第89話 大敵の奇襲 -ドルマルン-
ーー朝方。宮都発の汽車の中。
ヒニケ地区に帰る雄弥とユリンは並んで席に座り、走る列車の振動に揺られている。
外は何度も深呼吸をしたくなるような気持ちのいい天気。
……だが、窓際に座り、失くした左眼を眼帯越しに陽光へと晒している雄弥の心中は、それに反して全く穏やかではなかった。
ゲネザーのこと。サザデーのこと。転移者、魔狂獣、バイラン、監視、謀略、敵、強盗、依頼、"いんたぁねっと"……。
もう、とにかく頭がぐっちゃぐちゃだった。
「ちょっとユウさん、大丈夫? また乗り物酔いですか?」
「へあ!? い、いやいやいや大丈夫。その、なんだ……ねみーだけだから」
右隣からユリンに顔を覗き込まれ、雄弥はようやく脳内の情報ミキサーをストップさせる。
「あ、の、で、す、ね。あなたのウソの下手さはとっくに知ってます。アルバノさんのところに1人で行ってからずーっとそんなカンジじゃないですか。もしかして、またあの人になんかイヤミでも言われたんですか?」
「あ〜その、ち、違う違う。え、えーと……そう! 結局なんでリュウの野郎は、俺のことをあんなに嫌ってたんだろーなーって考えてたんだよ」
バカの考える嘘なんてバカにだって分かる。ユリンは訝しむ視線を全く緩めない。
「……そうなんですかぁ? ……まぁ……いいでしょう。ーーへッ!? というかユウさん、その理由まだ分かってなかったんですか!?」
「? お、おう。全然1ミリも分かってねぇ。え、まさかお前知ってんの?」
それを聞いたユリンは呆れたとばかりのげんなりとした顔になり、でぇええ〜っかい溜め息を2つついた。
「……ユウさん。帰ったら少しお勉強をしましょうか。ヒトの恋心について……」
「へえ? なんで? 恋心?」
雄弥はそれに対してマヌケ面でポカーンとするだけ。……少々リュウに同情したくなってくる。
「はぁ……ま、それはいいとして……ホントに大丈夫なんですか、あなたは」
「だ、だ〜から大丈夫だっちゅーの。マジで眠いだけなんだってば」
「……ん。それならいいです。でも……私の助けが必要になった時は、ちゃんと言ってくださいね」
「……お、う。ありがと……」
雄弥の心がチクンと鳴る。
これまで彼女のこの優しさに何度助けられただろう。そのあたたかさが、何度彼を奮い立たせただろう。何度彼を安心させただろう。
そんなユリンすらも疑わなければならない。今の状況は、彼にとってあまりに惨すぎる。
『ち……ちくしょう……!! 信じねぇ……俺は信じねぇぞ……!! ユリンが敵の情報源だなんて……!! だ、だが……サザデーさんは……!? あの人の疑いはどうやって晴らせばいい……!?』
何が起きているのか。敵は誰か。その目的は。裏切っている者がいるのか否か。
自分が関わっているはずの事態なのに、自分には何も知り得ない。
こんなやるせないことがあるものか。
『俺は……これからどうすりゃーー』
その時。
海上の橋を通過中だった汽車が突如、ガッタンと音を立てて急停止した。
「どわぁッ!!」
「きゃああッ!?」
「ぶぇえ!!」
乗客たちは次々と驚きの悲鳴を上げ、完全に思考に没頭していた雄弥は慣性の影響をモロに受けたことで前の座席の背もたれ部分に顔面をぶっつけてしまう。
「ゆ、ユウさん!」
「ご……ごべんユリン……。おまえのだずげがひづよーっス……」
「見れば分かりますよ! ほら、上向いて! お鼻押さえて!」
真っ赤に腫れさせた鼻の穴からぼたぼたと血を垂らす雄弥に、ユリンは慌てて『命湧』の術を施す。
「ど……どーじだんだ? ごんなはじのうえでどまるなんで……」
「確かにヘンですね。治療が終わったら、私が車掌さんに聞いて来まーー」
すると、ユリンがいきなりその華奢な身体を硬直させた。赤い瞳を見開き、夫の浮気現場を目撃した妻のように言葉を失っている。
「? お、おいユリン?」
「……な、に……!? あれ……!?」
「? なんだよーー」
事態を図りかねる雄弥は、自身の声にすら全く反応しない彼女と同じ方向に視線を向ける。
「…………は?」
予定調和とばかりに、彼もまた仰天した。
彼らの眼に映っているのは、窓だ。窓の外側だ。
列車の窓の外側に、巨大な何かが張り付いている。
ドラム缶の3倍以上の太さを持ち、表面をヌメヌメとしたテカリで覆われた、柔らかそうな赤紫色の何かが。
……タコ。タコの脚、触手。見てくれの質感はまさにそれだ。
そしてよく見てみると、その得体の知れない何かは窓ガラスに張り付いているわけじゃない。車体そのものに、ぐるりと巻き付いているようだった。
「ま、まさか……!!」
本能からの警報。
異常、人外、魑魅魍魎。この世界に来て何度も感じた、魔狂獣の気配。
鼻血の止まった雄弥は自身の席の窓を開け、列車の外に顔を出す。
……予感は的中した。
「!? な……なんだァッ!?」
彼が見たのは、やはり車両に巻き付いている巨大な軟体動物性の触手。列車が止まったのもこいつのせいだ。
……そして見たものはもうひとつ。橋の下、20メートル下方に位置する海面から触手を伸ばし姿を覗かせている生物であった。
その触手の主の外見を例えるなら、巨大なウニだ。寿司のネタになるあのウニである。全身トゲの塊である、あのウニである。
だが、今回の触手の主はトゲの塊ではない。触手の塊だ。ウニのトゲの部分を全て触手に置き換えた、触手の集合体だった。球体のイソギンチャクと形容してもいいかもしれない。
眼は見当たらない。口も同様。ただ長さ30メートル以上はあろう触手のみを全身に無数に備えている。
そして、何よりその身体があまりにも巨大だ。触手を抜きにした本体だけでも甘く見積もって直径20メートルはある。かつて雄弥が対峙した魔狂獣の中で最もサイズが大きかったのはゼメスアだが、それでもせいぜい10メートル程度。まるで比較対象にならない。
その巨大な魔狂獣は車両に巻きつけた触手を思い切り引っ張ると、汽車をまるごと橋から引きずり下ろした。
「うわぁああああああァァァッ!!」
「いやぁああああああァァァァァァーーーッ!!」
海に向けてごうごうと落下する列車の中はたちまち命の危機に瀕した者どもの凄惨な悲鳴に満ち溢れる。
「"慈䜌盾"『雛彌』ッ!!」
橋の高さの半分、海面まであと10メートルの位置に達する直前、車内のユリンが広げた掌を前に向けた状態で、両腕を胸の前で交差。そこにありったけの魔力を宿らせて印を結んだ。
すると空中に直径50メートルは下らない超大サイズの円形の"床"が出現し、落下する列車を受け止めたのである。
魔力でできたそれに勢いよく激突したはずの鉄車体だが、なんと衝撃のダメージは全く発生しなかった。中にいる人々もほぼ無傷。見るからに硬質でありそうなその巨大な"慈䜌盾"は、羽毛が詰まった枕よりも柔らかかったのだ。
「…………す…………すげぇなユリン…………!! あ、ありがとよ…………助かったぜ…………!!」
雄弥は落下のショックで自身の胸に急発生した動悸を治められていないながらも、ファインプレーをかましたユリンに礼を述べる。
……しかし、今の彼女にそれに応える余裕など無かった。
「はぁーッ、はぁーッ、はぁ……ッ!!」
ユリンは雄弥なぞ比べるべくもないほどに息を切らしており、だくだくと流す汗で着ているニットの背中部分に大きな染みをつくっていた。眼も真っ赤に充血させ、脱臼しそうな勢いで両肩を痙攣させている。
「!? ゆ、ユリン!? 大丈夫かッ!?」
「この……じゅ、つ、は……ッな、がくは……保ちま……せん……!! ユウさ……んッ!! はやく乗……きゃ、くを避難……させ……てくださ、い……ッ!!」
肺の息を全て絞り出し、ユリンは心配して駆け寄ってくる雄弥に訴えかける。
彼女が胸の前で組んだ両腕に宿らせているオレンジ色の魔力は、ガス欠寸前のライターの火のような不規則な点滅を繰り返している。今この瞬間に消えてもおかしくはない。彼女の限界は一目瞭然だった。
「わ、分かった!! 任せとけッ!!」
雄弥は窓を叩き割って列車の外に飛び出し、魔力の"床"の上に降りた。
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