誰しもみな凄腕の無免許医師に憧れた日々があったと思う
一瞬グロい……?
いや一応「残酷な描写あり」だから……。
転移したのはほんの2メートルほどだったようで、すぐ近くに黒い獣がまだいた。ただ、こちらを転移で見失ったらしく、あたりをきょろきょろ見回している。しかし、ぐるりと回ってきたその視線が、こちらを捉えた、ような気がする。……黒い、四本足の大きな獣。狼のような、犬のような。ただそのシルエットは揺らいでおり、全身が黒い炎で出来ているようにも見えた。よく見ると、目はない。
……そういやいたっけ……最近窓を叩きにも来ないから、正直完全に忘れてしまってた。 驅魔客……御使いを殺す獣。
「―― 黄金鍵!」
トアが放った光弾がその獣に直撃、したように見えた。にもかかわらず、魔法は獣をすり抜け、その向こうの壁を貫く。同時に斬りかかった僕の剣も、確かに当たったはずなのに、手ごたえなく空振りした。
僕はあらためて、大剣を構えてその獣と向かい合う。……ただ……こうやって前に立っていると、なんだかぞわぞわと背中を寒気が伝い、プルプルと剣を持つ手が震えた。教皇より強いという訳じゃないだろうけど、僕との相性というか……まるで猫の前に出たネズミみたいな気分。そして次第に周りの風景から色が消える。目の前の黒い獣の色に、世界の全てが染まっていくようだった。
その時、もう一度ぐいっと手を引かれ、僕はトアの近くに膝をついて倒れ込んだ。
「もう、開けましたね……よりによって、ここで。誰から呼ばれても開けるなと、そう言ったのに。ただ今更言っても仕方ありません。それに、私も気づけたはずでした」
「ごめんなさい……。……気づけた……?」
「ここは、聖の魔力を増大させる仕組みが整えられていますから。この獣はおそらく、聖なる魔力に引かれて来るんです」
グルルルル、という唸り声を上げて、獣は僕らの周りを、半径2メートルほどの距離を置いてぐるぐると回り始めた。ただ、襲い掛かっては来ない。……なんでだろう?
「この杖を中心に、結界を展開しました。この子は 暴風茶座といって、外から完全に隔離する小さな結界を展開できるんですが……」
トアは困ったようにその続きを言い淀む。……「ですが」?
「展開中は移動できません。それにしても、 自家飛が妨害されるなんて……」
……妨害されたんだ。飛べるの短距離って言ってたから2メートルが限界なのかと思った。僕のその考えが伝わったのだろう、トアはじろりとこちらを睨む。
「本当なら学校の寮から私の武器屋くらいまでなら飛べるんです。心外です」
つん、とそっぽを向くトア。ただすぐにそんな場合じゃないと思い直したのか、彼女はこちらを向いて真剣な顔になった。
…………そうだ。確か以前「黒い獣には対策がある」みたいなことを言ってたよね。今まさに、それをするときじゃないだろうか。ところがなぜかトアの表情は冴えない。なになに? すぐやろうよ。あれと正面からぶつかるよりは絶対可能性あるって。だって攻撃が全く当たらないし。
「あれは、御使いを殺すものだと女神は言いました。これまでを見ても、攻撃は全て腹部を狙ってきています。なんでもウルタル氏の話だと、御使いの腹部には宝石のようなものが埋まっていて、それが魔力を生み出しているということでしたよね。御使いを御使いたらしめているのはその魔力です。……ということは、その元を無くせばいいんですよ」
「えーと、つまり?」
「宝石を取り出す。それがあの獣を回避する方法だと思います。……一か八かになりますが」
「取り出す……? あ、それで魔力がなくなると。まあ、仕方がないような……」
でも、取り出すってどうするんだろう。僕が首を傾げてトアの方を見ると、彼女はプルプル震える手で、なぜか腰のナイフを抜いていた。……まさか……。
「ひ、ひょっとして物理的に抉り出すとか……そういう……?」
コクリと頷くトアの顔は、完全に表情が無くなっていた。いやいやいやいや。アカンでしょ。いや、ちょっと待った。考え直そう。きっと何か他の方法あるって。両手を突き出してストップをかける僕に、トアは一歩一歩近づいてくる。
「他の方法はありません。そしてこれはわたしにしか……」
「だ、だってその宝石の場所なんてわからないんじゃ」
「やるしかないんです。いいからわたしを信じて、委ねてください。大丈夫です、大きな血管の位置ならわかります。安心してください」
ごめんそれ無理……! でもそう言いつつ、トアも手が震えとる。確かに、友人の腹を掻っ捌いてどこにあるかわからない宝石を取り出せとか言われて喜んでたら、その人は心が壊れてるかレクター博士の生まれ変わりだろう。ただ、ここは冷静でいてほしい。……なにか、他の方法……。
「やっぱり戦うとか」
「あれは対御使いに特化した魔獣です。まず攻撃が当たりません。勝てないでしょう」
「逃げるのはどうです?」
「追いつかれますね。神殿から脱出し、洞窟を長時間移動しないとここから出られないわけですから。……それにしても、御使いの持つのは神の魔力ですから、やはり女神と戦うためにはどこかで決別しておくべきだったのかもしれません。あまりにここの条件が都合が良すぎます。こちらの様子を把握したうえで待ち構えていたんでしょう」
「 天空深處で長距離転移とか……」
「妨害されるでしょうね。さっきみたいに」
コツ、コツ、と一歩ずつ、ナイフを構えてそう答えながらこちらに近づいてくるトア。その顔は蒼白に染まっていた。思いつめたようなその表情が、距離が近くなるほどによくわかる。少し、その瞳には涙が浮かんでいるような気がした。
「わたしだって、自分で自分を切るならこれほど緊張したりしません。……落ち着いて、わたし……だって……他にいないんだから……」
自分で自分を手術する方がマシとか、この子ブラックジャック先生? ……しかしトアはそう言って、僕の前で立ち止まり、俯いて手元を見たまま動かなくなる。
……そうだよね。怖くないわけない。自分が切って僕が死んだら、きっとこの子は一生引きずるだろう。そのくらいはわかる。かと言って、僕が自分で切るよりは可能性が……。
……いや。僕がなぜうまくいかないだろうと言えるか。それは痛いから、怖いから。なら……これまで他人の精神に干渉してきたけど、自分の感覚を制御できないかな? 痛い、怖い……それを薄め、消す。そもそも、どのへんにその宝石があるのか、僕なら読めばわからない? この体も、床とかよりは長い付き合いでしょ。だから、きっと、できるはず。それが唯一の方法だとしても、他人にやってもらうのは、自分の分まで責任を負わせるみたいで嫌だった。…………よし。
「あの、自分でやります。ほら、私ってこう見えても手先器用ですし」
「…………」
「あれ、聞こえませんでした? ナイフだけ貸してください。私こう見えてもブラックジャック全巻読んだこともあるんです。もしそれで私が死んだら、真珠と一緒に海の浅瀬に沈めてもらえたら」
「……今、わたしがやらなきゃ、って物凄く思いました」
その後も、私がやる、いやわたしが、とお互いに言って譲らなかった。どうぞどうぞ、くらい言ってくれてもいいのに。でもさすがにそれを異世界の人に期待するのは無理があったか。
「では! お互い歩み寄りましょう。切るのはトアが、私たちの感情制御と埋められてる宝石の位置の特定は私が。それぞれ受け持つ、これでどうですか。だって私たちは、契約してる者同士。運命共同体なんですから。せめて半分ずつ。これは譲れません」
そう力説した僕の主張が受け入れられたのか。しばらく熟考したのち、トアはゆっくりと頷いた。成功率のことだけ言うと、絶対トアの方が高そう、っていうのも本音ではあるから。
失敗した時のことはお互い口にしなかった。そして、僕が服を脱いで台に寝そべり、トアがナイフを僕の腹部、みぞおちのあたりに当てる。まだその刃先は少し、震えていた。僕は彼女とそっと片手を繋ぐ。
そうすると、僕と彼女の感情が混じり合い、やがて2人の境界が少しずつぼやけていくような、そんな気がした。彼女の感じていること、見えている光景は僕にも伝わり、そしておそらくその逆も。つないだ手から、彼女がどれだけ不安に思っているかがさざ波のように伝わってくる。でもその代わりに、僕が彼女を信じていることも同じくらい伝わってほしかった。
そして、少しだけ表情が和らいだトアが、僕の方を覗き込む。
「あなたはどうしてあまり怖がらないんですか? これではうろたえているわたしが馬鹿みたいです」
「死んだことがあるかないか、の違いじゃないでしょうか。私こう見えても2回死んでますからね」
「……その話、帰ったらゆっくり聞かせてもらえますか。あなたがどこから来て、どんな人だったのか。私に全部教えてください。……いいですか? 約束ですよ」
すっとナイフが僕の肌に沿って引かれ、ぱっくりと赤色と白色が開く。……最初に抱いた感想としては、意外に体内って赤一色じゃないんだな、というどこか場違いなものだった。
やがてナイフは宝石に行き当たり、抜き取られるとともに、僕の全身から力が抜ける。きっと、あれは僕の体内にないといけなかったものだ。あれがなくなると、きっと――。
『――魔力がなくなったら体を維持できなくなるから、御使いは死ぬね』
あれはいつだったか。ずっと前、最初に女神と神殿で話した時に、そう言っていた気がする。成功する、しないという以前に、この方法はまさか成功する選択肢がなかった……? 薄れていく意識の中で、僕に顔を近づけてくるトアがぼやけながらも目に入る。
「その問題はきっと解決すると思います。だってあなたの体内には、僅かですがそれ以外の魔力の塊があるみたいですから。……食べたんですよね? だから、安心して眠ってください」
そう、耳元でそっと囁かれたトアの声を最後に、視界が次第に暗くなった。ただ、その中で僕は彼女に手を伸ばし、そっと触れる。……お疲れさま。




