第33話 無心の強制
夜。闇空に浮かぶ星々が、控えめな自己主張を始める時間。ほとんどの人々が眠りにつく中、まるで遅刻ギリギリで出勤しているサラリーマンのように走っている男がいた。
「くっそォ!! 今日はなんなんだ!? 逃げてばっかりじゃねぇかよォッ!!」
菜藻瀬雄弥はそんな泣き言を叫び散らかしながら、走っていた。
なぜ走る? 彼が言った。逃げるためだ。
逃げるって、何から? それはーー
「うわァッ!!」
「逃げても何にもならんぞ!! じっとしていたまえ!! 大人しく死ねば、楽に終わらせてやるからァ!!」
彼は背後から飛んできた銃弾に右の脹脛を掠め取られ、床に思いっきりすっ転んだ。
彼の背後から、拳銃を構えた老人がーーバイランが迫る。そいつは最早昨日とは打って変わって、気品を完全に失っていた。
「ちいッ!!」
雄弥は慌てて立ち上がろうと左膝を立てたがーー
ちょきん。
「ぎあッ!?」
次の瞬間には、再び地面に倒れ込んでいた。
彼の左の靴に穴が開き、血が溢れている。足の小指を撃ち抜かれたのだ。
「うあァアァーッ!!」
「無駄だ無駄だ!! この俺の『仁狩鋏』は、人の"意識"を断ち切る魔術!! 物を見る!! 音を聞く!! 匂いを嗅ぐ!! 身体を動かす!! そういった人が"意識して"行うあらゆる行動を封殺する!! 動きだけを止めているわけでは無いぞ!! この術の効力にかかった瞬間、貴様の五感全てが機能を停止するのだ!! ゆえに貴様は俺が銃を抜いた瞬間を"見れず"、自分の身体に弾が食い込む瞬間の痛みを"感じず"、その銃声は当然"聞こえない"!! 避けることなど尚叶わない!! ほんの1秒ほどではあるが、この術下において貴様は植物同然となるのだッ!!」
足を抱えてのたうつ雄弥を大声で嘲笑い見下しながら、バイランはこれでもかというほどの歓喜に満ちた表情を見せつける。
楽しんでいる。彼は、心から楽しんでいる。雄弥は彼が天然のサディストであることを、今更ながら痛感した。
「……どういう……ことだ……ッ!」
「ん?」
「てめぇ言ったろうが……! 俺にはてめぇの魔術は効かないと……! あれは、俺を油断させるための嘘だったってことか……!?」
息を切らし、痛みに耐えつつ、雄弥は目の前の敵に向けて疑問を投げかけた。
「ふん、とことん頭の悪い男だ。もしそうなら、俺はこんな面倒な追いかけっこをする必要も無い。貴様の記憶を弄ってハイ終わり、それで済むではないか。それくらいちょ〜ッと考えれば分かるだろうが、このクソボケが」
「じゃあ……どういう……!」
「だから貴様は馬鹿だというんだ。いいか? 俺は貴様にこう言った。他人の心に永続的に干渉する魔術は術者本人よりも大きな魔力を有している相手に対しては効果が薄れる、あるいは全く効かなくなる、と。ここで重要なのは、永続的、という部分だ。分かるか? つまり効果が一時的な術であれば、魔力量の差などーー」
ちょきん。
「問題ではないのだよォ〜」
「……ッ!!」
雄弥は驚いた。数秒間呼吸を忘れたほどに。
なぜか? バイランの顔が突然、目の前に現れたからだ。つい1、2秒前までは自分から5メートルほど離れた位置にいたはずのバイランが、いきなり目の前に現れたからだ。
言うまでもない。雄弥はまた、彼の魔術にかかったのだ。また意識を断ち切られたのだ。こんな、いともあっさりと……!
「じ、じゃあよ……ついでにもうひとつ聞かせろ……! てめぇ目が見えねぇクセに、何でそんな普通に動ける!? それに失明している奴が拳銃なんて使えるわけもねぇ……! そうだ、てめぇはやっぱり周りが見えている……! どういうことだ!? それも『幻妄』とやらの能力なのかよ……!」
雄弥はそれに対する動揺を隠せぬまま、質問を続けた。
「その通り……! これは『幻妄』の能力のひとつ、視覚の強制共有……!」
「視覚の……強制共有……!?」
「言葉通りだ! 俺は自分の眼で周囲の景色を認識しているわけでは無い! 術を使うことで貴様と視覚を共有させてもらっているのさ! 雑に言えば、俺は貴様が見ているものを見ているのだ! 視覚だけではない! 必要とあらば聴覚、嗅覚、味覚、触覚……五感全てを共有できる! 比喩では無い! 俺は今、貴様と一心同体となっているッ!」
「……なるほどな。これで分かったぜ……! 昨日山に行ったときにエドメラルやガムランが俺とユリンを待ち伏せできたのは、てめぇがその能力で俺たちの動向を完全に把握していたからか……! 軍の調査が入る前にタイミング良く山の地下施設を爆破できたのも、公園であのディモイドとかいう魔狂獣を俺に差し向けることができたのも……全部……そのためか……!」
「そういうことだ! ちなみに、昨日の共有の対象も貴様だったのさ! この視覚共有の術は貴様という対象に直接的な影響を及ぼすものではないため、魔力量の差に関わりなく、永続的な発動が可能なのだ……! ユリン・ユランフルグの顔や背格好も、今言った貴様とユランフルグの動向も、全て貴様の目を通して把握させてもらった! 礼を言っておくぞ……! 貴様のおかげで、俺は軍の追跡をほぼ完全に回避できた! あとは貴様を片付ければおしまいだ……!」
「てめぇぇッ!!」
雄弥は侮辱の数々に耐え切れず、目の前にあるバイランの顔面目掛けて殴りかかる。
ちょきん。
しかし再びバイランの術中にはまり、意識が戻った時、バイランはすでに雄弥から3メートルほどの距離を取っていた。
しかし雄弥は怯まなかった。もう魔術の力に恐れることはしなかった。なぜか? ビビってもどうしようもないからである。……つまり、もうヤケクソなのだ!
「だりゃりゃりゃりゃァァァ!!」
バイランに対し、猛攻を仕掛ける。殴りかかり、蹴りかかり、挙句頭突きや噛み付きまで試みた。
ーーだが、当たらない。全て。全然ちっともかすりもしない。
雄弥は脚をやられており、そのせいで動きがかなり鈍っている。今の彼は、ユリンとの特訓時に見せる実力の半分も発揮できてはいないだろう。
それでも。彼は修行を重ねたのだ。その動きは、速さは、一般人のレベルを十分に超えている。しかも時にはフェイントを挟んだりもしたのだ。殴ると見せかけて脚払いを仕掛けたりもしたのだ。しかしそれでも。バイランは全てを回避したのだ。
そしてやがて、バイランは再び懐から拳銃を取り出した。
「うッ!!」
それに気が付いた雄弥は当然、銃口から逃れんとした。後ろに飛び退こうとした。だがーー
ちょきん。
「ぐがァッ!!」
やはり、ダメであった。意識を止められ、棒立ちにさせられ、その隙に放たれた弾丸によって左腰を抉られた。
彼は後ろに飛び退こうとしていたので、そのまま床に勢いよく尻もちをついてしまった。
「くはははは!! 尚も無駄ァ!! 俺は貴様が見ているものを見ているんだぞ!! 貴様の視線がどこに向いているのか、何を狙っているのか、その全ては俺に筒抜けだ!! 眼には第二の口がある、とは、まさにこのことよ!! 貴様が次に何をしようとしているのか、全部、ぜぇんぶお見通しだァァァ!!」
目は口ほどにものを言う、ってことか!? なんて聞いている場合ではない。
「まぁもっとも……俺は肉体そのものはただの老人だ。貴様が怪我ひとつない全開状態なら、脚をやられて動きを鈍らせていなければ……さすがに俺は接近戦では勝てんよ。いくら貴様の動きが読めようとも、俺自身の肉体に貴様の攻撃を回避するだけの瞬発力が無いからな……!」
「……肉体そのものは……? ……ヘッ、まるで心はまだピチピチなんだぜって言っているように聞こえるな……。た、ただのクサレジジイがぬかしやがる……」
雄弥は毒を吐きつつも、少しでも距離を取ろうと尻もちをついたまま後退っていく。その額にはじっとりと汗が滲んでいた。
その最中、彼の右手に何かが触れた。固い。ゴツゴツしている。……石だ! 彼は手からの感触のみでそれを悟った。
雄弥はその石を見ていない。つまり、バイランはこの石には気が付いていない! すかさず彼は直径10センチほどあるそれを握ると、バイランに向かって力一杯投げつけた。
「だあァッ!!」
「フン!」
ーーだがなんと。バイランはそれさえも避けてしまった。持っていた拳銃で、その石を弾いてしまったのだ。
「そ、そんな……!」
雄弥は絶句した。弾かれた石はバイランの真上に打ち飛ばされ、そこの天井に大きなヒビを入れた。
「おおっとォォォ〜危ない危ない……。貴様の『触覚』に干渉し、貴様が右手で石を掴む感覚を事前に共有していなければ、今の不意打ちを察知することはできなかったぞォ〜?」
そ、そうだった……! こいつが共有できるのは視覚だけじゃないんだった……!
ぜ、全部……!? 俺がやることは全部見抜かれる……!? マジかよ……!? ど……どうしようもねぇじゃねぇかよ……!!
「やれやれ、それにしても他人にわざわざ1から10まで説明してもらっておきながら、数十秒後にはもうキレイさっぱり忘れるとは……。ひどい、なんてひどい記憶力だろうなァ。ん? その頭の中には何も入っていないのか? え?」
くっそ……何も言い返せない……! ……じゃねぇ! 考えなければ! 何か、何かコイツを倒す手を……!
「いい機会だ。俺がこの目で直接確認してやろう。貴様の頭蓋の中が空かどうかをォォ……!」
バイランはそう言うと、雄弥の額に真っ直ぐに銃口を向けた。
逃げられない。回避を試みても、バイランは再び魔術で彼の動きを止めてしまうだろう。状況に対する打開策への解答は未だ得られていない。……逃げられない!
その時。突然、突然の出来事だった。
バイランの真上の天井が崩れてきたのだ。
「!? なにィ!?」
その崩落した天井は、ついさっき雄弥が投げ、バイランが弾いた石が当たった部分だった。ここはもともと古い施設だ。天井板もかなり傷んでいたのだろう。板の破片のみならず、その中にあった何かの配管やら箱型の機械やらがガラガラと落ちてきた。無論、真下にいるバイランを目掛けて……。
「くおおおおーッ!!」
バイランはその突然の出来事に驚き、銃の引き金にかけた人差し指に力を入れてしまった。
弾丸は放たれた。が、こんな慌てふためいた状況では標的に当たるはずもない。弾は座り込んでいた雄弥の頭上を通過し、彼の後方すぐ、廊下の突き当たりに設置してあった消火器に命中した。
消火器はたちまちに破裂し、轟音と共に大量の粉末消化剤を廊下中にぶちまけ、雄弥とバイランをそれですっぽりと覆った。
「ぶふぉッ!! おのれェ……ッ!!」
バイランは粉末が気管支で暴れ回る中で前方に向けて銃を乱射するが、いずれもそれらしい手応えは無く、マガジンに装填されていた残弾はあっという間に0になる。そして煙が晴れて呼吸が落ち着く頃には、彼の前から雄弥の姿は消えていた。
「ち……! ……なるほど、運だけはそこそこに持ち合わせていたか……!」
盲目のバイランは、気配が消えたことで彼が自分の前からいなくなったことを察し、忌々しいと舌を打つ。
「……まぁいい。どこに逃げようが同じことだ。視覚共有は続行中……奴の居場所は手に取るように分かるぞ……!」
彼は銃のマガジンを差し替えつつ、眉間にシワを寄せて意識を集中。雄弥の現在位置を探り始めた。
「ぜぇ……ぜぇ……げェほッ」
肺が、肺が痛過ぎる。でも助かった……! ちっきしょう、今日はどういう日なんだよ……! 運が良いのか悪いのか分からん……!
消化剤をたっぷり吸い込んだせいで激痛を発している肺を肋骨と皮膚越しに手で押さえながら、施設内を薄暗い廊下に沿って進む。幸い昨日訪れていたので、中の構造はそこそこに把握していた。
肺だけじゃない、あっちこっちがガタガタ。足の小指をやられたせいで歩くことも億劫だ。流れ出た血も、暗闇の中でもはっきりと分かるほどの痕を廊下に残している。
いや、いやいや違う。そんなことよりも今の問題はバイランだ。いくら向こうが年寄りとはいえ、こんなふうに脚を引きずってちゃすぐ追いつかれる。それに奴は視覚共有を使えば、俺の位置なんてすぐに特定できるだろう。なんとか一旦逃げれたが、振り出しに戻っちまうのは時間の問題だ。
……ん? 逃げる?
ーーちょっと待て。なんで俺は今、こうして逃げることができているんだ?
例の『仁狩鋏』とかいう術を、なぜ奴は使ってこない。
消火栓が爆発した時に術を使わなかったのは、奴も煙に巻かれて術への集中が途切れちまったからだろう。でも、今は? 今はなんで使ってこないんだ。ただでさえ俺はボロボロなんだ。その上術で動きを止めちまえば逃げる方法など無いってのに……。
ーー使わない、ってんじゃなくて、使えない、のか……!?
だとしたらなんで? あの時と、今と。その状況の差はなんだ……?
……距離!?
そうか……対象との距離だ! 今は俺と奴の距離が離れ過ぎているから、術の効果が届かないんだ!
俺たちが山にいたことも知っていたことから察するに、視覚共有の魔術には距離制限は無い。だがあの『仁狩鋏』は奴自身も言っていたように、俺自身に直接効果をもたらす術だ。その区別点から見れば、距離制限の有無の違いがあってもおかしくはない……!
なるほど考えるといやらしい戦法だ。奴を相手取った時、術を回避しようと距離を取れば一方的に銃でバカスカ撃たれて、拳銃を無効化するために接近戦に持ち込もうとすれば、奴に手が届く前に術で動きを止められて結局至近距離から狙い撃ちだ。
……だが。その戦法が成立するのは、こっちに遠距離からの攻撃手段が無い時に限られる。つまり奴の持つ拳銃よりも遥かに強力な飛び道具を、奴の魔術の有効範囲外からお見舞いしてやればーー
こうしてひとつの攻略法を導き出した俺の顔には、ニヤリとした笑みが浮かんだ。
「見てやがれジジイ……!! 俺がやられた分を、900倍にして返してやるぜ……!!」
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