのではないかと思えてならない。意図したのはイグニスであり、狂った神の目的は一貫して、知的生命体の抹消であった」
「宇宙の数ある知的生命体の中で人間は最もひ弱で魔力も弱かったが、最も神々との適合性が高かった。だからイグニスは、自らが受肉する対象として、最も憎んだ生命体――人間である彼女を選んだ」
…………。
………………。
「私達現代の人類が地球外知的生命体を認知できなかったのも無理はない。恐らくもう、この宇宙に知的生命体は残っていない。その全てを創造主たる【主】が滅ぼしたからだ。そして最後に地球を滅ぼそうとした。それで知的生命体は絶滅するはずだった。そうなっていないのは、神域にワープする直前までアインを守護していた八百万神が今回の一連の広大な計画を立て、それが奇跡的にも成功したからだ。つまり、兄……渡瀬太一が覚醒し、【主】に対抗できるだけの力を得た」
「――だが一つだけ不可解なことがある。なぜ、旧人類は絶滅したのか、ということだ。月の擬人を全滅させるほどの力をつけたアインは、――記憶の中から消去された可能性があるが――彼女の優しい性格を鑑みるに、まず神域へと至る前に地球を救う行動を取った可能性が高いのではないか。更に、擬人は人間を害したが、その文明自体は破壊していなかった。何億年も前とはいえ、旧人類の遺産が全く現世に残されていないのはおかしい。つまり――」
「――つまり、彼女が神域へと旅立った後、平和になったはずの地球で、地表まるごと消滅させるような、圧倒的な破壊が行われた可能性がある」
…………ッッ
思わず……記憶媒体から手を離していたのか、私は。
平和になったはずの地球――。
その表現にはなぜか、ひどく底冷えするような恐ろしさを感じた。
だがこれが、雪のただの妄想と切って捨てることはできなかった。
恐ろしい程、真実性を伴っているように思えたからだ。
私は恐る恐る、再び記憶媒体へと手を触れた。
そして私の口は、震えるように声を発した。
――雪も、ずっと同じ思いだったのかもしれない。
「八百万神は私達になにも語っていないが、そもそもかつて人類が造り出した人造神たちはどこへ行ったのか。その理由がもし、地球が一度滅ぼされたことにあるのだとしたら。……その答えは、コア・オリジナルにあるのではないだろうか。魔力に長けた旧人類でさえ存在に気づいていなかったそれは、明らかに外部から持ち込まれたものだ。だとすればそのタイミングは、第一次侵略戦争において他ならない。つまり、私達が【主】を撃退するために利用したあれは――今も人類の文明を発展させ続けているアレが――よりによって、イグニスが地球へ持ち込んだものである可能性があるということだ」
「私の消滅の力であれば、コアを破壊することが出来たかもしれない。だがその時に果たして何が起こるのか……。怖ろしくて、私はついにそれを実行できないまま、力を行使するだけの生命力を失ってしまった。この論文は未公表である。内容の正誤性はおろか、可及的速やかに対応すべき案件かもわからない。現人類の文明がコア・オリジナルによって繁栄していることも確かだ。私は、なぜか私だけが得られた情報と考察を、何も処理できないまま最も信頼できる人に託す。申し訳なく、無念だが、人類の繁栄と安寧を祈り、結語とする。
――――渡瀬雪」
声は、そこで終わった。
正確にはその後にも細かい考察は続いていたが、十分だった。
すぐにこの論文を見なかったことは後悔してもしきれないが……なぜ雪は生前に相談してくれなかったのだろう。
深夜であるにも関わらず、私はすぐにアレクへと連絡をとろうとした。
そこで、ふと壁に備え付けた魔導通話機へと伸ばした手を止めた。
――雪は私だけが……と言ったが、本当にそうだろうか。
もう一人だけ、この情報にアクセスできた可能性のある人間に心当たりがあった。
――長きに渡る裁判の結果、死刑を言い渡された大罪人。
私にとって、最も因縁のある人間。
執行まで、もう間もなくであったはずだ。
私は、エウゴアに会いに行くことにした。




