第72.1話
72話→
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魔力の少ない者を王太子妃に据える。
宮中会議での王太子クラウスの提言は、精霊信仰のイドニア王国においては前例のないことであったが、魔力による差別が社会問題となっている昨今、魔力の少ない民衆へ理解を示し、不満や反感をやわらげる政策の一環として、時勢に従う形で受け入れられたのである。
「だからといって、なにもこんなに急がなくても」
王宮にある、王太子の執務室。
そばで控えるウィルフリードの呆れまじりの声を、クラウスは机上の書類に目を落としながら聞き流していた。
王太子の婚姻の儀、それそのものは、大司教の看視のもと、王太子とその妃となる者が結婚証明書に「誓約」の魔術を用いて署名するだけの簡素なものである。
王国内外の要人を招待しての祝賀式典など、同時に催される予定であったさまざまな祭典を先送りにして、婚姻の儀のみが執り行われるのが、明日。
「クラウス殿下、最近まともに寝てないでしょう。宰相閣下も心配されていましたよ」
「仮眠はとっている。問題ない」
わずか数日だった。
クラウスの、アロイジウス叛逆に係る処理は迅速で、本来ならば文官の請け負う仕事の大半までをも王太子みずからが引き受け、たちまちのうちに収拾をつけてしまったのだ。
驚嘆が優った臣下たちのなかに、婚姻の儀のみを前倒ししたことに言及する者はいなかった。
みな不思議には思いつつも、なんとなく「まぁそんなもんか」と納得していた。勢いは大事だった。
「いくら早く結婚したいからといって……。用意周到なのは結構ですが、順番が違います。婚礼について、当の本人はまだなにも知らないままなのでしょう?」
「侯爵家の了承は得てある」
「私は『本人は』と言ったのですよ。いやぁ、殿下ともあろうお方が聞き落とすとは、やはり、かなりお疲れなのでは」
言外に「話を逸らすな」と皮肉ってみても、クラウスは表情を変えない。返事もしない。
「はぁー……」と、これみよがしについたため息も、確かに聞こえているはずなのに、素知らぬ顔で書類にペンを走らせるクラウスを見ているうちに、ウィルフリードはだんだん腹が立ってきた。
「せっせと外堀を埋め、誰にもバレずにコソコソと、よくもまぁ、ここまで準備したものです。感心しますよ。彼女もああ見えて生真面目な性格ですから、これだけ念入りに整えられた舞台を前にして『否』とは言えないでしょう。……そこに本人の気持ちがあれば、よいのですが」
「……どういう意味だ」
書類から顔を上げたクラウスが、ウィルフリードに目を向ける。
何も知らない者であれば震え上がってしまっても無理はない、射抜くような鋭い視線。だが本人は無意識だ。もともとこういう顔なのである。それを知っているウィルフリードは「やっと人の話を聞く気になりましたか」とにっこり笑う。
「だって殿下、これまで一度でも、彼女に自分の気持ちを伝えたことがありますか?」
「……」
「ろくに婚約者らしいこともせず、学院に入ってからなどは、まともに顔を合わせる時間すらなかったでしょう」
「それは……」
「『事情があった』、その通りです。けれど彼女はなにも知らないわけですよね。元より形ばかりの婚約で、それ相応のふるまいをする婚約者。普通だったら、とっくに心が離れてしまっていても、おかしくはないんですよ」
「……」
ウィルフリードは「やれやれ」とかぶりを振った。
(まったく、都合が悪いとすぐ黙る。彼女が絡むと途端に臆病になるんだから……この情けない姿を、宰相閣下や宮中伯のみなさんにも教えてやりたいくらいですよ)
人の目がないところでは、彼らは「王太子とその側近」から、ただの「幼なじみ」に戻る。
近衛騎士は廊下で待機しており、執務室にはクラウスとウィルフリードだけ。この状況でウィルフリードに遠慮などない。
「あけすけで単純、彼女の好意はわかりやすいですからね。だからといって、殿下はそれに甘えすぎです。『彼女は自分のことが大好きだから、どれだけ放っておいても変わらず好きでいてくれるはず』、ですか? 合理的な殿下らしからぬ、ずいぶんと都合のよいお考えだ」
こんこんと話しながら、ちらりとクラウスの様子をうかがうと、彼にしては珍しく、なにも言い返せないまま苦虫を噛み潰したような顔で唸っている。
それでようやくウィルフリードの溜飲も下がる。なんなら楽しくなってきた。
「加えて世間ではアリス嬢を妃に迎えることが既定路線のように取り沙汰されていて、殿下もそれを否定なさらない。私も恋愛に詳しいほうではありませんが、心とはうつろうものです。男女の仲であれば、とくに。お互い想い合っているのに言葉が足りず、気付けば心が離れていた、なんて話もよく耳にします。誠心誠意弁明して、たとえ納得してもらえたとしても……こればかりは、理屈ではないですからねぇ。一度壊れた関係の修復は、難しいみたいですよ」
ウィルフリードは追撃の手を緩めない。
いついかなる状況にも動じない、「氷の王子」とまで呼ばれるクラウスをからかう機会など、滅多にあるものではないのだ。ウィルフリードはチャンスを逃す男ではなかった。
ちょっと笑いそうになっているのを悟られないよう重々しさを気取りつつ、ウィルフリードはクラウスに背を向け続ける。
「聞くところによると、女性は男性に比べて過去の恋愛を引きずらないらしいですね。『クラウス様クラウス様』と騒いでいる彼女も、なにかの拍子で気持ちが冷めたら、案外あっさりと切り替えるかもしれません」
こんなことを言いつつも、たやすく心を変える女ではないと、ウィルフリードはわかっている。
幼い頃から、ふたりを近くで見てきたのだ。彼女の想いの深さは知っている――そう、身にしみて。
「もしかしたら、もうすでに――」
ガタン、と大きな音がした。
驚いて振り向くと、クラウスが机に両手をついて立ち上がっている。
ウィルフリードが「しまった、言いすぎたか」と思っているうちに、彼は机の上に散らばる書類を素早くまとめて手に持つと、こちらへスタスタと歩いてきた。
「行ってくる」
「ちょ、ちょっと、殿下?」
行き先が、今頃は勉学に励んでいるであろう彼女がいる魔術学院であることは想像に難くない。
そのまま横をすり抜け、扉へと足早に向かうクラウスを、ウィルフリードはあわてて追いかける。
「行くって――午後の公務は、」
「どうするんですか」と言いかけて、気が付いた。
この男、なんだかんだと理由をつけて、今日の分の公務はすべて前倒しに済ませてある。王太子の午後の予定はまっさらだ。
(なんだ、私が焚きつけなくても、はじめから会いに行くつもりだったんですね。……それにしても、急すぎるでしょうが!)
「自分の心情だ。こうなることも想定できた」
「……会いたくて仕方がなくなるだろうから予定を空けておいたと、素直にそう言ったらどうですか」
「そうだな」
ふっと小さく笑い、クラウスがウィルフリードへ向き直る。
「すまないな、ウィル」
「申し訳なく思うのなら、今後は……」
「たとえウィルでも、これだけは譲れなかった」
クラウスは静かにまっすぐ、ウィルフリードを見ていた。
引き込まれるような藍色の瞳に、脳裏にひらめいた紅色までをも見透かされているようで、ウィルフリードは思わず息をのんだ。
「――なんのことやら」
タイプは違えどクラウス同様、感情を隠すのは得意なほうである。
にっこりと微笑むウィルフリードにそれ以上なにも言うことなく、クラウスは扉を開けて外へ出ていく。
近衛兵に書類を渡し、共に去っていくクラウスの背中を、ウィルフリードは万感の思いで見送った。
嘘が上手い彼だったが、親友の幸せを願う気持ちに嘘はない。
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