第105話 また会う日まで
その日の深夜。街の診療所。
白熱灯の灯りで満ちた一室に、老人と少女の2人はいた。
「……いいのかい、イユちゃん」
「? 何が? おじぃちゃん」
「ボウヤと行きたいのなら……決して無理をするべきじゃない。ワシに気を遣うことはないんだよ」
机に腰掛けてカルテにペンをはしらせる老人はほんの少しだけ遠慮がちに、自身の背後で床に座って包帯を畳んでいるイユにそう勧める。
「おじぃちゃん。ユウヤは、私にとって特別な友達よ」
「うん? うん」
「でも、おじぃちゃんだって特別で、大切な家族よ」
しかし少女の答えは、どこまでも真っ直ぐに。わずかなブレも揺らぎもなく。
「気を遣ってなんかない。私は今は、おじぃちゃんと一緒にいたいの」
……最後まで、そうきっぱりと返ってきた。
「…………そうか…………」
ふいに老人の手元に、一粒の雫がぱたりと落ちた。
「じっちゃん! 納品整理終わったぜー!」
そこにドアをバーンと開けて、傷だらけの青年が飛び込んでくる。
……今宵は、彼がここで働く最後の夜なのだ。
「……ああ。ありがとう」
「他なんかやることあるか?」
「そうだなぁ……じゃあ、ちょっとついて来てもらおうか」
「はいよ!」
少女1人を残し、背丈がほぼ同じの老医師と雄弥の2人は、並んで診療所の奥へ。やがて彼らが来たのは狭っくるしい薬品保管庫。
「そことそこ……あと、そこの戸棚からひとつずつ薬を取ってくれ」
「りょーかい!」
雄弥は老人の指示通り、戸棚から合計3つの錠薬が入った小ビンを左手のみで器用に取る。
「で、これをどうすりゃいいんだ?」
「持っていきなさい」
「……へ?」
「きみにあげるよ。熱冷ましと痛み止め、栄養剤だ。それくらいなら荷物にもならないだろう? あとでリュックも渡すよ」
「え、いや……な、何を……」
「ナガカまでは遠い。その上道中身体を壊してしまったとあっては辿り着くものも辿り着けない。持っておいて損は無いと思うよ。それから……」
驚く雄弥をほったらかして老人は白衣のポケットからボロボロのがま口財布を出すと、その中から紙幣の束を掴み取った。
「1、2、3……8枚か。これくらいあれば汽車にも十分乗れるな。はい」
そしてその8枚の紙幣を、雄弥に差し出したのである。
「は……!? え、ちょ、ちょっと待てよ! 受け取れるかよこんなん!」
「勘違いするな。これはきみの給料だ。1ヶ月間働いてくれた分のね」
「お……俺がここで働いたのは、あんたに治療費を返すためだ! 給料なんかもらえねぇって!」
「治療費? そんなものの返済はとっくに終わってる。これはその余剰分さ」
「ウソつけよ……! 今財布からテキトーに出してたじゃんか……ッ!」
「ごちゃごちゃ言うんじゃない。大人に恥をかかす気か? ほれ」
老人は半ば無理矢理に、雄弥のズボンのポケットにそれらを押し込んだ。
「お、おい……! いいのかよホントに……ッ!」
「気にするな。ほんのお礼だよ」
「お礼って……俺はあんたになんにも……。面倒事ばっか押し付けちまって……」
雄弥の声のトーンが下がりつつある中、老人はタバコを1本取り出して火をつける。ひと吸い目の煙をぷはぁ、と吐き出すと、それに続けてゆっくりと口を開いた。
「ーー孫娘同然さ、イユちゃんは」
「だがワシ1人では、どうしてもあの子の生きる希望を作ってやれなかった」
「……きみが……きみがそれを、あの子に与えてくれたんだよ」
彼の紙タバコを持つ手が、微かに震える。
「ワシの大切な家族を……ありがとう」
「忘れ物無い?」
「んーと……大丈夫だな。さっきもらった、北東方面の地図もちゃんと持ってる」
「途中で荷物落としたりするんじゃないわよ」
「が、ガキ扱いすんな! 歳下のくせにッ」
まばらな街灯の頼りない明かりに照らされた夜道。
並び歩く、青年と少女。2人はやがて、街の出口へと到着する。
「ーー私はここまで」
「……ああ。じゃあ……元気でな、イユ」
「あなたもね。それ以上怪我しないように」
「おう。お前こそ、次会うまでに身体壊したりすんなよ」
雄弥は左肩のリュックを一度深く担ぎ直すと、自身の前に立つ白肌の少女に左手を差し出す。
イユはそれを両手でそっと包みこみ、握手とした。
「ーーあなたに会えてよかった」
「……俺もだ」
残った未練を、ゆっくりゆっくり溶かすように。彼らの握手は、そよ風が2、3回吹き終わるまで続いた。
「じゃーなイユッ! マジで色々ありがとよ!」
「私のセリフよ……。またね……ユウヤッ!」
そして、彼らの手は離れた。同時に身体の距離も開いていく。
走り去る雄弥は、何度も何度も振り返り手を振る。
見送るイユは、ずっとずっとそれに振り返す。
……お互いに、自分の眼元に浮かんだ涙に気づかれぬように。満面の……精一杯の笑顔を、見せ合って。
ーーその様子を、物陰より眺める黒い存在がいた。
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