5.別れ①
彼への気持ちがなくなったわけではない。
そんなに簡単に消えるものだったら、茨の道を進んだりしない。
でもどうしようもなく疲れてしまったのだ。
心が削られていくと身体まで重くなっていくらしい。自分が自分ではなくなっていく、抜け殻のように感じてしまう。
私がこの家に残ったのは、エドが私との愛を思い出してくれるかもという期待が捨てきれなかったから。
でも彼が思い出す気配はない。
周りからも失った記憶を聞かされても、『そうか…』というだけ。
思い出そうとしていない人にこれ以上どうすればいいのだろうか。
思い出したくないの?
それともこのままでいいの…。
そうね、このままでいいのよね。
あなたは幸せなのだから……。
彼は私が話す思い出を聞き流す、彼にとってそれは他人の記憶だからそれも仕方がないのだろう。
私と彼の溝が埋まることはない。
私が苦しみながらここにいる意味はあるのだろうか。
…意味なんてない、最初からなかった。
愛しているけど、それだけでこの状況は乗り越えられないことを知る。
もういいかな…、すべてを捨てて逃げていいかな…。
こんなに弱くてごめんね…。
許してくれる?
わ、私だけは…忘れない…から。
『すべてを手放してしまいたい』
そう思うのに時間は掛からなかった。それくらいに心も体も悲鳴を上げ限界だった…。
私は夫であるエドワードと離縁する道を選ぶことにした。
今更だと罵倒される覚悟は出来ていた。散々周りを振り回しこの結果を選ぶなんて自分でも呆れるくらい勝手だと思う。
でもあの時の私には『離縁』という決断は出来なかった。遠回りした今の私だからこそ選べるのだ。
エドに話す前に私の浅はかな行いで振り回すことになった義父母達に自分の考えと謝罪を伝えた。
『申し訳ありません、エドワードとは離縁しようと思います。反対を押し切ってまで我儘を通したのに、私は弱くて『彼を待つこと』が出来ませんでした。このままここにいたら、私は…。
ただ振り回すだけの結果になって本当に申し訳ございません、お許しください』
『マリア。良いんだよ、これで君の気持ちに区切りがついたならそれでいいんだ。本当に愚息が迷惑を掛けてすまなかった』
『…ごめんなさいね、マリア』
『義姉上、今まで兄の為に有り難うございました』
義家族は私を責めることはなかった。事態をより混乱させただけの我儘な嫁だと罵ってもいいのにそうしない。
それどころか私に向かって『本当に申し訳なかった』と言って深く頭を下げてくる。
『短い間でしたが、この家に嫁いで幸せでした。本当にお世話になりました…』
お義父様とお義母様の義娘でいられたら…。
義姉としていろいろしてあげたかった…。
別れを告げた私はその思いを伝げることはなかった。それを口にしたら残された者達にしこりが残るから。
義父母達はエドやラミアとこれからも家族として関係が続いていく、だから元嫁となる私は静かに去ったほうがいい。
◇ ◇ ◇
私は義家族との別れを済ませたあと、話があるからとエドを応接室に呼び出した。
「待たせてすまない、マリア。それで話ってなんだい?」
「こちらこそ急に呼び出してごめんさないね。まずは座ってちょうだい、エド」
立ったままの彼に座ることを促す。
「ああそうだね、座って聞こう」
彼が座ったのは私の向かいのソファで、やはり空いている私の隣には座らなかった。
記憶を失う前は当たり前のように私の隣に座っていたけれども、帰ってきてからはそれもなくなっていた。
彼が座ると同時に私は別れを切り出す。
「……私と離縁してください。正妻として全てを受け入れるつもりだったけれど、私には無理だったわ。エドやラミアが気を使ってくれているのは分かっているの。でも愛し合う二人を見続けるのは耐えられなかった。それにどんどん嫌な感情に自分が支配されていくのも辛くて仕方がないの。
このままここにいたら、私はあなた達を傷つけてしまうかもしれないし、私自身が壊れてしまう気がする。だから私はここを去ります。エドワード、…いいわよね?」
彼に許可を求めているわけではない、これはもう私のなかでは決まっていること。
私の言葉を聞いていた彼の目には少しの驚きと安堵が入り混じっている。
驚きが少ないのはきっと彼も遅かれ早かれこうなると思っていたからだろう。周囲の言う通り最初から無理があったのだから。
安堵は…やはり彼も離縁を心のなかでは望んでいたからだろう。
離縁された私の行く末を案じて彼は離縁を求める言葉を口にはしなかったけれど、本心では愛する人を妾のままにしておきたくはなかったはずだ。
でも彼は優しい人だから、私の立場を考え離縁をしたいと決して言わないでいてくれた。
私には隠しているつもりだったけど、時折見せる苦悶の表情が彼の胸中を物語っていた。
それでも彼は他人のような正妻にもいつでも優しい人だった。
愛そうとはしなかったけれど、彼はできる限り尽くしてくれた。
だから彼を恨んではいない。
彼は今、なにを考えているのだろう。
少しは私との離縁を戸惑ってくれているだろうか。
少しでいいから動揺して欲しいとを思ってしまう私は…愚かだろうか。
「分かった、君の言う通りに別れよう。私に落ち度があったのだから慰謝料も払うし、できる限りのことはさせてもらうよ。…こんな結果になってしまって本当にすまなかった、マリア。謝っても許されることではないが謝りたい。記憶を取り戻せずに君を苦しめ本当に申し訳なかった」
離縁を受け入れ真摯に謝り続ける夫。
そこに離縁への喜びはなく、心からの謝罪だと伝わってくる。
だけど彼の口から私を引き止める言葉は出てこない。『待ってくれ』とは言ってくれない。
それは想像していた通りの反応なのに、この期に及んで寂しいと思ってしまう。
そうよね…、出てくるはずないわ。
だって彼は安堵としているじゃない。
私ったら…なにを期待していたの。
…駄目ね……本当に…。
捨てたはずの淡い期待がまだ心の奥に残っていたのに気づく。
だがそれに縋る気力は私にはもう残っていなかった。




