男の人を殴ってしまいました
わたしの眼前にコーヒーとトーストが届いた。顔をあげるとフランツが目を細めていた。
「ありがとう」
わたしはお礼を言うとそれを受け取り、口をつける。
「少しは元気になられましたか?」
「わたしが?」
「ずっと悩まれているようだったので」
わたしは首を縦に振る。実際はわたしよりもフランツのほうが関係ある話題だ。
彼にいっても問題はないだろう。
「昨日、ダミアンとペトラが別れ話をしていたのよ」
「だから、ペトラさんの様子がおかしかったんですね」
フランツはそう勝手に納得していた。
今までフランツと恋愛の話をすることはなかったが、あの動揺を別れ話が原因だと本当に思っているんだろうか。彼はこう人の好意に対して妙に鈍感な気がした。わたしでさえ、前に会ったときからペトラの様子がおかしいのに気付いていたのにも関わらず。
「フランツって今まで誰かに告白されたことあるの?」
「ありません」
彼は考えた様子もなく即答した。
気づいていないのか、臆して誰も告白できないのかどちらかだろうか。それともこの家に出入りしている影響があるのだろうか。フランツ自身、女の子にもてたいと思っている様子も皆無だけれど。
わたしも人のことは言えないが、そうした経験のなさが今に至っているのかもしれない。
ダミアンはペトラの好きな相手がフランツと知れば、やはり怒るのだろうか。
わたしは答えのない問いかけを胸の内に潜ませ、朝食を食べ終わると、準備を整え家を出た。
昨日は延々と雨が降り続いていたが、今朝になるとぱったりと雨が止んだ。
浮かない心のまま、あと少しで学校にたどり着くというとき、曲がり角を曲がると、ダミアンと顔を合わせた。
ダミアンは顔を引きつらせ、顔をそらした。
わたしも顔には出さないが同じ心境だ。
頭を下げ、無言で先に学校に行こうとしたわたしを彼が呼び止めたのだ。
「ちょっといいかな? 昨日のことで」
わたしは拒否する言葉も思い浮かばず、首を縦に振った。
彼は通学路からそれた小道にわたしを連れていくと、短く息を吐いた。
「昨日は変な場面を見せて悪かったな」
「いいえ、気になさらないでください」
ここ最近はダミアンの変な場面を見てばかりだと愚痴りたくなる。
「ペトラがわがままを言って、ついさ。本当にあいつには困ったものだよ。何か、あいつが妙なことを言ってなかったか?」
わたしがあのあとペトラに何か聞いていないかを確認したかったのだろう。この期に及んでもダミアンはペトラと付き合っていたということを知られるのを避けたいと思っているのだろうか。
彼がペトラ一筋であれば、きっと彼を庇う言葉も出てきただろう。だが、その身勝手な言葉がわたしの心を冷やしていった。ペトラもペトラだとは思う。だが、ダミアンもダミアンだ。
「何も言ってなかったわ」
わたしはにこやかに微笑んだ。
「そっか。よかった」
わたしはその言葉とともに同時に彼の頬をはたいていた。
そんなに強くぶったつもりはなかったが、ダミアンが足元をふらつかせ、その場に倒れ込んだ。
彼の鞄がその手から滑り落ちた。
彼はわたしにそんなことをされると思っていなかったのか、唖然とした様子でこちらを見ていた。
「何するんだよ」
「いえ、つい」
わたしは生まれてこのかた、人を殴ったことはない。暴力はいけないと教えられてきたからだ。
だが、今だけは違う。心から人を殴りたいと思ったのは初めてだ。
「あなたはもっと人の気持ちを考えたほうが良い」
「どういう意味だよ」
「そのままの意味よ。あなたは他人に対して失礼すぎる」
「何だよ。それ。お嬢様だからっていい気になるなよ。お前なんて、俺よりも弱いくせに」
「そうね。単純な腕力では勝てないわ。でも、わたしがあなたに優っているものなんてたくさんあるわ。成績だってあなたに一度だって負けたことないでしょう」
わたしは勝ち誇った笑みで彼にそう告げた。
彼はかっとなり、わたしとの距離を強引に詰め寄ってきて、わたしの胸ぐらをつかもうとした。
とっさ的に、自分を守ろうとしたのだろうか。反射的に呪文を使うと、彼の足を凍らせていた。
ダミアンは顔を引きつらせて、わたしを見ていた。
「あなたもペトラの幼馴染なら、彼女の願いを聞き遂げてあげなさい」
「他人のことの首を突っ込むなよ。余計なお節介なんだよ」
「分かっているわよ。でも、昨日のような場面を見ると放っておけない」
「あいつがそもそもおかしいんだよ」
「あなただって」
他のドロテーとも付き合っているくせに。そう言い放とうとしたわたしの言葉は別の声に吸い込まれた。
「クラウディア様、これは一体」
通りすがりの女性がわたしとダミアンを驚いた様子で交互に見ていた。
わたしはそこで我に返る。特別な理由がない限り、魔法で人を傷つけてはいけない。それは学校内であろうと、外であろうと同じだ。ダミアンから自分を守ろうとしたという理由はあるものの、今の状況ではどう考えてもわたしが一方的にダミアンを攻撃しているという印象を与えかねない。
わたしは慌てて魔法を解き、この場をどう逃れようか必死に考えていた。
女性は困惑の色を崩さない。
ダミアンがにっこりと笑うのが分かった。
「なんでもありませんよ。クラウディアと遊んでいただけです。俺は彼女の友人で」
「そうだったんですね。驚きました」
それでも無理のある言い訳のように聞こえるが、実際にわたしに魔法をかけられていたダミアンがそう弁解したことで、女性はそれ以上疑う余地がないと考えたのだろう。彼女はわたしたちにあいさつをすると、その場から離れ、家の中に入っていった。
ダミアンはわたしを庇ってくれたんだろうか。事情が事情とはいえ、彼に暴言を吐いたわたしを。
そう思った心が振り返ったダミアンを見て一掃される。
「お前が俺より強いのは認めてやるよ。これで俺に貸しができたわけだ」
ダミアンはわたしを見ると、にやりという言葉が似合いそうな、厭らしい笑みを浮かべた。
庇ってもらった手前、わたしから強くは出られない。
ブラント家の唯一の跡取りが、一般市民に魔法で攻撃したなど、あってはならないのだ。
「貸しって、何をしたらいいの?」
「そうだな」
時計を見たダミアンの口元が怪しく微笑んだ。
「まあ、明日を楽しみにしておいてください。クラウディア様」
発声練習のように一言ずつをゆっくりと発したダミアンを見て、嫌な予感を全身で感じていた。




