第93話 "人間"のテリトリー
薄暗く、じめじめとした森の奥。
砂浜から侵入して30分ほど歩いたところに、イユ・イデルと名乗った女性の家はあった。
古びた小屋だった。広さは8畳ほど。所々に亀裂や穴が空いた木板の壁と、そよ風に当てられるたびにカタカタとざわつく木の枝を敷き詰めただけの屋根。
つついただけで外れそうな扉を開けた中は、いずれもボロボロのベッドと机・椅子がひとつずつ。壁にかけられたヒビだらけの鏡が1枚と、カビだらけの4段箪笥がひとつ。質素をこれでもかと突き詰めた空間であった。
そのたったひとつのベッドは現在、例によって全身包帯まみれのミイラ男と化した雄弥が占領している。
包帯を巻いたのは、そのそばに椅子を置いて座るイユ・イデル。ベッドで上体だけを起こす雄弥に、彼女は今もてきぱきと応急処置を施す。
実に手慣れたものだった。無論彼女はユリンと違って傷を完治させる力など持ち合わせてはいないが、傷への消毒液の塗布は繊細な手つきによって余計な痛みが発生せず、包帯の巻き方もとても綺麗だった。
「いや、めちゃくちゃ上手ぇな」
その手際に、雄弥も思わず感心する。
「……あなたにはさっさと回復して、さっさと出ていってもらいたいからね……」
「へーへーそーですかッ! お手間おかけしてスイマセンねェッ!」
イユの返事は相変わらずそっけない。……というか、最早わざとらしいとすら思うほどの冷淡さである。
ーーイユ・イデル。
つい先程まで彼女を"女性"と表現していたが、その面立ちは"少女"といった方が正しい。歳は雄弥と同じか、なんなら少し下くらいだ。
後頭部にバレッタで留めたセミロングヘア。シミや荒れのひとつもないすべすべの肌。ゼリーのような潤いを乗せる唇。そのどれもが、雪よりも白い。
その中で、2つの黒眼は非常に際立っていた。瞼は細めだが、シフィナのように鋭い切れ長というわけではない。どこか力の無い、覇気に欠けた眼つきだ。
来ている服は白のブラウスに、羊羹色のロングスカート。ただ、ブラウスは糸のほつれや泥汚れが多々あり、スカートも補修のしすぎでくたくたになっている。ついさっきまで被っていた緑色の頭巾も、いくつか破れて中の綿が飛び出している部分があった。
……言葉を選ばないのであれば、かなり見窄らしいいで立ちだ。衣服はもちろん、この家の全てを含めて。
ただ、唯一その雰囲気にそぐわないものがある。それが、彼女が右耳につけているイヤリングだ。
それにはビー玉サイズの、孔雀石ーーマラカイトのような大きな緑色の宝石が付いており、たったひとつのオイルランプの明かりだけが頼りのこの薄暗い部屋の中で、突き抜けた存在感を放っていた。
……が、雄弥にとってそんなことはどーでもいい。彼が何より1番気になっているのは……彼女の眼である。"人間"の証である、彼女の黒い眼である。
「な、なあ……ところでその〜……聞きてぇことがあるんだけど……」
「ダメ。質問は私が先」
雄弥の口を、イユは遮る。
そして彼女は傍に置いてあった雄弥の血だらけの白Tシャツを手に取り、それを広げて彼に見せる。
「……なぜ人間のあなたが、憲征軍の……猊人の兵章を付けているの……?」
彼女が雄弥に聞いているのは、そのTシャツの左胸部分につけられた10円玉サイズのバッヂのことである。
「へ? "人間"……って……? ……あッ!!」
雄弥はここでようやく、自身の右眼の眼膜が取れていることに気がついた。
「ああああえとえとえとそのそのそのその……。ひ、ひ、拾った! 道に落ちてて、なんかカッケーバッヂだなって思ってさ! ぐ、軍の兵章だとは知らなかった……」
「あなたさっき『自分は兵士だ』って言ってたじゃない……。公帝軍兵士なら制服着てないのはおかしいし……」
雄弥のウソのヘタさは筋金入り。呂律のブッ壊れ具合や焦点のズレまくった視線を見れば、ユリンじゃなくともバレバレである。
「お、お、お……お前こそなんなんだ!? お前だって人間だろ!! なんでこんなところに人間がいるんだ!! お前……お前もゲネザーの仲間じゃねぇだろうなッ!?」
「……はあ? 何それ……全然意味が分からないんだけど……?」
「ーーん? あれ、今お前なんつった? 公帝軍……?」
意図がちぐはぐ。彼らは自分たちが交わす言葉が支離滅裂を産んでいることに気付き、一旦黙る。
「……どうも会話が噛み合ってないわね」
「俺もそう思う……」
「ちょっと待って……順番にいきましょう。まず、あなたはどこから来たの……?」
「お……おお分かった。えーと、俺はーー」
気を取り直し、ひとつずつ雄弥は話していく。
ヒニケ地区に向かう汽車に乗ったことから、気がついたら森の外の浜辺にいたことまでの全てを。そしてここまで来た手段については、カケラも記憶に無いことを。
それらを聞き終えたイユは手を組んでしばらく考え込むと、やがてその黒眼に納得の色を現す。
「ーーなるほど? あなたはここがどこだか……本当に知らないみたいね。それならさっきの台詞も理解できるわ」
「……? どういうことだそりゃ」
ちんぷんかんぷんな雄弥。彼女はそれに呆れ顔で、ハァ、と軽いため息を返した。
「……ここは第67公帝領、マヨシー地区。あなたが今いるのは"人間"のテリトリーよ……憲征軍兵士さん?」
情、
報、
過多。
「……………………冗談?」
「だとしたら全然面白くないわね……私は自分にそこまでセンスが無いとは思いたくないわ」
「い、いや…………イミ分かんねーよ…………。んなこと急に言われたって信じられるワケ…………」
「なら……軍の駐屯所に行ってみたら? "公帝軍"の駐屯所にね。そしてこう言うのよ……『自分は憲征軍所属の兵士です』、って。たちまちあなたは牢屋行き……取り調べという名の拷問が待ってるわ。その過程であなたが死ねば、その死体は全裸で街に晒される。『薄汚い猊人側に寝返った、人間の面汚し』として……」
「…………な…………んな…………」
公帝軍という単語はその意味も含めて、雄弥も知っている。猊人の……憲征軍の敵である、"人間"の国軍。……サザデーから聞いたことだ。
だがそれらは皆彼にとっては遠い概念だった。ただでさえ彼は異界出身の余所者。つい先日まで周りにいた猊人たちですら、彼から見れば通常理解の外の存在なのだ。
「それにしても……あなた汽車でヒニケに向かってたって言ってたわよね。海のルートはどうだか知らないけど、陸路だとヒニケはここから軽く1000キロはあるわよ……。ホントどうやってここまで来たの? それを覚えてないってどういうことなのよ……?」
「せッ!? せせせ……1000キロぉおおおおッ!?」
まさに遥か彼方。しかしてその具体的な数値は、雄弥に彼が今置かれている状況への認識を強制するには十分な効果があった。
彼は自分の中の孤独感が指数関数的に爆増していくのを感じるとともに、全身に巻かれた包帯を冷や汗でじとじとにしていく。
ーーまさか……あのタコ脚のバケモンが、俺のことを運んだのか……!? ここまで……!?
普通に考えりゃあり得ない……!! 俺よりアタマがカラッポの魔狂獣がそんなことをするなんざ!! だ、だが……それ以外に可能性があるかと聞かれりゃ、それこそどう考えたって思い当たらねぇ……!!
いや、それでも分かんねーよ!! 仮にタコ脚野郎の仕業だとしても、何のためにこんなことをする!? いったい何の必要があるんだ!?
「……まぁいいわ。それで? 最初の質問の答えがまだよ。なぜ人間のあなたが……憲征軍に所属しているの?」
思考のブラックホールに吸い込まれかけた彼を、イユが振り出しに戻す。
「え……あ、ああ。ま〜そのなんつーか……成り行きというか、俺が入りたくて入ったワケじゃねーというか……」
「なにそれ……無理矢理引き込まれたってこと?」
「いや違う、違うぜ。……あ、やっぱり厳密には違くはないけど……少なくとも今は、俺は俺の意志で兵士をやってる。俺がやりたくて、やってるんだ」
「はあ? ……ヘンなヒトね……あなた」
「うるせぇな。お前のねじ曲がった性格に比べりゃマシだ」
「身の程を考えなさい。恩人にきいていいクチじゃないわよ」
「ああ!? 恩人!? いー加減にしろ!! 助けたのはお互い様だろうが!! どーしててめぇばっかりそんな上から目線なんじゃッ!!」
「……まだ分からないの? 私はあなたのことを軍に差し出すこともできるのよ。いえ……本来はそうするべきだわ。"人間"の立場としては。そうなったらあなたはどうなるか……さっき説明したわね?」
「!! ……う……」
なんというシンプルな理屈。バカも静まりかえる簡単な話である。
「……消毒薬が切れたわね。買ってくるから、大人しくしてなさい」
イユはそんな彼を気にも留めず立ち上がると、再び頭巾を身につけて外出の支度を整える。
「ま、待て……!!」
彼女が家から出ようと扉に手をかける直前、雄弥は彼女の背中に怪訝を含めた声を投げた。
「……? 何よ」
「じゃあお前……今は俺のことバラさないのか……!?」
「ええ。それが?」
「な、なんで……!? もしこれから俺のことがバレたりしたら、匿ったお前だって罪に問われるんじゃないのか!?」
「匿う? とことん都合のいい解釈ね。私からあなたへの施しは、助けられた借りを返すためのもの。軍に告発しないのは単に面倒事がイヤなだけよ。……それに、その様子じゃあなたは知らないんでしょうけど……」
イユは、純白の顔を隠すように頭巾を深く被りーー
「私も半分は猊人だもの」
出かけて行った。
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