第55話 クラウス・グランツ・フォンシュルツェブルクについて③
「どうした、行くぞ」
魔術学院の中庭、こちらに向かって歩いて来るクラウス王太子殿下が、後ろを振り向いて言った。
振り向いた先に立っているのは、ゆるく波立つ紅色の髪に紅色の瞳の女生徒―――アルヴァハイム侯爵令嬢、王太子殿下の婚約者でもあるエリザベータ嬢だ。
こちらに背を向けた状態なので殿下の視線は確認できないが、どうやらそれはエリザベータ嬢の手に握られた手巾にある様だった。
「……何だ、それは。いつの間に出した?」
「あ、この手巾はですね、悔しい思いをした時にこう、噛み締めようと……」
「必要ない、しまえ」
「ハイ」
何に使おうとして出したのかはよく分からないが手巾を速やかに上着の内隠しにしまい、いそいそと殿下に付いて歩き出すエリザベータ嬢を確認して、俺も二人の後に続いた。
王太子殿下の護衛を拝命して5年。
この二人の関係性は未だによく分からない。
アルヴァハイム侯爵令嬢の務める"王太子殿下の婚約者"という役目は、正式な王太子妃が決まるまでの繋ぎの意味を持つと聞いている。
しかし、エリザベータ嬢は本当に殿下に想いを寄せているのだろう。
鬼と畏れられるあの後宮女官長が太鼓判を押したという能力は確かなもので、公の場では16、7の少女である事が信じられない程に堂々とした振る舞いをするのに、こうして公の場を離れ恋する乙女の表情を覗かせる年相応の姿を見ると、多少の同情心を抱かない事もない。
殿下はそんな彼女をどう思っているのだろうか。
態度は一歩引いたものだが分かりやすく好意を表すエリザベータ嬢に対して、憐憫の情などを抱いたりはしないのだろうか。
感情を表さない殿下の表情からは、それを読み取る事は一切できない。
クラウス・グランツ・フォンシュルツェブルク―――代々このイドニア王国を治めるフォンシュルツェブルク家の血を引く者は特別な魔力を持つという。
藍色の瞳が怒りの感情によって白色を帯びる『精霊の怒り』と呼ばれる現象はそれが如実に表れたもので、普通はどんなに魔力が強い者でも魔力や感情のゆらぎが外見に影響を及ぼす事など無い。
『精霊の怒り』は信仰の対象である反面、他者に怒りを悟られる事は王国を束ねる王室の人間にとっては時に足枷となる。
そもそも貴族の人間であれば無闇矢鱈に感情を表に出す事は望ましくないのだが、王室の人間はそれを更に厳しく教育されると聞く。
人間である以上、感情はある。
しかし俺は、殿下が『精霊の怒り』を現す姿を見た事が無い。陛下のは何回か見た事あるのだが。
怒りだけではなく、俺の考える"感情"といったものを持ち合わせているのか疑問に感じるほどに、殿下は感情を表さない。
ただ粛々と臣下を束ね、謀反が発覚した時すら表情ひとつ変えず厳しい処罰を下すその様には、人形の様に整いすぎた姿も相まって、恐怖すら覚える事もある。
だが、現在この王国が安定しているのは間違いなくこの方の力あってのものなのだろう。
王太子の公務に加え、外交から内政まで、本来ならば国王陛下が行うべき範囲までをもクラウス王太子殿下が統制している事は王宮内の人間であれば誰もが知っている。
これは殿下が陛下の領分を侵している訳ではなく、陛下の手に余ったものを殿下が補佐している内に今の形になったらしい。
事実、殿下の手腕は凄まじく、今となっては、8年前の大火の後、表向きは宰相の名を借りて復興や都市計画を指揮したのが当時まだ幼かったクラウス王太子殿下である事を疑う者はいない。
―――だからこそ、恐ろしい。
魔術学院の生徒会執務室の扉の前。
エリザベータ嬢も生徒会の手伝いをする事になったのだろうか、殿下と共にヴァールブルク侯爵令息達のいる執務室へと入って行った。
もう一人の護衛は中へ、俺はここで待機する。
姿は見えないが殿下の"影"も、おそらく執務室の中だ。
廊下には誰もいない。
学院の壁は厚く、中の声は聞こえない。
こちらの声もまた、中には聞こえない。
すっと辺りの温度が下がった気がした。
気付くとすぐ間近に男が立っている。
ほんの僅か五歩程度の距離だ。いつの間に……。
長い銀髪を後ろで束ねた、菫色の瞳の男。
優男といった風貌だが、そのくせ隙が無い。
王宮の"影"は、皆こんな風に得体の知れないものなのだろうか。
「約束のものを」
俺にしか聞こえない様な声で男が囁いた。
懐から出した紙を、男に渡す。
じき執り行われる精霊祭。
殿下の日程はごく限られた者にしか知らされないが、その全てが、そこに記されている。
〈魔術〉で王室と「誓約」を結んでいるはずの"影"に、何故こんな事ができるのか。この行動で、王国はどうなってしまうのか―――それよりも、俺は。
「妹は無事なんだろうな?」
俺の言葉に、男は何か言おうとしたが、途端に苦しそうに顔を歪めた。
「―――それは、これからのお前の行動次第だ」
やがて口を開いた男はそれだけ言って、掻き消える様にこの場を去った。




