『栗毛の来訪者』(上)
そういえば「ルート君は特別だ」って最初にウルタルが言ってた気がするけど。にしても特別すぎるやろ。国民全員の記憶改竄とか。能力もだけど、範囲がヤバい。心に関する魔法が禁呪になったのがなぜなのか、わかってしまう気がした。
あとなんか急にサイコパス枠に入っちゃってる気がする。どうしちゃったの。今まで常識人枠だったのに。その2つの枠って隣り合ってないはずだから急にひょいと変わったりしないはずなんだけど。ウルタルの非常識な行為に立ち上がっていた先輩はいったいどこに行ってしまったんだろう。
……あ、でもこうも言われてたっけ。僕はウルタルが彼女を評した言葉をもう1つ、思い出す。「――彼女は、研究に禁忌を持ち込まない」。あれは、この倫理的な部分を指していたのか。
僕はおそるおそる、何もなかったかのようにニコニコ笑っている先輩に尋ねた。
「……あの、先輩」
「はいはーい。なぁに?」
「えっと、その能力はいったい……?」
「あ、知りたい? いいよー。……これはね、私が先生と初めて会ったときの話にもなるんだよね」
僕の疑問に至極あっさりと頷いて。よいしょとソファーに座りなおした後、先輩はゆっくりと話し始めた。しかしウルタルは、自分の名前が出たのにもかかわらず、そのままつかつかと研究所の奥に歩いていってしまう。……逃げおった。いや今は、先輩の話をまず聞かねば。
* * * * * * * * * * * *
――北の街に住んでいた私が、初めて本格的にその能力を使ったのは、8歳の時だった。
それは馬の世話をしようと馬小屋に行った時のこと。私はふと、わらの中に誰かが隠れているのに気がついた。もっとも、何かがおかしいことには、小屋に着いた瞬間から感づいていた。だって前日に鍵を閉めたはずの扉が開いていたり、ばらばらとあたりに血の跡が散っていたりしていたから。ただ、私はあまりそんなことに興味がなかった。それよりは、今日の仕事をしなければ。
だから、真っ先に血で汚れていた馬小屋を掃除したのも、単に、そこを綺麗にすることが私の仕事だったからだ。いつもとの違いは、血がこびりついてちょっと掃除しにくかったことくらい。そして次の作業に移るべく私がわらの山に近づいたとき、そこに隠れた誰かさんが、そっと諦めたような溜息をつく音が聞こえた。きっと私が自分に気づいていることを、その誰かは察知していたのだと思う。でも、私は今日の餌として使うわらには興味があったけど、そこにいる誰かには興味がなかった。だから、わらを取り分けて抱え、馬の方に餌をやるために向かって行っても、誰かさんの方には振り向かなかった。だって、人は馬の餌にはならないから。
そして私が草原に出て、羊を柵の中に入れた後戻ってきたら。馬小屋の中に置いていた私の昼食は、誰かに食べられていて、なくなっていた。……私のお腹がぐう、と鳴る。……困った。これでは午後の作業に差し支える。
……私はわらを見つめた。ひょっとしたら、わらも大きく分類したら野菜ではないだろうか。私は比較的泥のついていないわらをいくつか見つくろい、それを束ねる。そして齧ろうとしたとき、初めてその隠れていた誰かさんの声を聞いた。
「ごめんなさーい! あなたのごはん、食べちゃった……」
私はぱくりとわらを齧ってみた。なんだかスカスカで、口当たりはぼそぼそとしている。時折じゃりじゃりするのは泥だろうか。総じてあまり美味しくはなかった。馬も羊も、こんなものを食べて大きくなるとは。私にはひょっとしたら、大きくなる才能というものがないのかもしれない。
「あれ? あの、ごめんなさーい……聞こえてないの……かな……? あの! 私! あなたのご飯を! 盗み食いしちゃいました! だからあなたが食べてるそれはごはんじゃないよ!」
どうやら誰かさんは私に話しかけているらしかった。ただ、それを報告されても私の食事が戻ってくるわけでもなし。どうでもよかったので無視していたら、どんどんうるさくなってきたので渋々返事をする。
「聞こえています。そんなことを大声で主張するなんて常識がない人なんですね……」
「あれー? 私がおかしいのかなー? というかまだこっち向いてくれてもない……」
「あなたが私の見えるところに移動して来てはどうですか」
「あの、ごめん、まだ傷が痛くてうまく動けないの……」
「そんな状態で大声を出したんですね」
「この子、冷静だけど怖いよぅ……舌ったらずなのが余計に……」
初回の遭遇時の相手に対する印象は、今考えてみると、おそらくお互い相当にマイナスだったのではないかと思う。
「あなたはどうして怪我をしているんですか」
「あ、遂に! 気にしてくれたの!?」
そんな会話がなされたのは、きっと最初に会ってから2週間ほど経ってからだった。そう、私は少し相手のことを気にするようになっていた。毎日するべき仕事には、比べるべくもないけれど。
「今朝も血が飛び散っていたので掃除するのが大変です」
「あっ……そういう……はい、ごめんなさい。馬小屋でこんなに長く過ごすのが初めてで、ちょっと気になっちゃって。馬っていきなり鳴くんだねー。びっくりしたら血がドバっと」
返事をするのを避けたのか、それとも質問されたこと自体を忘れていたのか。その人がどうしてそんな怪我をしているのかは、わからなかった。
「そういえばさー。私、追われちゃってるんだー」
確かに、街でそういう話を聞いたかもしれない。教会に反した、最も重い罪を背負ったものが逃げていると。この人がそうらしい。……おや、そんなことよりもう昼の休憩の時間が終わる。
私が午後の作業をするべく小屋の外に出ようとすると、彼女は恨めしそうな目をして、私を見送った。そう、隠れていたのは初日だけで、次の日からは普通に私の前にも彼女は姿を現していた。栗毛で長身、すらっとした彼女は、腹部がごっそりとえぐられた深い傷を負っていた。もう助からないと、素人目にもわかるくらいに。それなのになぜ彼女が2週間も生きながらえているのかは、わからなかった。
「ねえ! ちょっと全体的に冷たすぎだよ! あなたいくつ?」
「この前やっと8歳になりました」
「あ、そうなんだ……私と20歳も違うんだ……最近の子はしっかりしてるんだねー……、ううん、そうじゃなくって!」
「あなたに対して冷たいということですか?」
「人生に対して、冷たい!」
……意味が分からなかった。人生は触れられるものではないし、私がそれに対して何か動作を起こせるものでもない。ただそこにあるものだ。私がそう話すと、彼女はなんだか寂しそうな顔をした。
予定より長引いた作業を終え、少し外で休憩していると、今日も彼女が纏わりついてくる。私たちは、2人揃って座り、夜空に静かに浮かぶ月を眺めた。
「だから、行きたいところとかないのー?」
「ありません」
私が知るのは、この馬小屋と、そばにある狭い草原と、ちっぽけな納屋と、あの小さな家だけだ。私はここで生き、やがてここで死ぬのだろう。
「もう! こういうのって別に行けなくてもいいんだよ! ただ、気になる場所がないか、やってみたいことがないかって。それだけでね、なんだか人生に色がつくの」
私の人生の色は、草原の緑と、わらの茶色で一杯だ。それ以上他の色が入る余地など、あるはずがなかった。ただそう言われて、少しだけ考えてみることにした。別に行けなくてもいい、という前提が気に食わなかったが。だいたい、行かないのなら考える時間が無駄ではないか。しかしそういうルールなら、思いっきり行けない場所を想定してやろう。そう思った。
「私は月に行ってみたいです」
「へえ! あなたはなかなか見所があるねー」
馬鹿にされているのかと思い、彼女の方を見ると、彼女は笑ってはいなかった。もっともらしい顔で、何度も頷いている。……少し、疑問に感じた。
「非現実的だと笑わないんですか?」
「ふふふ、私は人類がいつかあの月に立つことを既に知っている、なーんて!」
「そうですか」
「ああっ、ごめんなさい! 寂しいから帰らないで!」
私が朝、馬の寝わらを整えていると、つんつんと後ろから肩をつつかれる。
「邪魔しないでください。今仕事中です」
「ねー、お姉さん、あなたの笑った顔が見たいなー。ピンクでふわふわの髪といい、大きい目といい、絶対笑った方が似合うと思うのに」
「面白いことがないのに笑うのはおかしくないですか」
「違うよぉ……面白いものは探すものだよ……。ほら、『おもしろき こともなき世を おもしろく』って言うじゃない!」
「言うじゃない! って、聞いたことありません」
「あ、今の私の真似、ちょっと似てた。ほらさっそく面白いことはっけーん」
「……うざい……」
そしてそれはいつだっただろう。お決まりとなった2人での昼食時に、彼女がまた突拍子もないことを言い出した。
「ねえねえ、ちょっと2人で冒険しない?」
意味が分からなかったので放置していると、彼女は落ちているわらを結んだりほどいたりしながら隅っこでいじけ始めた。仕方がないので返事をすることにする。
「冒険ですか」
「そう! お姉さん思うんだけどね。あなたがこの馬小屋以外を知らないまま終わるのは勿体ないと思うな。ううん、ここが悪いって言ってるんじゃないの。外の世界と比べて、やっぱりここがいい、ってなったらそれはそれでいいと思う。でも今って、ここと家とで完結しちゃってるみたいだから」
「私自身が選択した結果としてここにいるわけではないと」
「うーん、そう……? たまにお姉さん、8歳の子相手に何言われてるかわからなくなっちゃうよ……でもたぶんそう! どうかなー?」
「それでどこに?」
「あなたが決めていいよ! と言いつつ、私も候補があります!」
「ならそこでいいですよ」
「言うと思った! でもほらほら、2人で行き先を決めるのって、きっと旅の醍醐味の1つだって思うの!」
どこでもいい人とどこか行きたいところがある人が1人ずつなら、大人しく1人が行きたいところに行ったらいいのではないだろうか。決める時間と手間の無駄だ。だが、無理やりに決めろと押し付けられ、私は一応自分がどこに行きたいのかを考えてみた。と言っても、私にある選択肢なんてそれこそ、ここと家くらい。しかしその2つのどちらを選んでも、冒険とは言い難いだろう。……そんな時私は、いつも草原で羊を追う時に目に入る小さな山を、ふと思い出した。
「あそこに見えるあの山に行ってみたいです」
「へえ! あなたはなかなか見所があるね!」
「あなたひょっとして他の褒め方を知らないんですか」
そして次の日、私たちは、仕事をほとんど放り出して山登りに出かけた。いや、彼女は仕事をしていないので、正確には放り出したのは私だけだ。ただ、そんな日もあっていい。なんとなく私はそう思った。……これも、どこか彼女から影響を受けていたのかもしれない。今となっては、そう思う。




